いまはいつも隣にある存在が、当たり前だと思っている。ずっと変わらない笑顔を向けてくれる、その優しさがひどく心に染みてくるほどに。
それでもふとこの先に続く道は、どこまで一本であり続けられるのだろうと、そんなことを考えて胸が少しばかり軋む。決して彼の想いを疑っているわけでも、自分の中にある想いが薄れているわけでもない。
ただ漠然と、道の先を見つめて、立ち尽くしてしまうような気持ちになる。
「春樹、引っ越しするって言ってたけど、いま付き合ってる子がいるの?」
「いるけど」
「そう、お付き合い長いの? 結婚とか」
「考えてないし、する予定はないよ。母さんはいつも一言目に結婚、だな」
電話口から感じる詮索してこようとする気配に、つい素っ気ない言葉を返してしまった。けれど誰かと付き合うたびに同じことを聞かれて、ため息がこぼれるのも致し方ないと言える。
「またあんたは適当に。一緒に暮らすんでしょう?」
「そうだけど」
「もうちょっとしっかり相手と向き合いなさいよ。いつも適当だから長く続かないのよ」
これまで幾度となく、付き合った相手に真剣ではないと言われてきたが、どうやら親の目から見ても自分の付き合いは『適当』に映っていたようだ。
どうしたら紳士的で、どうしたら真面目に見えるのか、一度その明確な答えを聞いてみたいものだと思う。
こまめに世話を焼いて、言うことをなんでも聞いて、答えはすべてイエスであればいいのだろうか。そういえば父親はそんな大人しい、よく言えば控え目な性格だった。
「引っ越し先は決まったの?」
「これから、決まったら連絡する。用件はもうない?」
「そうやってあんたはすぐにお母さんを邪険にする」
「長話が好きじゃないの知ってるだろう」
ブツブツと文句を言っている彼女は話し出すと本当に長い。こちらは相づちだけなのに、優に一時間を超えることがある。暇な時ならば付き合ってもいいけれど、今日は時間を取られたくない。
なおも話したそうな声を遮って、うんうん、はいはいと、これは本当に適当にあしらった。
通話を切って携帯電話を乱雑にベッドへと放る。そうしてため息を吐き出してから部屋の戸を引けば、台所に立っている背中が目に入った。それを認めると胸のモヤモヤがすっと晴れる。
仕事終わりで少ししわの寄ったワイシャツ。しっかりとしてきた肩幅がよくわかる。一年足らずで、随分と成長した。
穂村の背中はいつも背筋がまっすぐで、すらりと長い手足をしているから、実際の身長よりも高く見えた。それでも本人は少しばかりこちらが高いことを気にしている。二、三センチほどなのに、もう伸びないかな、とたまにこぼしていた。
トントンとまな板に包丁が当たる音が響いて、それを聞きながらぼんやりと背中を見つめてしまう。こうして恋人がここに立っている姿も見慣れた。一緒に自分の家に帰ってくることも、ただいまと彼が我が家のように帰ってくることも、いつしか馴染んだ。
見ているだけで心が和らぐ。それなのにいまもまだ、不安を覚えるのはどうしてなのか。幸せを感じるのと同じくらい、胸の奥が締めつけられるように苦しくなる時がある。
「春樹? 電話は終わったの?」
「ああ、うん」
黙ったまま戸口で立ち尽くしていると、ふいに彼は手を止めてこちらを振り返った。そして不思議そうな顔をしたあと、ふわっと綻ぶように笑い、片手で手招きをしてくる。それに誘われるままに近づけば、野菜の入ったボウルを手渡された。
「これレタスちぎってドレッシングと混ぜて」
「うん」
「どうしたの? 酷いしかめっ面だよ」
「いや、特には、……うん、ちょっと母親と話すのが気が重かっただけだ」
誤魔化しかけて、言葉を言い直す。心配そうな目にまっすぐと見つめられると弱い。なにもかもさらけ出してしまいたくなる。あまり負担はかけたくないのに。
「仲が悪いんだっけ?」
「そういうわけじゃない。なんて言うか、反りが合わない、みたいな」
「春樹のお母さんってどんな人?」
「うーん、お喋りで、朝から晩までテンションが高くて、お節介で、気遣いとか無縁そうで」
「春樹と正反対だね」
目を丸くして驚くその表情に、あまり家族の話をしたことがなかったと気づいた。自分の家族は穂村のところのように、和気あいあいとした雰囲気はなく、仲は悪くはないけれど、それほど良くもないといったところだ。
だからお互いに深い話をしたこともなかった。もう少し自分が素直で、器用で、話し上手なら、彼のことを親に話していたかもしれない。しかし現実的にはそれは難しい。
後ろめたいことでも、恥ずかしいことでもないが、言うのには少し勇気がいる。だがあの楽観的な母親と、基本流されるままの父親だ。いまさら自分が誰と付き合おうが文句は言ってこないだろう。
それでもいまはこの二人の関係に、触れられたくないという感情が先に立つ。
「春樹、そこまで混ぜなくても平気だよ。しなしなになっちゃう」
