幸せの場所

「誠くん、鍵がない」

「また鞄の中で鍵を行方不明にしたの?」

「ごめん」

「いいよ」

 ようやくたどり着いた玄関扉の前で、助けを求めるように天音が見上げると、誠は苦笑しながらベルトループに引っかけたキーチェーンを手に取る。
 その中から鍵を一本選び出し、迷いなく鍵穴にさし込んだ。

「ただいまぁ」

「おかえり」

「誠くんもおかえり」

「うん、ただいま」

 部屋に入ると、自然と言葉がついて出る。二人で一緒に帰ってきたこの場所は、二人で一緒に暮らす場所。今月の初めに越してきたばかりで、リビングには段ボールがまだ少し残っていた。
 それでも二人分のものが溢れた空間は、かなり生活感に満ちている。

「やっぱりおうちが落ち着く」

「そこでまたうたた寝しちゃ駄目だよ」

 帰り着いて早々、ラブソファに身体を投げ出した天音に、誠は呆れたようにため息をつく。けれど天音はクッションを抱きしめて、そこに顔を埋めた。

「当たり前なんだけど、この家って誠くんの声が溢れてて、気持ちいいんだよね」

「声や音よりも、本人で癒やされてよ」

「あ、……うん。そうだね」

 ソファの空いた隙間に腰かけた誠は、ぽんぽんと促すように膝を叩く。その仕草に、天音は頬を染めながら身体を起こした。

「お邪魔します」

 おそるおそる膝に腰かけると、天音に腕を回した誠が、満足そうに頬を寄せてくる。くすぐったい感触に思わず笑い声を上げれば、耳の縁にキスをされた。

「幸せ、だな」

 自分の心を知る相手に、こんな風に寄り添えるのは、天音にとって生まれて初めての経験だ。
 変わらず傍にいてくれる誠は、言葉にしてくれた通り、天音がどんな感情を湧かせても、抱きしめてくれた。

 喧嘩をした日もあったけれど、最後には必ず好きだよと言ってくれる。

「僕ね、本当に小さい頃から、人の声を聞いていたから、それが当たり前の日常で。もし急に声が聞こえなくなることがあったら、静けさが怖くなるんじゃないかって、思ってたんだ」

「うん」

「でも誠くんが傍にいてくれるから、いまちっとも怖くない。それどころか、誠くんの声だけが聞こえるなんて幸せ、って思う。……少しだけ普通に近づけたんだって思ったら、急に肩の荷が下りた気がする」

「天音さん、辛かった?」

 ぽつぽつと語る天音の言葉に、声を強ばらせた誠は、隙間を埋めるように強く身体を抱きしめてくる。背中からじわりと染み込んでくる彼の想いで、天音の胸はいっぱいになった。

「確かに辛いことも多かったけど、悪いことばかりじゃなかったよ。だって誠くんとこうして一緒にいられるのは、心を聞く力のおかげだもの」

「俺は、天音さんの最後の恋人でいたい」

「じゃあ、僕がおじさんになっても、おじいちゃんになっても、傍にいてね」

「いるよ。ずっとずっと。一緒に、暮らそうって言って良かった」

 誠が小さく笑った気配を感じ、彼の顔を見上げると、やんわりとこめかみにキスを落とされた。

「誠くん、引っ越し、本当はどうするつもりだったの?」

「天音さんと仲違いしたままだったら、別な街に、引っ越してたかもしれない。避けられ続けるの、さすがにキツいし」

 なにを返したらいい? ――そう問いかけた天音に、誠は一緒に暮らすことを提案してくれた。
 ちょうど彼は、住んでいたアパートが建て替えをするために、半年以内に引っ越しをしなくてはならなかったのだ。

 急な申し出にその時は驚きもしたが、天音としては渡りに船だ。自分も仕事を辞めて引っ越すつもりでいた。
 誠と恋人同士になれただけでなく、一緒に暮らせる。ずっと一緒にいられること思えば、返事は一つしかない。

