突然始まった、少し奇妙な同居生活は思ったほど、居心地が悪くない。むしろいいと思えた。
リュウは素直で、まっすぐな性格をしているので「ノン」と言えばすぐに従う、まるで忠犬のようだ。
吸収して覚えるのも得意なようで、数日を過ぎたいまは、言葉もだいぶマシになってきた。
言葉を交わすようになってからは、ぼんやりと遠くを見つめることが、少なくなったように思う。
時折ふと我に返ったように、静まることもあるけれど、いまは笑顔が増えて見ているこちらまで、気分がよくなるほどだ。
彼には太陽のような眩しい笑顔がよく似合う。だからこのまま思いつめるような過去など忘れて、楽しく笑って過ごせたらいいのにと思ってしまう。
「宏武、オムライス、入れる、なに?」
「うーん、鶏にタマネギ、にんじんにコーン、グリンピースとか?」
問いかけられた言葉に首をひねりながら、冷気を漂わせるスーパーのショーケースの前で、ふるりと身震いした。
真夏はこの冷気が涼しくていいが、中途半端ないまの季節では、少し肌を冷やし過ぎる。
両手で腕を抱いて、半袖からのぞいた二の腕を、手のひらでさすってしまう。けれどそんな自分の隣で、真剣な顔してリュウは鶏肉を選んでいた。
この冷たさが気にならないほど、集中しているのだろう。
鶏肉選びに余念のない、彼の横顔を見ながら、ふとうちのチキンライスはどんなだっただろうと思い返す。しかし思い出すのは、コンビニや惣菜店のチキンライスくらいだ。
そういえばうちは共働きで、夜も遅かったので、昔から出来合いの惣菜や弁当を食べて育った。
そこで自分で作る、という選択肢にならなかったのは、我ながら無頓着な自分らしいなと思う。
いま家にある調理器具と言えば、フライパンに片手鍋、両手鍋くらいのものだ。けれど料理をしない人間なのに、ここまでのものがあれば十分だろう。
「デミグラスソースって缶詰になってるんだ」
「これ、味、……直す、とおいしい」
「ふぅん」
最近は言葉が不慣れなリュウに付き合って、毎日のように近所のスーパーに買い物に出ている。
いままでスーパーで買うものと言えば、飲み物や弁当くらいのものだったが、彼の持つカゴにはいつも、生鮮食品があれこれと入っていた。
彼は料理をするのがとても好きらしく、それを作っているあいだは鼻歌まで聞こえてくるほど、上機嫌だ。
作る料理の名前はよくわからないが、煮込み料理やオーブンを使った料理が主で、正直な感想どれを食べてもおいしい。
いままでコンビニ弁当が主食だったから、余計に感じるのだろうけど、それを差し引いても料理は上手だと思う。
作ったことのないものも、レシピを見れば大体のものは作れるようだ。
「宏武、あとなに?」
「ん、あー、野菜ジュースが切れた」
「じゃあ、あっち」
なんだかんだでリュウは、自分よりスーパーに詳しくなっていた。買い物をしていると、前に立って歩くのはいつも彼だ。
言葉もそうだが、基本的に物覚えがいいのだろう。だから一度教えたことは、すぐに吸収してしまうのだ。
そんな彼は必ずと言っていいほど、なぜか後ろを歩く自分の手をごく自然と握ってくる。
握られた手を引かれて歩くのは気恥ずかしいが、まったく意識していない彼に、過剰に反応するのが嫌で、つながれた手はそのままにしている。
時折人の目が振り返るけれど、それもいちいち気にしていると気疲れするので、考えないことにした。それに彼の手のぬくもりは嫌ではない。
「雨、まだ降ってるね」
「今日は一日雨だ」
買い物を済ませて外へ出ると、相変わらず雨がしとしと降っている。家を出た時よりも、幾分小降りになっている気はするが、それでも雨はやまない。
気がつけば重たいため息を吐き出していた。
やはり雨は憂鬱だ。気分が重たくなって、雨の中を歩くのも億劫になる。
「宏武、行こう」
「ああ」
ビニール傘を開いて、リュウがこちらを振り返る。その視線にしぶしぶ自分も傘を開き、雨の中へ足を進める。マンションまでは一本道で五分ほど歩けばいい。
しかしポツポツと傘を叩く雨の音が耳障りだ。
なんだか水の中を、もがいているような気分になる。それがとても息苦しくて、縋るように目の前の腕を掴んでしまった。
「宏武?」
