甘色-Amairo-/02

 長くこの店に出入りはしているが、こういった甘い駆け引きに蒼二は正直弱かった。いつもなら照れくささとむず痒さですぐに誤魔化してしまうところだが、明良の視線はそれを許してくれない。これが経験値の違いなんだなと蒼二は小さく息をついた。

「あー、えっと、紘希のことだよね。うーん、そうなのかな。実のところ、手を繋いだのも三ヶ月前で、キスしたのも先月で。なんかすごく遠慮されてる気がしてるんだ」

「遠慮じゃねぇって、気の使い過ぎ。触れない理由があるんだよきっと。受け身だけじゃなくて、ちゃんとあんたから迫ってやれよ。気安く触っていいのかわからなくて尻込みしてんだよ。待ってるだけじゃ駄目だって、ほら、できるだろう? こうやってさ」

「え? あ、あの。明良さん?」

 すっと伸びてきた指先に顎を掬われる。顎先を掴まれ引き寄せられるように顔が近づいて、蒼二は驚きに目を見開く。そして艶めいた瞳に見つめられて頬が熱くなるのを感じた。夜の闇を溶かしたような漆黒の瞳に自分が映っているのを見つけて、思わず息を飲む。

「蒼二さん?」

 身動きできずに明良の視線に絡め取られていると、背後から聞き馴染みのある声が聞こえてきた。その声に気づいた蒼二は慌てて目の前の明良を押しのける。
 そして声の主をぎこちない動きで振り返った。視線を向けた先では眉間にしわを寄せた恋人が戸口に立っている。まっすぐな彼の目は蒼二をすり抜け、その先にいる明良を見つめていた。

「なにしてるの?」

「紘希! あの、これは誤解だから。なにもないよ!」

「なにもないのに、そんなに顔近づけて見つめ合うの? 蒼二さんちょっと迂闊すぎるんじゃない?」

「そ、それは」

 どんどんと不機嫌になる紘希にうまい言い訳も思いつかず、蒼二は顔を青ざめオロオロとするばかりだ。そんな口ごもる恋人に大仰なため息を吐き出した紘希は、まっすぐに彼の元へと足を向ける。そしてすぐ傍まで行くと蒼二の腕を掴んだ。

「俺じゃ物足りなくなった?」

「そ、そんなことない! あるわけないだろう」

「でも色々と不満はあるみたいだぜ」

「ちょ、ちょっと明良さん! 変なこと言わないで!」

 近づいた二人を引き剥がすように、背後から伸ばされた腕が蒼二の身体を後ろへ引き寄せる。胸元へ蒼二を収めた明良はニヤニヤと悪い笑みを浮かべて紘希を見つめた。まるで出方を探るような視線を向けられて、紘希の目が鋭くなる。

「手に入れたことに安心してのんびりしてると、俺みたいなのに横入りされちまうぞ」

「なに言ってんの明良くん! 冗談はやめなさいよ! 蒼ちゃんが困ってるでしょう」

「蒼二さん、正直に答えて、ここでなにを話してたの?」

「そ、それは、あの、ちょっと言いにくいって言うか。それについてはあとで二人の時に話したい。それじゃあ、駄目?」

 うろたえて目を泳がせる蒼二をじっと見つめていた紘希は小さく息をついた。そして視線を上げて明良を睨むように目を細める。けれど黙っていても明良は抱き寄せた蒼二を離しはしない。その意志に気がついた紘希は恋人の腕を引いて、まっすぐ明良に向かって声を上げた。

「蒼二さんを離してください。俺を試しているのだとしても、苛立たしいです」

「そういう感情をさ、もっと普段もはっきり出したら? 言葉が足りないと伝わらないぜ。恋人不安にさせるなら、言い過ぎなくらいでもいいと思うけど?」

「離してください」

 明良の言葉を聞き流すように紘希は再び声を上げる。その気持ちを曲げない態度に、明良は肩をすくめて蒼二から腕を放した。
 するとそれと同時に紘希は腕を強く引っ張りその身体を自分に寄せる。強く腕を掴まれた蒼二は彼の苛立ちをあらわにする表情を見て心許ない顔をした。

「蒼二さん、帰ろう。ちゃんとあなたの口から話が聞きたい」

「うん、わかった。ミサキさん、お会計して」

「いいわよ! 迷惑料で明良くんにつけておくから」

「なんだよ。俺は別に悪いことしてねぇだろ」

「恋人の仲を引っかき回した罰よ!」

 悪びれた顔も見せずに口を尖らせた明良は、ミサキの呆れた視線にもまったく堪えた様子はない。それどころか視線を向けた蒼二に片目をつむる余裕さえ見せる。しかし傍にいる紘希の不機嫌さを感じる蒼二は苦笑いを返すしかできない。

「蒼二、押しても引いても駄目なら、俺のところに来いよ」

「明良くん! 黙りなさい! 蒼ちゃんもういいわよ、早く行きなさい」

 楽しげな目をする明良と心配げな目をするミサキに見送られて蒼二は店を出た。目の前を歩く背中はまだ機嫌が直っていないのがわかる。
 なんと声をかけようかと迷っていると、振り返った紘希が手を差し伸べてきた。その手をしばらくじっと見つめ、紘希の顔を見つめ、蒼二はようやく手を伸ばして手のひらを握った。
 手のひらの熱がお互いに伝わるとぎゅっと指を絡ませ握りしめられる。再び歩き出した紘希の後ろ姿を見つめ、蒼二は少し胸を苦しくさせた。

