初夏の便り
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 それから彼のいない日常に戻った。
 雨降りを憂鬱に思いながら、ため息を吐き出し、雨の中を文句ばかり呟きながら歩いて出かける。
 買ってきた味気ない、コンビニの弁当を腹に収め、やけに広く感じるようになったベッドに横になった。

 リュウがいなくなってから、夜が眠れなくなっている。雨降りの日は熟睡することができず、浅い眠りの中をうつらうつらする。
 夢を見るのだ。
 人の足がぶら下がるあの奇妙な夢を見て、恐ろしくて目が覚める。

 最近それは少しずつ形をなしていて、足だけだったものに、身体まで見えるようになってきた。どんどんと近づいてくるような、そんな恐怖が眠ることを拒ませる。

 一体なぜ、そんな夢を見るのだろうかと考えてみるが、結局なにも思い浮かばない。
 ただただそこに恐ろしさがあるばかりだ。それでも人の気配や視線、白昼夢はリュウがいなくなり、一人になると、感じることも見ることもなくなった。

 それがなぜなのかは、いまだにわからない。
 だがそんな日々も、日が経つにつれ終わりが見えかけてくる。雨の日が格段に少なくなってきたからだ。

 夏が近いのか、晴れた日は太陽がさんさんと輝き、気温をぐんと上昇させる。
 夏の暑さが得意なわけではないが、雨の日が続くよりずっとマシだ。雨さえ降らなければ、あの嫌な夢も見ることはない。

 ようやく雨音から開放される。

「……フランツ・オーモン」

 雨が降ることもなくなった初夏。一通の手紙が届いた。

 封筒に書かれたその名前は、一度聞いただけだが、何度も手紙をもらったことがあるので覚えている。今度は一体、なんの知らせだろうと思わず首を傾げてしまう。
 リュウが帰ったあとに、フランツから保護してくれた礼として、謝礼金を払いたいと申し出られた。

 それを断ったら、今度はなにか贈らせてもらえないかとまた連絡が来て、それも断ったら、なにかさせてもらいたいので望むままにすると言われた。
 なにも望むものはないと返事したら、それきり連絡が途絶えたのだが、またなにか思いついたのだろうか。

 しかし訝しく思いながら手紙の封を切ると、そこには細長い紙が一枚入っているだけだった。
 封筒からそれを取りだし、手に取ってみれば、紙切れはコンサートのチケットだというのがわかった。

 そういえば彼は、このために日本へやってきたのだった。
 チケットに刷られたリュウの名前を、思わず指先でなぞってしまう。ここに行けば、またリュウに会えるのだと、そんな期待が我知らず心に湧いてきた。

 日付は三日後の日曜日。チケットを見つめたまま、自分はその場に立ち尽くしてしまった。確かに彼の姿は一目でも見たいが、やはりピアノは苦手なのだ。
 あれは雨と同じくらい心を蝕む音でしかない。

 しかしリュウが奏でる音ならば、そんなものを吹き飛ばしてくれるのではないか。そんなことを考えてしまった。
 それと同時に、自分が思っている以上に、まだリュウのことが忘れられずにいるのだと、思い知らされた気分になる。

 さよなら――とそう告げたはずなのに。

 手紙が届いてから三日間。
 随分と悩んだが、日曜の昼過ぎから自分は、いそいそと出かける支度をしていた。彼に会うことで、心の片隅に残された未練が大きくなる懸念もあったけれど。

 もうこんな機会でもなければ、姿を見られることもないかもしれない。
 そう思えば、重たい腰も上がるというものだ。それに会場の客席から彼を一目見たら、帰ればいい。どうせピアノは長く聴いてはいられないのだから、一曲聴いて席を立てばいいだろう。

 そんな言い訳を心の中で繰り返し、電車を乗り継いで会場へと向かった。
 コンサートが行われる場所はイベントホールで、五百人ほど収容できるなかなかの広さを持つところだ。

