始まるこれからの時間07
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 少し時間をおいて、冷静になってから部屋を出た。隣にある穂村の部屋を覗いたら、ベッドで眠っているのがわかった。傍に近寄っても起きる様子はなくて、確かめるように頬に触れたら温かくてほっとする。
 漠然とした不安はこの先、別れることになるのではないか、と言う不安ではなくて、自分のせいで彼を失うかもしれないという不安だったのかもしれない。

 いまの穂村は出会った頃に比べたら、いや――比べる必要がないくらい元気になった。すぐに熱を出すこともなくなったし、風邪を引いたりぜんそくを引き起こしたりすることもなくなった。
 健康的な人に比べたら多少不自由な部分はあるけれど、それでも当たり前のように友達と出かけることもできるし、こうして引っ越しという新しいこともできた。

 しかし彼は少し自分を過信している気がする。以前よりも動けるようになったから、少しくらい大したことはないなんて思い始めている。
 その些細な油断が、取り返しのつかないことを引き起こすことだってあるのに、それをわかっていない。そしてこちらの心配も十分に理解していないところがある。

 心配しすぎるから無理をしてしまう、それもあるかもしれない。けれど見ていてヒヤヒヤするのだ。そんなに先急がなくても、なにもなくなったりしないのに。
 自分と肩を並べたくて背伸びをするのだとしたら、無理をするのだとしたら、やはり自分たちは一緒にいないほうがいいのではないか。

 だがそれは自分の勝手な考えだ。見ているのが怖いから、逃げの口実にしている。
 自分がずっと傍にいたから、穂村はいまの自由を手に入れた。一緒にいて良かったと思えることはたくさんあるはずだ。無駄なことは一つもない、それはわかっている。それでも考えてしまう。

「穂村、このまま一緒にいるのがいいことなのか。わからないんだ。幸せなのに、不安でならないんだ。どうしたらいいのか、わからない」

 傍にいるほど不安で怖くて、そこにいるのが苦しく思える。
 もっと自分が彼を支えていけばいい。彼が途中で転んでしまわないように、その手をしっかり握ってさえいればいい。
 それは頭ではわかっているのに、上手くそうしてあげることができずにいる。

「あの時のことがまだトラウマになっているのかな。あんたがいなくなるって考えるだけで、息が止まってしまいそうなんだ。この手を離したくないけど、離さなくちゃいけないのかなって考える」

 そっと触れた手は男性らしい大きな手だ。この手で掴むものはこれから先、たくさんあるだろう。自分なんかの手を握っていたら、大事なものを取りこぼしてしまうのではないだろうか。

「春樹」

「……穂村?」

「駄目だよ、一人で泣いちゃ」

 握った手がきゅっと握り返された。視線を上げるとこちらを見つめる眼差しがある。暗がりの中でもわかるキラリと光を含んだ優しい瞳。
 その目に自分が映る瞬間が嬉しかった。まっすぐに自分だけに向けられているのがわかるから。けれどいまは胸が痛い。

「もう、春樹は本当に不器用だなぁ。そんなにいっぱい胸に色んなもの詰め込んだら、苦しくなるのは当然だよ」

 静かな中にさらりとタオルケットがこぼれる音がして、伸びてきた手が頬に触れた。いつの間にか溢れ出していた涙を拭う手は優しくて、胸の奥がきゅうときつく締めつけられる。

「春樹の泣き顔は可愛いけど。こういう涙はあんまり好きじゃない。一人で泣かないで、ちゃんと俺に手を伸ばしてよ」

 近づいてくる気配。頬を包む手に力がこもって引き寄せられた。やんわりと押し当てられた唇は柔らかくて、目を閉じたら頬に幾筋も涙がこぼれる。
 数センチ先の瞳がじっとこちらを覗き込むと、また口づけられた。先ほどよりも深いそれに、自然と唇が薄く開き、隙間に滑り込んだものに口内を撫でられて、肩が震える。

「春樹が泣くのは俺の腕の中だけにして」

「……だけど、不安なんだ。幸せの分だけそれが降り積もって、苦しいんだ」

「ごめんね。俺がこんなだから、いっぱい心配かけちゃって。やっぱりもう一緒にいたくない?」

「一緒に、いたくないなんて、嘘だ。離れたくない。あんたを失いたくない」

「うん、俺も離れたくないよ。春樹を手放すなんて考えられない」

 両腕を伸ばしたら強く抱き寄せられた。昔だったら考えられないくらいの強い力。引き寄せられるままにベッドに乗り上がると、そのまま押し倒された。
 真正面から覗き込んでくる目に羞恥が湧いて、とっさに目をそらしたら指先で顎を掴まれる。そして引き戻されて、また唇が近づいた。

「……んっ」

「駄目だよ。春樹は全部俺のなんだから。髪の一筋もすべて、俺のだよ。誰にも渡さない」

「ぁっ、駄目だ。さ、作業で汗掻いてるし、今日は穂村はゆっくり寝たほうが」

 シャツの隙間から差し入れられた手に肩が跳ね上がる。逃げるように身体をよじったら、齧り付くみたいに首筋に歯を立てられた。痛みともつかないじわりとした感覚。
 身じろぎできなくなって固まれば、さらに何度も甘噛みされて、舌で撫でられて、噛みつかれて、繰り返されるたびに身体に熱が灯る。