「え? ああ」
「上の空だね」
「悪い」
「いいよ。ほら、ご飯を食べたら気持ちも満たされるかもよ」
「……そうだな」
こんな風に心が落ち着かないのは、なにか理由があっただろうか。ふと考えてみるけれど、これと言ったわけは見当たらない。すっかり慣れた日常を送り、こうして変わらず彼の傍にいる。
隙間なんて見当たらない。これはもしかしてあれか――幸せすぎて怖くなる、というやつか。そんなことを思うと、自分の気の弱さが情けなくなった。
「今日は……オムライス?」
「そうだよ。春樹、好きだよね」
香しいバターの中で、じゅうっと音を立てた卵液が次第にふわふわのオムレツに変わる。先に仕上げていたチキンライスに載せて、包丁の先で切れ込みを入れれば、黄色のベールはふんわりとそれを包み込んだ。
さらにたっぷりと、甘い香りのデミグラスソースをかければ、穂村特製のオムライスが出来上がる。
「おいしそう。あれ、このサラダ。オニオンスライスが入ってるけど。穂村はタマネギ嫌いじゃなかったか?」
「実は最近克服したんだよね! 血液さらさらになって健康にいいよって言われたから、ちょっと頑張った」
「そうなんだ。近頃は好き嫌いをあんまり言わなくなったな」
「大人になったんだよ」
得意気に笑う顔が可愛い。料理が得意だから、いままでなんでも作ってくれたが、わりと彼は好き嫌いが多かった。アレルギーもあるけれど、苦手なものも、食わず嫌いもかなりある。わざわざ二人の献立を分けるなんてこともあった。
それが最近は少なくなっている。前より一層、身体に気を使うようになって、食べ物も健康志向になってきたからか。
「そういえば、このあいだの休みはどうだった? 北川と横山と三人で遊びに行くって言ってなかった?」
「遊園地! 楽しかったよ! 俺、友達と朝から晩まで遊んだの初めてだったんだよね。さすがにちょっとは疲れもしたけど、まさもよーくんも気遣ってくれたし。それに翌日は調子悪くなかったから、体力がついたのかな?」
「仕事の通勤で毎日電車に乗って、歩いてもいるし、基礎体力が上がったのかもな。調子もいいみたいで安心した」
「だいぶいい感じ。仕事にもすっかり慣れたし、もうちょっと頑張ってもいいかな」
「あんまり頑張りすぎると息切れするぞ」
「えー、んー、気をつけるよ。……あ、でも今日も体調はいいから、お楽しみは取らないでね」
部屋のテーブルに晩ご飯を並べて向かい合うと、お疲れさまと二人でビールの缶を開けた。穂村は卒業した時にはすでに十九だったので、その年には二十歳になった。
最初のうちは甘めのカクテルを飲んでいたけれど、最近ではビールや焼酎にはまっている。飲み過ぎないように注意をしてみているが、どうやらかなりいける口らしい。まだ一度も酔ったところを見たことがない。
「そうだ、春樹」
「なに?」
「今日、注文しているのが出来上がったんだ」
「注文?」
食事とともにビールを二本空けて、ご機嫌な様子だった彼が、ふいになにかを思い出したように後ろを向いた。そして手を伸ばして自分の鞄を引き寄せる。なんの話をしているのかわからなくて、黙ってみていれば、小さな紙袋を取り出した。
「もうすぐで一年でしょ。一年記念」
「……記念?」
紙袋から取り出されたのはベルベットの小箱。それをぱかりと開くと、白金の指輪が二つ並んでいる。装飾のない角落ちの平打ちリング。
目の前に差し向けられたそれに、しばらく固まったように身動きできなかった。記憶を振り返っても、こうしたお揃いの指輪を身につけた覚えがない。初めてのことに上手く反応ができなかったのだ。
「あれ? いまいち?」
「えっ? あ、いやそうじゃない。ちょっとびっくりして。そうか、一年。穂村が卒業してもう一年になるのか」
「春樹はいままで、一年も続いたことないって言ってたから、俺となら何年でも一緒にいられるよっていう証し」
すぐ隣まで来た彼は、反応の鈍い自分の左手をとってそっと指輪を宛がう。いつの間に指のサイズなんて測ったのだろうと、そう思うくらいぴったりと薬指に馴染んだ。
「このくらいシンプルだと学校でつけてても華美じゃないよね」
「うん」
「春樹は手が綺麗だから指輪が似合うね」
「……ありがとう。びっくりしたけど嬉しいよ」
「どういたしまして」
「でも、もう少しで引っ越しなのに、出費が」
「現実的な話はなしだよ、もう。大丈夫、これはずっと俺が貯めてた貯金から出したから」
「そうか、じゃあ素直に受け取る」
やんわりと笑ったその顔に頬が熱くなる。少し落ち着かなくなって視線をさ迷わせたら、意識を引き戻すみたいに指輪に唇を寄せられた。それにドキドキと鼓動を速めながら、二人のあいだに形のあるものができた、それに心が浮き立った。
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