記憶
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 人はどんどんと客席に流れていくが、自分はその流れに逆らい近くのベンチに腰を下ろした。
 両手で頭を抱えると、脈打つようにそこからどくどくと音が響く。思い出せない、思い出そうとすればするほど、気分が悪くなってくる。

 冷や汗がにじんで気持ちが悪い。あの男が言っていたことは、一体なんなのだろう。
 十年前、ピアノ、事件――駄目だ。なぜこんなにも思い出せないのか。

 焦燥感が心の内に広がる。気持ちを静めようと、考えることをやめたら、少し気分が楽になった気がした。

 しかしふいになにげなく顔を上げた瞬間、息が止まってしまいそうになる。
 視線の先、窓の向こうに人がぶら下がっていた。首をだらりと下に向け、手足が脱力したようにゆらゆらと揺れている。

 それはどう見ても、首をくくって死んでいるようにしか見えない。そうそれは首をつった男の死体だ。

 そう思った瞬間、なにかが頭の中をよぎった。古いフィルムを巻き戻したような、不鮮明な映像だ。
 男が笑っていた。穏やかそうな優しい目をした男だ。

「宏武」

 その男は優しい声で自分の名を呼んだ。その声に振り返った自分が、ひどく喜んでいるのが感じられる。
 これは敬愛、親愛、いや違うこれは、その二つに隠れた恋愛感情だ。自分はこの男に恋をしている。

 そその男も自分を憎からず思っているのだろう。見つめる目も触れる手も、とても優しくて温かい。

「将継さん」

 声を弾ませて、嬉しそうに名前を呼ぶ自分に少し驚いた。自分はあまり感情の波を揺らさない人間だったから、こんな風に明るい気質を持ち合わせているとは、思わなかったのだ。
 青年らしく、明るくはつらつとした様子は、いまの自分からは想像がつかない。

 だが間違いなく、これは自分なのだという確信も心にはあった。これは夢ではなく、記憶だ。
 しまい込んでいた自分の記憶。

 そこには常に優しいピアノの音色が響いていた。寄り添うように奏でられているのも、温かな音色のピアノだ。
 どちらも甘く切ない心に響く旋律で、なんだかとても懐かしい気持ちになる。

 二つの音色を聞いているうちに、ようやく過去の欠片を思い出す。そうだ、自分は確かにその手で楽器に触れていた。
 小さな頃からピアノに憧れていた自分は、いつも学校の音楽室で鍵盤を鳴らしていた。

 高校を卒業すると、貯金をはたいて電子ピアノを買ったが、音大に行く金はなく、仕事の傍ら小さな楽団に在籍して時折ピアノを奏でる、そんな毎日を過ごしていた。
 そんな自分の前に現れたのが彼――将継だ。

 当時、名の売れたピアニストだったにも関わらず、なぜかいたく自分の音色を気に入ってくれて、忙しいさなか直々にピアノを教えてくれた。

 そのおかげでコンクールにも、何度か出たことがある。大きな賞は取れなかったけれど、小さなきっかけは少しずつ形になっていった。

「私の可愛い宏武、愛してるよ」

 それと共に自分と彼の仲は親密になっていき、いつしかお互いを想い合い、愛を紡ぐ関係へと変わっていく。
 二人でいると、心の中に満ちあふれるほどの幸福感が広がり、ただ傍にいるだけでも自然と笑みが浮かんだ。

 ともに暮らすようになった頃には、幸せの絶頂にいるのではないかと思えるほどだ。毎日が楽しくて、音楽が伸びやかに響く時間に、心は弾むようだった。

 けれどそれはつかの間の夢――

 激しく乱れた映像に映し出されたのは、つり上がった眼に歪んだ唇、般若のような恐ろしい顔をした恋人だ。
 勢いのままに手足を振り上げて、頭や顔、肩に背中、そして手や足まで殴りつけ蹴り上げてくる。

 自分は悲鳴を飲み込み、その痛みに耐えていた。

 そこに聞こえてくるのは、がむしゃらに鍵盤を叩いた耳に障るピアノの嫌な音。――ポツポツ、ポツポツと窓を打つ雨の音。
 心地よさなどそこにはない。ただひたすらに恐れおののく、冷たい音があるだけだ。

