駅から家までの道を、幸司は息が上がるほどのスピードで走った。いつもは近いと思っていた距離が、今日ばかりはやけに長く感じる。
運動不足のなまった身体ではなおさらだ。
たどり着くなり自分で鍵を開けて、その向こうに飛び込む。
物音に気づいたのだろう母親が、驚いて顔を出すけれど、無言のまま横を通り過ぎた。
「こう兄、おかえりぃ」
「遅いよ。兄さんの好きなベリーベリーのケーキ、食べちゃうところだった」
リビングに入ると、揃って小春と咲斗が振り返る。しかし幸司の視線はその先、ソファの向かい側にいる人へ注がれた。
俯いていた彼は、ゆっくりと顔を持ち上げて、なにごともないような顔でにっこりと笑う。
「こうちゃん、おかえり」
落ち着いた低音が響き、優しい目が幸司を見つめた。
今日の真澄は髪を首元で結い、メイクもしていない。メンズもののジャケットや、スラックスを身にまとっているので、少女めいた雰囲気がまったくなかった。
「真澄さんって、女性の格好も綺麗だったけど。やっぱり元がいいからイケメンだね」
「兄さんどうしたの? ほら、真澄さんがデートの写真、持ってきてくれたよ」
「写真?」
立ち尽くす幸司に、咲斗が小さな冊子を差し出してくる。恐る恐る近づいてそれを受け取ると、フォトファイルだった。
ページをめくれば、女性の格好をした真澄と、自分が映っている。
それはどれも見覚えのあるものだ。
初めてデートした夜景の見えるバー。一緒に食べに行ったパンケーキ屋。二人で水を被ったイルカショーに、観覧車でキスをした遊園地。
あの時は浮かれていて気づかなかった。こんなにたくさん、真澄が写真を撮っていたことに。
写っているほとんどが、自分の横顔や後ろ姿。そして繋いだ真澄の手。
懐かしくなってパラパラとページをめくる。
だがふと幸司の手が止まった。しばしそのまま静止して、小さな深呼吸とともに、ファイルを閉じた。
「真澄さん、ちょっと、……いいかな?」
「うん、なに?」
「部屋に、来て」
「わかった」
重たい空気の幸司に対し、真澄はあっさりとしたものだ。それでも兄の様子に、双子たちは心配そうな表情で顔を見合わせる。
なにか言いたげに口を開きかけたので、幸司は踵を返し、リビングを出た。
無言のまま階段を上ると、そのあとから真澄がコートを手についてくる。部屋に入れば、背後でキョロキョロと室内を見渡す気配を感じた。
「こうちゃん、ほんとに飾ってくれてるんだね」
「うん」
部屋の壁には、大きく引き伸ばした真澄の写真が貼ってある。撮影した写真の中で、もっとも気に入っている一枚だ。
ほかにもフレームに入れたものが、いくつか棚の上に飾ってある。
それを彼は至極嬉しそうに眺めていた。
あまりにもいつもと変わりがないので、ここへ招いた理由を忘れてしまいそうになる。
けれど幸司は意を決して、手にあるフォトファイルを、真澄に突き出した。
「真澄さん、この写真。少し、おかしいよね?」
「なにが?」
「な、なにがって、……これ、ここにあるのおかしいよ」
言っている意味がわからない、目の前の顔にはそう書いてあった。その表情に幸司は愕然とする。
言葉を失っていると、彼はファイルを手に取って、ページをめくり始めた。
「どこがおかしい?」
「ほ、ほんとにわからない?」
「うん」
「これ、この写真! 接写だけど、学校のカフェテラスだよ!」
「……あ」
二人の写真の中に数枚、混じっていた幸司だけの写真。着ている服がデートの時と同じだから、見逃したのかもしれない。
だが背景に小さく写る時計、これが大きな違和感を覚えさせた。
赤い鳩時計――それは幸司の通う専門学校の、創立二十周年記念に、デザイナーから寄贈された一点ものだ。
学内にあるカフェテラスに設置されていて、生徒のあいだでは、カフェのことを鳩時計と称している。
「ああ、そっか。うっかりしてた」
「えっ? 待って、なんでそんなに平然としてるの?」
「ごめん、混ざったみたいだ」
「混ざる、って?」
あっけらかんと笑っている恋人と、ひどく隔たりを感じた。しかし青ざめる幸司をよそに、彼は少し照れくさそうに笑う。
「最近こうちゃんコレクションが増えたから」
「コレクション、ってなに? も、もしかして、まだほかにもあるの?」
「あるけど?」
「ええ? ごめん、さすがにそれはもう、頭が……追いつかないよ」
ごく当たり前のことのように返事をする、真澄の姿を見ていたら、めまいを起こした。頭を抱えて幸司がしゃがみ込むと、大丈夫? などと声をかけられる。
「ば、馬鹿な俺でも、これはおかしいって思うよ。なんでプライベートの写真が、真澄さんのところにあるの? って、いうか。……そもそもなんで俺の家、知ってるの?」
「え? だって、恋人のことはなんでも知りたいって、思うよね? 好きな人の写真、毎日眺めたくなるんだよね?」
「そ、それはっ」
心底不思議そうな声。それに驚いて顔を上げれば、煌めくアメジストが自分を見下ろしていた。その瞳を見た瞬間、幸司はぞわりと鳥肌が立った。
「こうちゃんも言ってたから、普通だと思ったんだけど」
人とのコミュニケーションの取り方を知らない――どころではない。
彼は自分の行動のどこまでが正常なラインか、それさえもわかっていないのだ。
「真澄さん! 確かに知りたいし、好きな人には毎日会いたいとか、顔が見たいとか。それはわかるし、俺もそうだけど。……でもこれはっ」
「そうなんだ。じゃあうちに来て。俺もこうちゃんに色々知ってもらおうと思ってたんだ」
「ま、真澄さん?」
ぱあっと表情を華やがせた彼は、ファイルを放ると幸司の手を掴んだ。ぎゅっときつく握られて、無理矢理に立ち上がらされる。
さらには引っ張られ、ずんずんと歩みを進めた。
「待って待って! ちょっと話を、しようよ」
「大丈夫、向こうでゆっくり話そう」
なにかが振り切れた真澄に、普段の話を聞かないところがプラスされると、太刀打ちできないような壁を感じる。
ろくに会話のキャッチボールもできないまま、二人で階段を下りた。
それなのにお邪魔しました、などという律儀さは忘れていないのが、怖くもある。
異常に見えるのに、彼の頭の中は正常だと言うことだ。
「真澄さん」
「なに?」
「俺のこと、どう思ってる?」
「なんでそんなこと聞くの? 好きだよ。可愛くて仕方ないよ」
やんわりと優しく笑った真澄に、なぜだか幸司は泣きたい気分になった。
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