 こんなにたくさんの客が集まるくらい有名だったのだと、興味本位で買った音楽雑誌を見て知った。
 クラシック音楽は、いままで興味を惹かれることがなかったので、まったくと言っていいほど知識がない。

 なんでも見聞きするのが好きな割に、なぜここだけ食わず嫌いだったのだろうと、不思議に思うほどだ。ピアノは苦手だけれど、それ以外の楽曲は多くあるというのに。

 ホールに着いてみると、多くの人が集まっていた。年齢層は幅広く、男女比は女性が少し多いくらいだろうか。
 開演は十七時からだから、あと一時間くらいは時間がある。みなパンフレットを片手に、開演をいまかいまかと待ちわびている様子だ。

 プログラムが印刷された紙は来場者に配られるが、パンフレットは別途購入しなくてはならない。どうしようかとしばらく悩んで、気がつけば財布の口を開けていた。
 客席がオープンになるまでのあいだ、空いた椅子に腰かけパンフレットを眺めることにした。

 そこにはインタビュー記事などと共に、たくさんの写真が収められている。白や黒の燕尾服を身にまとうリュウは、なんだかどこぞの王子様のような風格だ。
 元々見目がいいので、とてもよく似合っているが、なんだか変な気持ちだ。

 うちにいるあいだは、安物のワイシャツやTシャツという、簡素ないでたちだった。
 近所のスーパーへ行き、特売品をぶら下げ帰ってくる。そんなごくありふれた日常にいたのに、あれはやはり一時の夢のようなものだったのか。

 彼の本当の世界は、きらびやかで華やかな光をまとう世界。自分とは違う世界だ。

「そろそろか」

 ぼんやりと考え込んでいると、いつの間にか客席がオープンになっていた。客席内へ向かう人々の波に乗るべく、自分も立ち上がることにする。
 パンフレットは手提げのビニール袋にしまい、片付けた。もうこれも、見ることはないかもしれないなと思いながら。

「あの、失礼」

 客席へ向かうためにフロアを歩いていたら、ふいに後ろから声をかけられる。聞き覚えのない声に、なにげなく振り返ると、見知らぬ五十代前後の男性が一人、そこに立っていた。
 相手は振り返った自分を見て驚き、なぜか興奮したように頬を赤らめる。

「桂木宏武さんですよね」

「そうですが」

 なぜこの男は、自分の名前を知っているのだろう。どこかで会っただろうか。
 仕事で時折打ち合わせることもある。そういった時に知り合う人間もいるが、よくよく見てもやはり見覚えがなく、思い出せそうになかった。

「十年前からお変わりないですね。いやぁ、びっくりしました。いまもピアノは続けてらっしゃるんですか? わたし、あなたの音色がすごく好きだったんですよ」

「え?」

 この男は一体なにを言っているのだろう。誰かと間違えているのか。だが確かに自分の名前を知っていた。
 同姓同名の赤の他人――そんなことも浮かんだが、こんなに間近で顔を合わせて、人を見間違うだろうかという疑問も湧いてくる。

 そういえば十年前、自分は一体なにをしていただろう。大学には進学していないので、働いているはずだ。
 歳は二十一くらいか、自分はその時なにをしていたんだろう。

 たかだか十年前のことなのに、思い出そうとすると霞がかかったようにぼやける。

「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

「もしかしてまだあの事件のことが」

 事件? 一体なにがあったと言うんだ。思い出そうとすると、頭が割れそうになるくらい激しく痛む。
 頭を抑えて俯くと、目の前の男は心配げな表情を浮かべて、肩に手を置いた。

 その手を反射的に振り払ってしまう。
 それでも男はなにかを話しかけてくるが、言葉がまったく頭に入ってこない。

 顔を背けて俯いたら、さすがにこちらの様子を察したのだろう。男はもの言いたげな表情を浮かべてはいたが、大人しくその場を去って行った。

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