朝から雨がしとしと降っている。
低気圧の影響は、今日も身体を重苦しくさせる。それでも以前ほど、雨の日が嫌いではなくなった。
蒸すような湿気や、服が肌にまとわりつく感触はいまだに苦手だけれど、恨みがましく文句を呟くことは少なくなったと思う。
さらには雨音を聞いて、夢を見ることがなくなった。
いまは身体に載せられていた重しが、外れたかのように心が軽くなった気がする。
あの人の影も自分の影も、ほとんど消えかけていた。あともう少し時間が経てば、もっと気持ちも穏やかになれそうだ。
そうしたら彼にも、迷わず会えるだろうか。胸にずっと残る彼の存在もまた、心の穏やかさを取り戻す支えになっている。
「もう月に一度くらいにしても、いいかもしれませんね」
心地よいリラクゼーション音楽が流れる中、おっとりとした優しい声が響く。
その声に自分は、少し目を伏せて考えてから「そうですね」と相槌を打った。
静かな時間が流れるこの場所は、週に一度訪れるカウンセリングルームだ。
六畳ほどのクッションフロアの洋室は、優しいクリーム色をした壁紙で、木目調の家具と相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
部屋の中には、室内を柔らかな色に染める間接照明や、オーディオを乗せたオープンラック、重厚な天板を持つ大きな机。その机を挟んで置かれた、ソファなどがある。
壁面の二面が大きな窓になっているため、外は薄曇りでもブラインドから差し込む光は明るい。
広々として、ゆったりとできるこの場所は、部屋の主の雰囲気もあってかとても落ち着く。
自分が座っているソファの向かい側で、同じようにソファに座り、穏やかな笑みを浮かべている女性がいる。
彼女は栗色の長い髪を後ろで結わえ、控えめな淡いピンク色をした口紅をつけていた。カルテをめくる指の先は、艶やかなベージュ色だ。
歳はおそらく自分より上だろうと思う。三十半ばから後半くらいの印象だ。
それでもすっきりとした目鼻立ちはとても若々しく見えるので、人によってはもっと若く見えるのかもしれない。
「また心がふさぎ込むようなことがあれば、いつでも相談してください。でもきっともう大丈夫だと思いますよ。桂木さんの表情は、ここに通い始めた頃に比べたら、とっても穏やかになっています」
至極柔らかな笑みを浮かべて、彼女は微笑む。
相手に緊張感を与えないその穏やかな雰囲気は、これまで随分と気持ちを和らげてくれたと思う。
通い始める前は、正直カウンセリングなどは気が重いと思っていた。
自分の内面を吐露しなくてはならないのだから、逆に心がすさみそうだと感じたほどだ。しかしため込んだものを吐き出すことは、自分に必要なことだったのだと教わる。
少しずつ心の傷を言葉にしていくことで、第三者に認めてもらい、許されていくような気持ちになった。
自分が過去の出来事から抜け出すためには、それはあなたのせいではないと、肯定されることが必要だったのだ。
いまはこうして通うようになって、よかったと思っている。後ろ向きにならず、ここへ足を運んだ自分を褒めてもいい。
カウンセリングを進めていくのと同時に、あの人の自殺の発端になった事故についても、詳しく調べ直した。
あれは不運な事故だったのだと、いまなら思える。あの日はとても雨が激しくて、薄暗く見通しも悪かった。
その状況下、運転手は飲酒をして車に乗っていたという。
人影に気づくのが遅れ、ブレーキが間に合わなかった。そして道を歩いていた自分をかばい、あの人はその車に跳ねられたのだ。
雨が降っていなかったら、自分が傍にいなかったら、あんな事故は起きなかったのではないか。だがもうそれは、起きてしまった事実。
過去は変えることはできないのだ。不運を嘆くよりも、前を向いてそれを受け止めることが、心の傷を癒やす近道になる。
だからずっと忘れていた、あの人のことを少しずつ振り返っていった。
「あの人の音が、ようやく聴けるようになりました」
雨音と同じくらい嫌いだったピアノの音。その中でも特に聴くことのできなかったのは、あの人の奏でるピアノだ。
ほかの音が聴けるようになっても、それを耳にしただけであの時の恐怖がよみがえってきて、正気でいられなくなるくらいに恐ろしい思いをした。
しかし心の傷が癒やされていくと共に、その音色は穏やかな優しい時間を思い出させる。
あの人と過ごした、楽しかった思い出がよみがえるようになり、聞こえてくる音が耳障りではなくなった。
それどころか心穏やかになるほどに、心地よいものへと変化する。ピアノを弾くのが楽しかった、あの頃に気持ちが巻き戻っていった。
「またピアノを始めようかと思います」
昔のようにはもう弾けないけれど、ピアノを奏でてみたいと思う。そうしたらいまも世界中を飛び回っている彼に、少しでも近づけるんじゃないかなんて夢を抱いている。
一緒に飛び立てるだけの、翼がないことはわかっているが、喜びを分かち合うことくらいはできるかもしれない。
