電車を降りたら、雨脚がさらに強くなった気がする。だがいまはそんなことなど気にもとめず、足早にマンションへと向かって歩いた。
そうしていつもの通り道である、公園にさしかかる。
そういえばここで彼と出会ったんだったと、ふいに懐かしさが込み上がってきた。
あの日あの時、自分が雨の中に出かけていかなければ、彼とは出会わなかった。
不精をして外に出るのを先延ばしにしていたら、彼を想って胸を焦がすいまもなかったのだ。
感慨深く思いながら、公園へ足を踏み入れる。すると公園のベンチに誰かが腰かけていた。
黒のコウモリ傘を差したその人は、ベンチの前に足を投げ出し、じっと座ったまま動かない。
こんな雨の中で、なにをしているのだろうかと、訝しく思いながら目の前を通り過ぎる。
「宏武」
ベンチを通り過ぎた瞬間、懐かしい声がした。驚いてその声を振り返ると、傘に隠れていた顔がこちらを向いている。
触り心地のよさそうな柔らかな茶色の髪、精巧な人形のように整った美しい顔立ち。
爪の先まで磨かれたそれは、まるで芸術品のような麗しさだ。けれど彼が血の通った人間であることは、優しい茶水晶の瞳を見れば一目でわかる。
視線が合うと、彼はゆるりと口角を上げて笑みを浮かべた。それは忘れることのできない、愛おしい人の笑み。
「リュウ!」
振り向いてその姿を認めた途端に、自分は傘を投げ出し、その人に向かって腕を伸ばしていた。広い背中に抱きつくと、彼もまた両手で、自分の背を強く抱きしめ返してくれる。
雨に濡れるのも構わず、お互いをその腕に閉じこめた。
頬にすり寄ると、彼はずいぶんとひんやりとしている。どれほどの時間ここにいたのだろうか。
「宏武、風邪を引くよ」
「それはあんたのほうだ」
冷たい身体に熱を移すかのように、きつく抱きしめる。しかしザーザーと降りしきる雨の中では、二人の身体は少しずつ熱を奪われていく。
いつまでもこうして抱き合っていては、本当に風邪を引いてしまうかもしれない。
彼の冷たい頬を撫でて、そこに唇を押し当てた。
「ねぇ、宏武。また俺を拾ってくれる?」
まっすぐな純真な瞳がじっと自分を見つめる。小さく首を傾げて、のぞき込むような仕草をする彼に、誘われるままに自分は頷いていた。
「……いいよ。ついておいで」
落ちた傘を拾い上げて差しかけてやると、それを受け取り彼はゆっくりと立ち上がった。そして歩き出す自分の後ろをついてくる。
まるであの日の再現をしているみたいだった。
それでもあの日とは違うことがある。後ろから伸びてきた手に、空いた片方の手を握られていることだ。
握りしめた手のひらは、お互いの熱が移ってとても温かい。確かに彼がそこに存在するのがわかって、なんだかとても嬉しくなった。
「宏武、全然連絡くれなかったね」
「悪かった。でもいますごく会いたくて、連絡したいって思ってたんだ」
さすがに二年は待たせ過ぎただろうか。なんだか会いたいなんて言葉も、言い訳みたいに聞こえる。
とはいえ気持ちの整理がつくまでは、想いが中途半端になりそうで連絡できなかった。
二年かかってようやく、あの人の影を感じなくなったところだ。リュウにまた会う時は、彼のことだけを考えていられる自分でありたかった。
「もう待てそうにないから、待つのはやめた。今日はそれを伝えに来たんだ」
「え?」
それはどういう意味だろう。もう待てないから、自分のことは諦めると言うことだろうか。
立ち止まって振り返ると、リュウはまっすぐに自分を見つめている。
なんと答えを返したらいいのか、言葉が見つからない。ただ黙って彼を見つめていると、繋いだ手を引かれた。
「宏武、またあの部屋で一緒に暮らそう」
引き寄せられると、傘と傘がぶつかって、自分の傘がゆるりと地面に落ちる。しかし隙間がないくらいに抱き寄せられて、雨は降り注いではこなかった。
ポツポツと傘に雨粒が落ちる音が聞こえる。
それと共に耳元に、ほんの少し早い温かな心音が聞こえた。これは彼の音か、それとも自分の音が聞こえているのだろうか。
「一緒に暮らす?」
「そうだよ。二人で一緒に暮らそう。これからは一緒にいよう」