「ほ、ほむらっ」

「こんな可愛い春樹をお預けなんて。自分のことながら腹立たしい」

「今日は、我慢してくれ」

「うん、今日は一緒に寝る約束だしね。明日からはいっぱい食べるから」

「ほどほどに、して、欲しい」

「この家だったら、壁の薄さ気にしなくても良さそうだよね」

 ふいに意地悪い顔を見せた恋人に、いままでとは違う不安が湧いた。口元に笑みを浮かべながら再び近づいてきて、口の中を荒らすみたいにたっぷりと味わっていく。
 息を継ぐ間もないほどのキスに手を伸ばせば、その手を握られてシーツに縫い止められた。

「ほ、むら、もう……もう駄目だ」

「うん、このくらいで我慢する。……ねぇ、春樹」

「なに?」

「俺もいつも不安だよ。春樹がいつかもっといい人見つけて、いなくなっちゃうんじゃないかって。俺みたいな子供をいつまで相手にしてくれるのかなって。だけどね、俺は絶対にこの手を離すつもりないし、もっといい男になって目移りできないくらい春樹を繋ぎ止めるから」

「どこにも行かないよ」

「うん、俺も春樹を独りにしないよ。俺、春樹といて良かった。一緒にいるから頑張れるんだ。諦めたり妥協したりしなくなったし、嫌なことも苦手なことも克服できるのは全部、春樹のおかげ。もっと健康になって、心配かけるのを半分くらい、んー、三分の一くらいにはしたいかな。それでさ、色んなところに行きたいよね」

「穂村」

「言ったよね。俺が幸せにするって。あの約束は一生有効だよ」

 繋いだ手が引き寄せられて、なにかを誓うみたいに指輪に唇を落とす。そして頬に寄せられて、すり寄るようにしてくる。その仕草が可愛くて、目を細めたら彼もやんわりと目を細めて笑う。

「最近はちょっと浮かれすぎてたのかも。色んなものが楽しくて、春樹の不安を見逃してた。振り返れば、きっと気づける場面はたくさんあったはずなのに、ごめんね。ずっと苦しい思いをさせて」

「いいんだ。黙っていた自分も悪いし、穂村が毎日が楽しいって思えているのは嬉しい」

「ほらまた出た、謙虚!」

 ちょんちょんと鼻先に指先が触れたかと思えば、ふいにそれに摘ままれた。驚いて目を瞬かせると、困ったように笑った穂村は額に口づけてくる。そのぬくもりに、不安がほんの少しほどけた。
 自分に胸が苦しくなるほどの不安を与えるのも、胸が温かくなるような愛情をくれるのも、彼しかいない。

 いままでまともな恋愛をしてこなかったから、こんな気持ちになったことがなかったけれど。もしかしたら他人に心を揺り動かされる――これは、人を好きになると必ず通る道なのかもしれない。

「きっとこれからも不安は尽きないと思う」

「うん」

「それでも一緒にいることで生まれる大切なものは、その何倍も増えるだろうとも思う」

「そうだといいな」

「これからはちゃんと言葉にする。なんでも伝える」

「うん、そうしてくれたら嬉しい」

 身体を起こして向き合うと、なぜか穂村は居住まいを正すように正座をした。それに首を傾げれば恭しく両手を握られて、口先に触れるだけのキスをくれる。

「俺もなんでも言うよ。これからは二人で解決していこうね」

「そうだな」

「俺を一生の伴侶にしてね」

「うん。……そのことだけど」

「な、なにか問題でも?」

「いや、そうじゃなくて。引っ越しもしたし、これからも一緒にいるだろうから。……言っておこうと思うよ。親に穂村のこと」

「え! ほんと? 挨拶に行く? 俺、いつでもいいよ!」

 躊躇いがちに気持ちを口にすると、目の前の身体が前のめりに近づいてくる。ぐいぐいと来るそれを押し止めたら、弾けるような笑みを浮かべた。ウキウキとした、気持ちが高揚しているのがわかる楽しそうな笑顔。

「とりあえず話をしてからな」

「あ、そうだよね。反対されても困るし」

「それはないと思うけど。きちんと理解してもらってからかな」

 ずっと切り出せなかった。きっと驚かれるだろうが、ひどく反対されることはないとわかっていても。
 それはどうせそんな恋愛は長続きしないと、昔の恋愛のように簡単に片付けて欲しくなかったからだ。穂村を好きになったことを、単なる気の迷いだったと思われたくない。

 ほかの恋愛とひとまとめにされるのが嫌だった。これはいままでの気持ちとは違う。ちゃんといまの自分は心から人を愛せている。

「春樹、なにかあったら言って。二人でいるんだし、二人で乗り越えるほうがきっと楽だよ」

「うん。……穂村はやっぱり強いな」

「それは春樹が好きだから、愛してるから強い男になろうって思えるんだ」

「そのうち自分も強くなれるのかな」

「なれるよ! どんな時でも助け合って、支え合って、一緒に歩いて行くんだから。二人でいるってそう言うことでしょ?」

 病める時も健やかなる時も――そんなお決まりの言葉が頭に浮かぶ。
 二人で一緒にいることの意味、それを深く考えたことはなかったけれど、彼が言うとなんでもそうだと思わずにいられない。

「穂村、これからもよろしくな」

「こちらこそ、末永くよろしくね」

 嬉しそうにはにかんだ、その笑顔を護るために、これからはもっと前を向いていこうと思う。二人の新しい時間は、きっとたくさんの幸せをもたらしてくれる。
 幸せを幸せと当たり前に感じられる、そんな毎日がこれからやってくるはずだ。

始まるこれからの時間/end

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