甘恋-Amakoi-/06
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 夜の闇に浮かぶ月は冴え冴えとして美しい。熱い湯に浸かりながら天井を見上げれば、こぼれ落ちそうなほどの星が見える。それは澄み切った空で眩しいほど白い光を放っていた。
 そんな幻想的な景色に酔いしれながら、蒼二はほうと息をつく。そして大きな湯船でゆったりと足を伸ばし、腕に温泉の湯を滑らせた。柔らかな湯は心地よく、芯まで身体を温めてくれる。

 部屋にある内風呂は半露天になっており、景色が見える大きな窓と天窓がついていた。洗い場は小さいが、湯船は蒼二が満足いくほど大きい。湯の温度も長湯をしてものぼせない丁度いい温度だった。おかげで蒼二はいまかなり気分がいい。

「やばい、ずっと入っていたい」

 これは寝る前にもう一度入ってもいいかもしれないと、蒼二は口を綻ばせて笑う。しかし風呂に入ってから随分と時間が過ぎた気がする。昼間の食事は味気なくて腹に溜まった気がしなかったので、夜はしっかり堪能したい。
 お腹が空き始めた感覚から推測するともう一時間くらいは経っていそうだ。もう少し、という後ろ髪を引かれる思いを飲み込むと、蒼二はゆっくり湯船から上がった。

「紘希、まだ戻ってないのか」

 浴衣に着替え部屋を覗くと室内はしんとしていた。そこに紘希が戻ってきた気配はなく、風呂へ出かけたまま戻っていないようだ。携帯電話も確認してみるが連絡は来ていない。
 時計を確認すると十九時を少し過ぎている。蒼二が部屋の風呂に入ったのは十七時半過ぎ頃だった。蒼二とは違いそれほど長風呂ではない紘希にしては珍しい。

「もしかして、幹斗くん?」

 戻ってこないのはまた彼に捕まっているからじゃないかと不安が浮かぶ。慌ただしく羽織を着ると、携帯電話を片手に蒼二は部屋を飛び出した。そして渡り廊下を抜けて玄関の広間まで出れば、受付にいた富に声をかけられる。

「喜多さま、どうかなさいましたか?」

「あの、俺のツレを見ませんでしたか?」

「お連れさま、沢村さまですね。それでしたら少し前に買い物へ行くと外へ出られましたよ」

「買い物? そう、ですか」

 一体なにを買いに行ったのだろうと思いはしたが、声をかけて出かけたのならばそのうち戻るだろうとほっと息を吐いた。少し焦りすぎていた自分に気づいて、蒼二は苦笑いを浮かべる。

「お待ちになるのでしたら、そちらにお座りになってはいかがですか? いま膝掛けをお持ちいたしますよ」

 立ち尽くす蒼二に富はやんわりと笑みを浮かべ、玄関の隅にあるソファとテーブルが二組ずつある広間を勧める。確かにここで待っていれば行き違うこともないだろうと、蒼二は礼を言ってそこへ足を向けた。
 そして五分ほどぼんやりとソファに座っていると、ふいにすぐ傍に人の気配を感じる。富だろうかと思ったが、人陰はそれより身体が大きく威圧感が違う。それを確かめるように顔を持ち上げれば、こちらを見下ろす昭矢の姿があった。

「富から預かりました、膝掛けどうぞ。暖房は入ってますが、玄関は少し冷えますからね」

「ありがとうございます」

 差し出された柔らかな膝掛けを受け取って蒼二はにこやかな昭矢に小さく笑みを返す。けれどそのあと一瞬沈黙になり、どう対応したものかと考えてしまう。相変わらず昭矢はじっと蒼二を見つめていて、なにかもの言いたげな雰囲気を感じる。

「あのもしよかったら隣どうぞ」

「ああ、すみません」

「あの、俺になにか用ですか?」

 ずっと横に立たれているのも気になって仕方ない。空いた片側を勧めると頭を下げながら昭矢はそこに腰を下ろした。こうして座ると言うことは、なにか用があるのはわかりきっている。しかしじっと隣にある顔を見つめれば、向こうも蒼二をじっと見つめてきた。

「あの、昭矢さん?」

「いや、なんだか喜多さんは色っぽいですね」

「は?」

「すみません。正直な感想であって、邪な気持ちがあるわけではないです。あの、つかぬことを伺いますが、もしかして喜多さんって紘希のいまの恋人ですか?」

 突飛なことを言う昭矢を訝しく見ていた蒼二は、突然問いかけられた言葉に驚いたように目を見開く。返事をできずに固まっていると、じっと瞳の奥をのぞき込むみたいに見つめられた。
 その視線を受け止めながら蒼二は考える。親しさを見る限りおそらく昭矢と紘希は幼い頃からの幼馴染みなのだろう。それを想定して考えてみると、紘希の性癖に気づいてもおかしくはない。そして幹斗と紘希が付き合っていたことも知っている。
 なぜなら昭矢は蒼二のことを――いまの恋人、と言ったからだ。

「そうですが、なぜそんなことを聞くんですか?」

「いや、もしそうなら謝らなければと思って」

「なにを?」

「ずっと幹斗の話をしていたの、気分悪かったですよね。それに二人で出かける時にもついて行くのを止められなかったし。本当にすみません。幹斗も悪いやつじゃないんですけど、別れ方が曖昧だったから多分未練が残ってるんじゃないかなと」

 深々と頭を下げた昭矢を見ながら、蒼二は少し重たい息を吐き出した。幹斗がいかに厄介者であっても昭矢にとっては大事な幼馴染みなのだ。フォローをして当然だろう。しかし蒼二はそんなことよりも言葉の先が気になった。

