それでもやっぱり、好き

 舌がふやけてしまいそうなほど吸いつかれて、表面を撫でられるだけでゾクゾクとした。吐き出した熱はまた頭をもたげ、大きな手にもてあそばれる。その気持ち良さに頭が惚けた。
 いままで天希は同性に恋心を抱いたことはあるが、男性経験はない。

 男同士でこんなにも、気持ち良くなれるものなのかと、溺れそうな気持ちになった。
 しかしこれだけ気持ちいいのは、相手が伊上だから――というのもあるだろう。好きな相手に、触れられているからこそだ。

「あまちゃん、もうとろっとろだね。そんなに無防備だと、本当に食べてしまうよ」

「ひぁっ、んっ……も、出ねぇよ、ばか」

「可愛い、ほんと可愛すぎて、どうしてくれようか」

 首元に顔を埋められて、ふんわりと甘い香りが鼻先をかすめる。いつも伊上がつけているコロンだ。それは普段より甘く濃厚に感じる。
 すんと天希が鼻を鳴らすと、小さく笑われた。

「君は僕の理性を焼き切るのが得意だね」

「な、に?」

「なんでもないよ。ほら大丈夫?」

 ちゅっと音を立てて唇にキスをしてから、伊上は座席を漁って、小さなタオルを引っ張り出す。そして吐き出したもので汚れた服を綺麗に拭って、天希の着衣を調えた。

「クリスマスまで、とっておこう」

「……あんた、いつもこんなこと、してんの?」

「いつもなんてしてないよ」

「じゃあ、たまにしてるんだ」

「あまちゃん、聡すぎるのは良くないよ」

 目を細めた天希に苦笑した伊上は、薄く笑って運転席へ行ってしまった。横顔は先ほどの熱を帯びたまなざしはなく、涼しげなものだ。
 あれほどもつれ合ったのに、ほとんど彼の着衣が乱れていなくて、伸ばした手で天希はコートの裾を鷲掴んだ。

「なんでこんなこと、すんの」

「あまちゃんが可愛いからかな」

「可愛い、可愛いって、ただの遊びだろ」

「それはどうかなぁ」

「ぜってぇ、適当」

 静かな中に響く、車のエンジン音が眠気を誘う。ウトウトと重たいまぶたを瞬かせると、少しのあいだ車が止まって、伊上のコートがふわりと身体にかけられる。
 それを天希がぎゅっと握り込めば、優しい大きな手が重なった。

 なにを考えているのかわからない、けれど――伊上はいつも、隙間を埋めてくれる。
 彼に出会ってから、天希は心が満たされていた。

 最悪の場面、救世主のように現れた彼。一目見た時から心を奪われた。優しい笑み、穏やかな声、温かい手、どれも胸をくすぐる。
 それどころか名前を呼ばれるだけで、気分が大きく持ち上がった。

 いつも仕事に疲れた時は労ってくれて、心寂しい時はなにも言わずに傍にいてくれる。
 毎日毎晩、飽きずに顔を見せてくれる、それだけでも嬉しいと思えた。
 一人で夜遅くに帰るのは危ない、などという扱いに呆れもしたが、なにかが欠けた時に、天希の心を癒やしてくれた。

 それがたとえ気まぐれでも構わない。本当ならば、背伸びをしても届かないような、そんな相手だった。

 翌日、目覚めた天希がいたのは自宅のベッドの上だ。母親にことの経緯を確認すると、酔っ払って寝ていたのを連れてきてくれた、と呆れた顔をされた。

 どんな顔をして親に顔を合わせたのか、それを考えると少し笑える。しかし黙っていても、あの男は人の好さそうな顔をしていた。
 にこにこ笑っていつものように切り抜けたのだろう。

 だが昨日の今日、夕方からはまたあのバイトが入っていて、顔を合わせるのは少し気まずかった。とはいえ向こうは、微塵も気にしていなそうで、天希は深く考えることを放棄する。
 大学の授業は午後から出ることに決め、また部屋に戻ってベッドに転がった。

「あのくらいでいい気になったら、冷めるかも知んねぇし」

 遊びでも気が向いているうちが華だ。なるべくいままで通りにするのが、いいだろうと思った。それでもふとクリスマス、という言葉を天希は思い出す。
 明日、本当に家に呼んでくれるのだろうか。そんなことを考えて、そわそわとした気持ちになる。

「プレゼント、とか買ったら重いよな。そもそもあの人に見合うもの買う金なんて、俺にはねぇ」

 分不相応――そんな言葉が浮かぶ。顔を大きく振って、馬鹿な考えも浮かれた気持ちも振り払った。
 それでも彼が自分を呼ぶ声を思い出すと、胸が熱くなる。

「やっぱり好きなんだな、俺」

 毎日毎日、構ってくれるだけ。遊びかもしれないのに。
 優しく甘やかされるだけで、勘違いしてしまう自分がいる。忘れるなら早いほうがいいと思うけれど、いまの状況ではそれも難しい。

 大きなため息を吐き出しながら、天希は悶えるようにジタバタとする。

 しかし夕刻――いざアルバイト先へ行ってみると、そんなことを深く考える余裕はなくなっていた。

「ああ、申し訳ないけどこれ全部」

「こっちもあるからお願いできる?」

 世の中が明日がクリスマスイブ、と言うことは年末だ。できたらみんな仕事は早い内に片付けて、楽しいクリスマスと冬休みを過ごしたくもなるのも、当然のこと。

 どんどんと積み上がっていくファイルに、天希は呆気にとられる。
 今日に限ってほかのアルバイトが休みで、一人でこれをこなさなければならない。

 社員が少し手伝ってくれるものの、あまり頼るわけにはいかないだろう。そして定時になると彼らは帰っていくので、人の手はあっという間に減る。
 それに反しなかなか減らないファイル、それを前に天希は大きく伸びをした。これは気合いを入れなくては終わりそうにない。

「あれ、これの二冊目、どこに行った? ちっ、目がぼやける」

 独り言を呟きながら、バタバタとファイルと格闘する。かすみ目がひどくて、数字を追うのも辛かった。
 昨日かけていた眼鏡の行方がわからない。しかし食事に出掛けた時はまだ、かけていた記憶があった。となると車でのあのあと、という答えが導き出される。

「今日に限って、あの人来ねぇなぁ」

 眼鏡を探したかったけれど、今日は諦めるべきか。そう思って天希がもう一度パソコン画面に向き直ると、ポケットのスマートフォンが震えた。
 友人だろうかと画面を見れば、見知らぬ番号から着信。どうしようかと躊躇するが、いつまで経ってもそれは切れない。

「あ、もしかしてあいつかな?」

 ふとピンときた。とんずらした幼馴染みかもしれない。
 ようやく連絡を寄こしたか、そんな気持ちで通話を繋げる。だが耳元に聞こえたのはまったく違う声だった。

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