「ああ、嫌な雨だ」

 雨が降ると、手を痛めた日を思い出すのか、その人は人が変わったように荒れ狂う。
 麗しい音を奏でられなくなったストレスが、目の前にいる自分へと向けられる。けれどその時は、彼が自分を恨むのも道理だと思っていた。

 彼が怪我をしたのは、自分が原因なのだから、恨まれても当然のことだ。

 雨の日、自分の代わりに事故に巻き込まれた彼は、片腕に大きな怪我をして、大切な手がピアノを弾けなくなってしまった。
 日常生活に支障があるほどではないけれど、彼からピアノを奪うことは、命を奪うのと同じことだ。

 彼が壊れ始めてから、自然とピアノから遠ざかるようになった。自分がピアノを弾くことで、さらに彼を追い詰めることになるからだ。
 しかしピアノだけではなく、自分は彼からも離れるべきだった。

「宏武、この手が音を奏でないのならば、この世界はもう絶望しかない。私は楽になりたいよ」

 ざわりと鳥肌が立つのが感じられた。しかし逃げ出そうと身体はもがくものの、手も足も縛られ、ばたつかせることすらできない状態だ。
 悲鳴を上げたくとも、口は塞がれくぐもった声しか出てこない。

 乱暴にシャツを裂かれ、無理矢理ズボンを引き下ろされた。止めどなく涙があふれるけれど、目の前の人は容赦なく自分にのし掛かってくる。
 そこには痛みしかなかった。無理矢理こじ開けられ、引きつれるような感覚に激痛が混じり、声にならない声で叫んだ。

 激しく揺さぶられるたびに、しゃくり上げるようにして泣いた。もうやめてくれと、何度声を上げようとしても、それが彼に届くことはない。
 激高が収まるまで、ひたすらに耐えるほかなかった。

 痛みで身体がガタガタと震え、何度も意識を失いそうになる。ようやく彼が自分の身体から出ていった時には、その身はまるでぼろ雑巾のようだった。

「愛してるよ、宏武」

 意識が混濁する中で、彼は耳元で何度も繰り返し囁いた。愛おしげに髪を撫でる手の感触も感じた。しかしそれがとても虚しさを感じて、涙が止まらなくなる。
 こんなはずではなかったと、涙をこぼす自分がいた。それでもこの人を愛したことに後悔はない。

 ただ自分たちは、運命というものに翻弄されてしまっただけなのだ。だから彼の手が、自分のか細い首にかけられた時にはもう、あらがう感情は捨て去っていた。

 このまま生きていくのが辛いのならば、一緒に死んでしまうのもいいかもしれないと、そう思うほどに疲れ果てていたのだ。

 ゆっくりと呼吸が薄れていく中で、涙を流しながら自分を見つめるその人を見た。これですべてが終わるのだと、そう思えてなんだか幸せな気持ちにさえなる。
 きっとその時の自分は、恍惚とした笑みを浮かべていたことだろう。

 薄れ行く意識が闇を引き寄せても、幸せな眠りにつけるのだとそう思っていた。だが――現実はそう優しくはなかった。
 自分だけが目を覚ましてしまったのだ。深い眠りから揺り起こされて、絶望した。

 目を覚ました自分の目に映ったのは、二本の足だ。黒い革靴が目にとまり、それが誰のものであるのかすぐに理解した。
 ゆるりと顔を持ち上げてみると、大きなシャンデリアに、長いロープがかけられていた。

 だらりと力なく垂れた手や足、もうすでに息はないだろうことがわかる。
 悲鳴を上げて泣き叫んだけれど、口は塞がれたままで嗚咽さえも響かない。そしてこの異質な空間に、自分は閉じ込められてしまったのだと気づく。

 身動きはできない、声も出ない。誰かに気づいてもらえる確率はとても低かった。人間は目覚めてしまうと、生に執着してしまうものなのだろうか。

 どうしたらこの場から逃げ出せるのかと、考えている自分がいた。しかしぼんやりとする意識は何度も途切れ、次第にまた闇に飲まれていくように意識を失っていく。

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