「別れ方が曖昧って?」

「ああ、なんだかひどい喧嘩をして、意固地になって連絡を取らなかったら自然消滅してしまったらしいです。時間が経ちすぎて連絡できなくなったようで、まだ別れた自覚がないのかも」

 もう一年くらい前に紘希は別れたと言っていたが、そんなことになっていたのか。道理であれだけ遠慮なくあいだに割り入ってこられるはずだ。幹斗から見れば蒼二のほうが横入りしてきた相手に映るのだろう。それを知ると蒼二は深いため息をつく。

「俺のほうからも言って聞かせるんで」

「いえ、気にしないでください。それに幹斗くんって執着してるの紘希だけじゃないですよね? かなり昭矢さんにもヤキモチ妬いてる風だったけど」

 昭矢が蒼二に触れた時の幹斗の顔と言ったら、鬼の形相だった。下手に触れたら引っかかれそうな勢いがあった。けれどそれはなんだか子供のような独占欲だと蒼二は思う。お気に入りのものに触れられるのをひどく嫌がる幼子だ。

「俺と幹斗は本当に子供の頃からずっと一緒なんですが、俺もこの仕事始めるようになって幹斗に構ってやれなくなってしまって。だからちょっと前まで疎遠だったんですよね。縁があってうちに来ることになって、昔の感覚に戻ったのかな」

 困ったように昭矢は笑うが、本音のところはそんなに困っていないように見えた。むしろその我がままを可愛いと感じている節がある。それはそれで構わないと蒼二は思うのだが、言い聞かせるよりも気をそらしてもらったほうがいいと息をつく。
 どう見ても幹斗は口で言ったところで納得するタイプには見えなかった。それに他人に二人の問題を解決してもらうのは気が引ける。出口の見えないこの微妙な関係図に、頭の痛みを覚えた蒼二は眉間に深いしわを刻んだ。

「喜多さん、本当に困ってるなら頼ってくださいね」

「え? ああ、はい。ありがとうございます」

「幹斗も喜多さんが傍にいるんだから、どういうことかわかると思うんですけど。紘希と幹斗は付き合っていたのが長かったから、なかなか忘れられないのかな」

「そんなに長いんですか?」

「ああ、二人が高校を卒業する少し前くらいから。紘希について都内に出て行ったんですよ、あいつ」

 ため息交じりに語る昭矢の言葉を聞きながら頭で数を数えた。少なく見積もっても四、五年は一緒にいたと言うことになる。そう考えると紘希の幹斗への甘さはなんとなく頷けた。最後には怒ってくれたが、幹斗の我がままに紘希はそれほど嫌な顔をしていない。

「紘希も色々と家と揉めて辛い時期だったんで、お互い支え合ってよくやってたと思ったんですけどね。幹斗はやっぱり我がままだからな」

「昭矢さんはその我がままが可愛いって顔に書いてありますよ」

「えっ! 俺は、いや、そう言うんじゃないですよ。幹斗は弟のような、いや、ほんとですよ」

 顔を真っ赤にして慌てる昭矢は照れくさそうに首の後ろを掻く。それを見ていると、どうせだったらこっちとくっつけばよかったのに、なんて考えが蒼二の中に浮かんでしまう。そうしたらこんなに悩まされることもなかった。

「それにしても、紘希のやつどこまで行ったのかな?」

 ふと壁掛けの時計を見上げると、昭矢が隣に座ってから二十分ほど過ぎているのに気づいた。握った携帯電話を見てみるが、相変わらず着信はない。

「そういえば、幹斗の姿も見えないな。ちょっと! 幹斗をどこかで見なかったか?」

 訝しげに首を傾げた昭矢は後ろを振り返って受付にいる女性に声をかけた。するとその女性は少し目を瞬かせ、小さく首を傾げる。

「幹斗くんなら三十分くらい前に、沢村さまのあとを追いかけて外に出かけていきましたよ?」

「え? 幹斗のやつ、紘希を追いかけて行ったのか? ったく、目を離すとすぐこれだ。喜多さん捜しに行きましょう」

 女性の言葉に昭矢は慌ただしく立ち上がった。そしてぼんやりとしていた蒼二の手を掴んで、力任せに立ち上がらせる。その勢いに蒼二は驚いた顔をして固まるが、じっと顔を見つめられて戸惑いながらも小さく頷いた。

「夕方に出かけた時に幹斗のやつなにか言ってませんでした?」

「うーん、なんだったろう。……あ、そうだ。日が暮れたら高台に行こうって」

「星見の高台か。あそこ復縁のジンクスがあるんだよな。まあ、紘希なら大丈夫だろう。とりあえず行ってみましょう」

「あ、はい」

「でも待った。その格好だと風邪引くから。上着を取ってくるんで待っててください」

 そのまま勢いで出て行ってしまいそうな昭矢だったが、蒼二の姿を見て足を止めた。風呂上がりなので、浴衣と羽織しか着ていない。ここは山間で雪が降ってもおかしくないほどの寒さだ。このまま出たらまず寒さで動けなくなる。
 しばらく玄関で待っていると、グレーのダウンジャケットを着た昭矢が戻ってきた。手には着ているものと同じものを持っていて、それを恭しく蒼二に着せてくれる。綿のたっぷり入ったダウンジャケットは着るだけで暖かかった。

「じゃあ、行きましょう」

 ようやく準備が整うと、昭矢は蒼二の手を取って大きく一歩足を踏み出す。その後を蒼二は少し急ぎ足で追いかけた。

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