「ものごとってタイミングだね」

「タイミング?」

「もう一歩ズレてたら、俺たち言葉も交わせないまま、会えなくなってた」

「ごめん」

「なんで謝るの? 天音さんだけが悪いわけじゃない。俺がちゃんと、気持ちを言葉にして伝えなかったのも悪い」

「これからは失敗を活かして、二人で成長していこうね」

「うん」

 天音はいままで、自分さえ我慢していればいいと思ってきた。そうすればすべてが丸く収まるのだと。
 愛のあり方を間違えてきた。

「でもこんなに幸せで、いいのかな?」

「天音さんの不安症はなかなか治らないね」

「だって天秤はどちらかが重いと、バランスが取れないものだよ」

「心配しなくても、俺はどんなことがあっても傍にいるから。天音さんは目いっぱい俺に愛されていればいい」

「じゃあ、毎日、ハグして欲しい。キス、して欲しい。恋人に触れられて、こんなに幸せだって思ったことない」

「いっぱい抱きしめてあげるよ。俺の愛が伝わるくらい。俺の声が聞こえるくらい。身体に染み込ませてあげる」

 柔らかくて優しい声。この声を聞いたら、その想いに応えたくなる。振り向いてしまいたくなる。
 キラキラと煌めく温かい声に、愛を囁かれたかったのは、自分だ。初めて声を聞いた時から、彼の持つ優しさに惹かれていた。

 自分もこんな風に想われたいと、心のどこかで思っていた。

「僕はようやく、自分の気持ちに気づいたかもしれない」

「俺のことが大好きってこと?」

「うん。君に、まっすぐ愛されたかった。ずっと羨ましかったんだ」

「羨ましい?」

「図書館で誠くんが落とした本を拾った時、初めて声が聞こえた。好きって気持ちがいっぱい詰まってた」

「落とした、本。……ああ、あれか。高校の頃にあいつが誕生日にくれた、……焼却しようか」

「ええっ? 駄目だよ! 気に入ってる本なんでしょ?」

 至極真面目な顔で、さらっととんでもないことを言う誠に、天音はひどく慌てた。引っ越しする前も、サボテンを捨てると言いだして、止めるのが大変だった。

「本にも罪はないんだよ?」

「でも天音さん以外へ向ける感情が、そこに残ってるのは嫌だから」

「大丈夫だよ。もう誠くんの気持ちを疑うだなんてこと、しないから」

 難しい顔をして眉を寄せる、誠の頬を優しく撫でると、彼の手が重なった。じっと見つめてくる瞳と、ぬくもりから言葉が伝わる。

「僕も、大好きだよ」

「うん」

「誠くんといると、怖いものがどんどんなくなる。やっぱり誠くんは、すごいな」

「天音さんへの愛で溢れてるからね」

 重なった手から、誠の優しさが染み込んでくる。感じる温かさに、天音はうっとりと目を細め、ぬくもりを確かめるように唇へ引き寄せた。

「誠くん、僕を好きになってくれてありがとう。誰かを想うことが、愛されることがこんなにも満たされるんだって、初めて知った」

「天音さんが俺を見つけてくれたんだよ。たくさん聞こえる中から、俺をすくい上げた。全部、天音さんのおかげ」

「僕、生まれて初めて、本当にこの力があって良かったって思えた。誠くんの傍にいたら、全部がプラスになりそうな気がする」

「きっとなるよ。これから二人で、プラスにしていこう」

「誠くんの恋人になれた僕は、幸せ者だなぁ」

 心を抱きしめてくれた誠は、天音のために奇跡を巻き起こした救世主だ。
 一生、人の声に振り回されるのだろうと思っていた。自分を本当に愛してくれる人は、いないのだと諦めていた。

 それなのいまは、幸せが満ち溢れている。煌めいた幸せはきっと尽きることなく、傷ついた心を癒やしてくれるはずだ。

「天音さん、可愛いね」

「誠くんに愛されてるからね」

「じゃあもっと愛を込めようか」

「溢れちゃいそうだね」

 両手を伸ばして、愛おしい人をぎゅっと抱きしめる。たったそれだけのことで、幸せになれるのだと、初めて知った。
 これが初めての、本当の恋。

触れて触って抱きしめて/end

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