「蒼二さん、俺、少し怒ってるよ」

「うん、ごめん。ちょっと軽率だった。長い付き合いだからって気が抜けてて」

「そういうおっとりしたところ嫌いじゃない。でも正直、心臓が止まりそうだった」

「ごめん、紘希。でも俺は、紘希が好きだよ。確かにちょっと明良さんにドキッとはしちゃったけど。それはなんて言うか、紘希も歳を重ねたらきっといまより格好良くなるのかなって、想像しちゃったからであって」

 確かにあの時、蒼二は明良の雰囲気に飲まれていた。けれど彼自身に惹かれたのではなく、その向こうに見えた紘希の姿に心が動いたのだということもわかっている。だから紘希に誤解を与えたままでいるのが蒼二は辛かった。

「ねぇ、紘希。俺は紘希に独占欲を見せられると嬉しいよ。そうじゃないと俺のほうが飽きられちゃったかなとか思っちゃう。紘希は格好いいし、女の子はいつも振り返るし。俺みたいなオジサンでいいのかなって」

 紘希は言葉が少なく、表情も豊かなほうではないが、凜々しい顔つきは男らしい。背幅も広く痩せた印象もないので、見目がとてもよかった。二人で歩いている時に紘希を振り返る女の子は多い。
 いままで言葉にはしなかったが、それを蒼二はもどかしく感じている。自分がもう少し若かったら、もう少し見目が綺麗だったらと蒼二はいつも考えた。

「蒼二さん、いつも言ってるけど。蒼二さん全然オジサンとかじゃないよ。思っている以上に若いし、蒼二さんを振り返る女の子だって多い。俺だって、俺みたいな子供じゃ釣り合わないかなって思う。あの人みたいに大人びていたら、蒼二さんをもっと安心させてあげられるのかなって。でも、あの人だって蒼二さんより年下だよ」

「え? そうなのか?」

「やっぱり気づいてない。あの人、あの店に十七の時から出入りしてるから、今年二十七か二十八くらいだって前に聞いた」

「そ、そうなんだ。ずっと同じくらいだと思ってた」

「だからさ、年齢って関係ないと思う」

 繋いだ手に力を込めた紘希は腕を引いて蒼二を引き寄せた。道の真ん中で立ち止まって紘希は目の前の身体を目いっぱい抱きしめる。隙間がなくなるくらい抱きしめ合えば、触れ合った場所からぬくもりが広がった。その熱を感じた蒼二は誘われるように紘希の背中に腕を回す。
 ぴったりと身体が触れていると、お互いの鼓動が伝わった。少し早い胸の音が重なって、どちらの音が響いているのかわからなくなる。

「蒼二さん、なにを悩んでたの」

「それは、その」

「俺には言えないこと?」

「ち、違う。紘希にちゃんと言わなきゃいけないこと」

 顔をのぞき込まれて蒼二は頬を熱くした。しかし思わず伏せてしまった視線を持ち上げて、自分を窺い見る紘希の顔を見つめ返す。
 視線を合わせると余計に顔の火照りが増すが、それでも目をそらしてしまわないようにまっすぐに見つめる。そして深呼吸するように大きく息をついて、気持ちを落ち着けると意を決したように口を開いた。

「あのさ、紘希。どうして俺に手を出さないんだ」

「え?」

「ほら、一緒に寝てても俺に触れようとしないだろう。正直言うといつも期待してるんだけど。それって俺だけの感情なのかな? 紘希は俺と一緒にいてもその気にならない? 俺ってそんなに魅力がないかな?」

「それは」

 言葉に詰まったように紘希は口を引き結ぶ。なにかを考えているのは目に見えてわかったが、蒼二は意識を引き戻すように目の前にある唇に自分のものを重ねた。
 押しつけるように口づけると、紘希は驚きに目を見開く。普段大人しい蒼二は道ばたでこんな風に触れたりはしない。それをわかっているからこそ戸惑っていた。

「蒼二さん」

 両肩に手を置いて引き離された蒼二は不安げな眼差しを恋人に向ける。その揺れた瞳に紘希はひどく胸をざわめかせた。このまま流されるのはいけないと思っても、触れずにはいられなくなる。
 いまにも潤みそうな瞳を見つめて、両手を蒼二の頬に添えるとゆっくりと唇を合わせた。柔らかく優しく触れれば、蒼二の手に力がこもって、背中をぎゅっと握る手は離れまいとするように紘希を抱きしめる。

「紘希、もっと欲しがって、俺はいつでも待ってるんだけど。俺があんまりがっついたら引かれるんじゃないかって思ってなにもできなかったけど。もっと触れて、もっと」

 甘やかな蒼二の言葉は再び触れた紘希の唇に押し止められた。先ほどまでとは違う触れるだけではない口づけに蒼二は肩を震わせる。
 唇を優しく撫でた舌は口内に滑り込み蒼二のものを絡め取った。息を飲み込まれてしまいそうな口づけに蒼二は鼻先から甘えた声を漏らす。けれど声を漏らせば漏らすほどに、口づけは深くなる。

「紘希、待って。ここじゃなくて、ちゃんと」

「……ごめん。少し先走った。蒼二さんの家に行く?」

「ううん、待ちきれないから、近くでいい」

「うん、わかった」

 ようやくお互いの身体を離すと夜風があいだを通り抜けていく。その冷たさにどれほど気持ちが急いていたか、それを感じて顔を見合わせると二人は苦笑いをした。火照った頬や身体をひんやりとした風に撫でられて、少しずつ冷静になる。
 道の真ん中で立ち止まってしまったが、幸い表通りには出ていなかった。人の視線を感じはしたが、奇異な目で見られてはいない。二人は再び手を繋ぐとゆっくりと歩き出した。