不思議そうな顔でリュウが振り返ったけれど、思わず顔を俯けて視線をそらしてしまった。しかし掴んだ腕は放せず、ぎゅっと力を込めてしまう。
なにをしているんだろうと、自分の行動に呆れる。
いくら連日の雨で気が滅入っているとはいえ、こんなところで彼に縋っても仕方がないというのに。
けれどリュウはなにを思ったのか、差していた傘を折りたたむと、こちら側へと肩を寄せてきた。
それほど大きくない傘に、大の大人が二人肩を並べて入る。自然と彼が濡れないよう、傘を持ち替え傾けるけれど、そもそもなぜ、ここで相合い傘をしなくてはならないのだろう。
しかし肩が触れるほど近づくと、なぜか不思議と落ち着いた気分になった。雨よりも隣に立つ彼の存在のほうが、強く感じるからだろうか。
彼は根暗な自分と対極にいるかのように、元気がよく明るい朗らかな眩しい存在だ。
そんな彼が自分の傍にいる――たったそれだけのことで、少し雨が遠ざかるような気持ちになる。
他愛のない話をしているだけでも、彼の鼻歌を聞いているだけでも、なんだか気持ちがとても軽くなっていく。
出会ったばかりなのに、彼が隣にいることが、心の癒やしのように感じられるのだ。
それは彼に邪気がないからだろうか。自分を見つめる瞳は、いつも陰りがなくとても澄んでいる。俗世に汚れたところがないみたいに、真っ白だ。
「宏武、濡れてる」
「仕方ないだろう。こんな傘じゃ二人収まるのは無理がある」
「こっち向け過ぎ」
「ちょ、リュウっ」
傘を持っていた手に、彼の手が重なる。大きくて綺麗な手は、傘を持つ自分の手を握り込めてしまうほどだ。
さほど自分も手が小さいわけではないが、手のひらも大きく指も長い彼と比べれば、一回りくらいは小さいかもしれない。
重なった手は、傾けていた傘をまっすぐにすると、今度は濡れた左肩を抱き寄せる。
ふいに引き寄せられて、思わず胸がドキリとした。
彼はただこれ以上、自分が濡れないようにと気を遣ってくれているだけなのに、変に胸がざわめいて、触れられた場所がやけに熱く感じる。
「手を放せ。ちゃんと傘を差すから」
「駄目、宏武。ほら、髪も濡れてる」
肩を抱いていた手が、ほんの少し濡れた毛先をすくった。耳の際にある後れ毛が、風に流れた雨で濡れたのだろう。
これは不可抗力だと言いたいところだが、リュウの顔を見れば眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。
あまりにも真剣な顔をしているので、思わず吹き出すように笑ってしまった。けれどいきなり笑われた意味がわからないのか、彼は難しい顔をしたまま首を傾げる。
その表情がますます自分のツボにはまり、肩を震わせて笑いをこらえてしまう。
彼は感情表現まで素直だ。くるくると変わる表情は、見ていて飽きない。そう、たとえるなら小さな子供のようだ。
笑ったり拗ねたり怒ったり、見ただけで彼の心の内が手に取るようにわかる。裏表がなくてすごく正直なのだ。
そんな彼の傍にいると、毒気を抜かれてこちらまで素直な気持ちになってくる。意地を張ったり、自分を誤魔化したりすることが、なんだか恥ずかしくなってしまう。
「早く家に帰ろう。夕飯楽しみにしてるんだ」
「う、うん」
傘をまっすぐと持ち、少し彼のほうへ身体を寄せると、目をぱちくりとさせて驚きをあらわにする。急に態度を変えたので、戸惑っているのだろう。
そんなリュウの表情が、なんだか可愛くて、つい口元が緩んでしまった。
彼の傍にいると、本当に気持ちが穏やかになる。憂鬱な気分が紛れて、少し足取りも軽くなった気がした。
「宏武、笑うと可愛いね」
「は? なに言ってるんだ。あんたのほうがよっぽど可愛いよ」
「そんなことないよ」
可愛いよ――甘やかに耳元で囁かれて、不覚にも頬が熱くなってしまった。彼は姿形ばかりではなく、性格もよく、言葉を紡ぎ出す声もいい。
こんなにも優れたものばかり持ち合わせて、欠点というものはないのだろうか。
まるで神に祝福された子のようだ。それゆえにこんなにも眩しいのだろうか。
人が聞いたら、大げさだと言いそうなことを考えて、彼の横顔を見つめた。
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