そんなことを考えられるくらいに、いまの自分は前向きだ。
「思うままにチャレンジすることは、いいことだと思いますよ」
「ありがとうございます」
思う心が定まると、足取りも軽くなってくる。にこやかな笑みを浮かべる彼女に見送られて、穏やかな部屋をあとにした。
外に出ると、相変わらず雨がポツポツと音を立てているけれど、その音さえも旋律のように聞こえてくる。
そういえば昔は、なんでも音が音程を持って聞こえていた。記憶と一緒に、そんな感覚も忘れていたのだなと思い返す。
ビニール傘を開き、雨の中に足を踏み出すと、傘を打つ雨がリズミカルに聞こえてくる気がする。
傘や地面を打つ雨音、水が跳ねる音、しぶきがあがる音、それらに耳を傾けながら音階を作っていく。
そうするとなんとなく、わくわくと楽しい気分になってくる。
そうだ子供の頃は、色んな音がする雨が楽しかった。水たまりを跳ね回り、傘をくるくると回してあふれる音に耳を寄せる。
そして学校へ行くと、頭の中で描いた音階を形にしていた。
それは文章を形作るのに少し似ている。言葉のリズムが音階。譜面に音符を記していくことと、変わらない気がした。自分がなぜいまの仕事をしているのか、納得できる。
そんなことを思いながら、気づけば楽器店に来ていた。ふらりと誘われるままに入り、ピアノの前で足を止める。
もう十年以上も触れていない鍵盤だけれど、指先で音を鳴らすと、心がふわりと浮き上がるような心地になった。
なにか覚えているだろうかと頭を巡らせて、初心者でも弾ける有名な曲を思い出す。ベートベンの「エリーゼのために」などはどうだろうか。
誰もが一度は耳にしたことがある曲だ。優雅で美しい旋律は心が穏やかになる。
おぼつかないながらも身体は覚えているのか、つまずくことなく鍵盤の上を指が動いていく。音が奏でられるたびに、心が満ち足りた気分になった。
「お上手ですね」
店にいた客が立ち止まり、そんなことを言う。お世辞にもなめらかな技巧とは言えないのに、なんだかくすぐったい気持ちになる。
初めて人前でピアノを弾いた時のことを、思い出してしまう。小学校の低学年くらいの頃だろうか。
あの時も嬉しさとくすぐったさが混じって、少し気恥ずかしかった。
しばらく店内を見て歩き、一番シンプルなキーボード型の電子ピアノを買うことにした。鍵盤の重さや音色もまずまずの品だ。
お金を出せば、もっといい音が出るものはたくさんあるが、自分はいまや初心者も同然。まずは弾くことを楽しめればいいのだ。
それと共にスコアとCDも購入した。
「リュウ・マリエールお好きなんですね。まだ若いけれどいいピアニストですよね」
購入したCDは、先日発売になったばかりの彼のものだ。ピアノが聴けるようになったおかげで、彼の奏でる曲も聴くことができるようになった。
いまではCDもDVDも、彼が演奏しているものはすべてを買い揃えるほどだ。
リュウの音色はとても繊細で優しく、とても伸びやかだ。心根や性格がそのまま曲に現れている。
彼のピアノを聴くと、なんだかあの腕に抱かれている時のような、心穏やかな気持ちにもなった。
離れてもうすぐ二年になる。いま彼はなにを思っているのだろうか。自分のことを忘れてはいないだろうかと、思いを馳せてしまう。
離れているあいだ、彼がどこでピアノを弾いているのか、スケジュールはこまめに追いかけていた。
彼は本当に息つく間もないほど、あちこちと飛び回っている。昨日は確か母国のフランスでの公演だった。
プロフィールで知ったことだが、彼の母が生粋のフランス人で、父のほうは日本とフランスのハーフだった。
両親はすでに現役を引退しているが、ともにピアニストだ。
母親の家は名の知れた名家で、国に帰れば大きな屋敷があるほどらしい。彼が身の回りのことを、自分でできなかった理由がなんとなくわかる気がする。
離れてから色んなことを知って、そのたび会いたくて堪らなくなった。
温かな笑顔、優しい手、澄んだ茶水晶の瞳、一つずつ思い出しては想いを募らせる。そんな毎日だ。
「そういえばリュウは、また日本公演をするという噂がありますよ」
「え?」
「しかしどの公演もすぐに完売になってしまうし、国内で彼のピアノがもっと聴けるようになれば嬉しいですね」
会計を済ませ、ピアノの発送手続きをしているあいだ、店主はなにかを話しかけてくれていたが、正直なにを話していたか覚えていない。
リュウが日本へまた来るかもしれないと、そう思うだけで胸が高鳴っていった。
店を出ると、飛び出すように雨の中を駆けていく。電車に乗って移動しているあいだも、早く早くと先を急いだ。
いつか心が癒やされて、すべてを受け入れられるようになったら連絡が欲しいと言われた。その時のためにと、彼が残していった連絡先がある。
立ち直るにはまだ早いと、ずっと思い出さないようにしていた。だがいまなら彼に連絡ができる気がする。彼に返事ができるような気がするのだ。
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