首を傾げる自分に、彼は瞳をキラキラと輝かせながら言葉を紡ぐ。まっすぐで淀みのない綺麗な瞳だ。けれど言葉が思うように飲み込めない。
「……ピアノは? ピアノはどうするんだ?」
彼の言葉に思わず動揺してしまう。ついこのあいだまで、世界中を飛び回ってピアノを奏でていたじゃないか。
会えない時間もずっと、リュウを追いかけていた。だから彼がどれだけの人に愛され、必要とされているのかも知っている。
それなのにそれを、やめてしまうつもりなのか。一緒にいたいと思ったのは事実だけれど、彼の可能性を摘み取る真似はしたくない。
「契約満了、事務所は辞めた」
「どうして!」
拾って欲しいと言ったのは、連れ帰って欲しい。そういう意味なのだと思っていた。
まさかすべてを投げ出して、自分のところへ来たい、という意味だとは思いもしない。安易に頷いた自分が馬鹿だった。
「宏武の傍にいたいからだよ。俺はあなたの傍でないと生きている心地がしない」
彼に愛されている。必要とされている。それを思えば喜び勇んで飛びつくくらいでも、いいのかもしれない。
だが気持ちは裏腹に沈んでいくばかりだ。胸が苦しくて切なくて、思わず顔を覆い俯いてしまう。涙がこぼれてきた。
彼から大事なものを、取り上げてしまったのかもしれない。取り返しのつかないことを、してしまったんじゃないだろうか。
彼を待ち望んでいる人は、世界中にたくさんいる。その期待を裏切らせてしまったのか。
「宏武、泣かないで。ピアノはやめない。これからも続けるよ」
「……どういう、ことなんだ」
泣き出した自分を見つめ、リュウは頬を伝う涙を拭うように口づける。その優しい感触に顔を上げたら、彼は困ったような表情を浮かべていた。
さらには言葉を探しているのか時折、小さく唸る。
「んー、えっと、そう、フリーになっただけ。仕事はこれからも続ける。フランツが一緒に来てくれたから、仕事の心配はするなって言ってた。時々は日本を離れるけど、宏武も一緒に行けばずっと一緒でしょ。宏武はパソコンがあればどこでも仕事ができるって、フランツ言ってたよ」
思わぬ答えに、顔を上げたまま呆けたようにリュウの顔を見つめてしまった。
ずっと一緒にいるということは、彼と世界を回って歩くということなのか。あまりにも予想外過ぎて、頭の整理が追いつかない。
こんな突拍子もないことを、彼一人で考えつくはずがない。それに誰もがいま注目している逸材を、すんなりと事務所が手放したりもしないだろう。
あの背の高い、緑目の男――隙のない食えない男だ。けれどリュウの不利益になるようなことは、きっとしないだろう。
いままで以上の儲けを期待できると踏んで、独立を後押ししたに違いないからだ。しかし彼が、ほかのことに気を取られることなく、ピアノに専念できるのならばそれもいいかもしれない。
「宏武の傍でピアノを弾いていたい。傍にいさせて」
こんなに周到に外堀を埋められては、頷くしかほかない。もう彼はここまで来てしまったのだから、突き返すわけにもいかないだろう。
それに突き返す理由も見当たらない。彼がピアノをやめずに傍にいてくれるというのだ。
それだけではなく、自分に一緒にいるための翼を与えてくれた。これからはまっすぐに彼を愛していける。腕を伸ばして彼の背中を強く抱きしめた。
しとしと心に降り続けていた雨が、ようやくやんだ。
ポツポツと音を響かせていた雨粒は、もうすぐ消えてなくなるだろう。
その頃にはきっと、自分の中にある曇りは跡形もなく消え去り、澄み渡る青空のような清々しさに、包まれているはずだ。
ずいぶんと遠回りをした気がする。けれどその回り道も、お互いの存在を確かめ合うためには、必要な時間だったのかもしれない。
離れた分だけ愛おしさが募った。自分には彼しかいないとそう思えた。だからもう後ろは振り返らない。
「リュウ、愛してる。あんたの傍で生きていくよ」
ようやく紡げた言葉に頬を熱くする自分を、リュウは満面の笑みを浮かべて抱きしめる。
地面に放り出された、二本の傘が雨粒に濡らされ、雨の調べを奏でていた。
雨の調べ/end
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