急接近
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 きっとあれは彼だけの秘密だったはずだ。大事に大事に、水やりをして育てているサボテン。
 一度だけ根腐れを起こしそうになって、とても心配していたことがあった。その時は閲覧室で熱心に、植物の本を読んでいたの覚えている。

「聞こえる声って、どのくらいそこに残るものなの?」

「うーん、たとえば図書館の本なら、次の借り手に移った時、大概上書きされるよ。心の声って、頭にぱっと浮かぶ言葉みたいな感じだから、手を離れれば自然と消えちゃうみたい。でもその人の持ち物だったら、随分と染みついてるから簡単に消えはしないかな」

「ふぅん。遠藤さんは触れたら、全部聞こえてしまうの?」

「そんなことはないよ。一応少しだけコントロールもできるし、ほら、こうして手袋をすれば、感覚を鈍らせることもできる」

 休日の図書館。しんと静まり返る空間に、二人の小さな会話が紛れる。
 秘密を打ち明けた夜から、中原と会話をすることが随分と増えた。仕事をしている天音の傍らで、彼は本を立ち読みしながらよく話しかけてくるのだ。

 たわいもない話がほとんどだが、今日のように天音の力について、興味深そうに訊ねてくることもある。

「じゃあ、なんで俺の声、聞こえたの?」

「んー、たぶん。チャンネルが合いやすいのかも」

「チャンネル? ラジオみたいな?」

「そうそう、そんな感じ」

 幼い頃にこの力に気づいて、周りに気味悪がられるようになってから、天音は誰にも秘密を話したことがなかった。
 いまでは親でさえ、子供の空想だったのだろうと、片付けてしまっているくらいだ。

 それでも思わず言ってしまったのは、嬉しさだけでなく、素直さに当てられた。心に陰りのない彼の前で、嘘はつけないと思ったからだ。

「ねぇ、遠藤さんはどんな本が好き?」

「今日はなんだか質問攻めだね」

 あれこれと問いかけてくる中原に、天音は少し驚いた。日ごとに、彼が声をかけてくる回数が、増えてきたように思える。

「遠藤さんのことが色々知りたくなった」

「面白いところなんてないよ?」

「俺的にはすごく興味深い」

「変なの」

 笑って誤魔化すけれど、そんな風に言われると、やけにくすぐったい気持ちになる。普段の天音は人付き合いを避けているため、人から純粋に好意を寄せられることに、免疫があまりない。
 だから余計に、気持ちが浮き立ってしまうのだ。

「僕は、そうだなぁ。純文学が好きかな」

「夏目漱石とか、宮沢賢治みたいな?」

「うん。中原くんは?」

「俺はわりと雑食。そういうのも読むけど、SFとかミステリーとかホラーとかも読む」

「ジャンルじゃなくて、純粋に本を読むのが好きなんだね」

「活字中毒ってやつかも。読むものがなければ辞書でもいい」

 ぽつりと呟いた中原の言葉に、天音は思わず吹き出してしまった。笑い声が静寂の中に響いて、周りの視線が集中する。
 毎日必ず一冊は読むと、少し前に聞いていたが、さすがにそこまでだとは思っていなかった。

「笑いすぎだよ」

「ごめん。ちょっとツボにはまった」

「まあ、いいけど。遠藤さんの笑った顔、可愛かったし。最近は眼鏡が多いね。すごく似合ってるから、俺、そっちが好きだよ」

「中原くんのそれって無自覚なの?」

「ん?」

 本から顔を上げた彼は、不思議そうに目を瞬かせる。その反応を見ると、名前のことも今回のことも、深く考えての発言ではないのだろう。
 しかしさらりと可愛いだとか好きだとか、言われるほうは心臓に悪い。

「遠藤さん、踏み台は?」

「大丈夫、このくらいは届く。この一冊だけだし」

 書棚に手を伸ばした天音を、中原はひどく心配した顔で見ているが、頭一つ分ほど上、背伸びをすれば十分に手が届く。最後の一冊を収めようと、天音はさらに腕を伸ばした。
 けれどふいに後ろから手が伸びてきて、本がさっと目的の場所へ収まった。

「無精すると危ないよ」

「あっ、ありがと。中原くんってわりと背が高いね」

「これでも遠藤さんと十センチくらい、差はあると思うんだけど」

「え? そう? あ、確かに」

 すぐ傍で見下ろされてから、ようやく天音は視線の高さが随分違うことに気づく。いつも接している時は、それほど感じていなかったが、思っていた以上に大きい。
 天音は百六十後半なので、もしかしたら百八十近くあったりするのかもしれない。

 手足が長く、スラリとしていて、大柄という印象が少ないので、中原は傍にいても圧迫感がなかった。
 だが意識すると、やけにその差を感じ始める。

「背の高い中原くんに見下ろされると、なんだかドキドキしちゃうね」

「ド、ドキドキって、……ちょっと遠藤さん、天然すぎじゃない?」

「なに?」

「俺のほうが、よほどドキドキ、するよ」

「……なんで?」

 思いがけない中原の言葉に顔を上げてみれば、なぜだか彼は顔を真っ赤に染めている。さらに照れたように目を伏せられると、動揺が移り、天音は急に恥ずかしさが込み上がってきた。

 しかしこの場から逃げようにも、中原はすぐ傍に立っていて、二人のあいだに距離がほとんどない。体温が伝わりそうな近さに気づき、ますます落ち着かない気持ちになった。

「遠藤さん」

「な、なに?」

「あの、今度良かったら、ご飯」

「誠、見つけた!」

 見つめてくる中原が言葉を言いかけたところで、ふいに大きな声が響く。声に驚いた天音は、とっさに後ろに下がろうとして、書棚に頭をぶつけた。

「大丈夫?」

「う、うん」

 勢いよく頭をぶつけた天音に、驚いたのだろう中原は、打った後頭部を優しく撫でてくれる。熱を持ってズキズキと痛む頭が、少し和らぐような気がした。

「誠、お前。図書館に本を読みに来てるんじゃなくて、美人を口説きに来てるのか?」

 しばらく中原の手で癒やされていると、先ほどの声の持ち主が、呆れた声を上げる。

「声が大きい。もう少しトーンを落として」

「ああ、ごめん」

 館内に響く声に、中原が少しだけ眉をひそめると、相手は慌てたように口を押さえ、周りに視線を向けた。人の目が集まっていることに、気づいたのだろう。

「雪宮はなんで、ここにいるんだ?」

「誠が足繁く通ってる場所が気になって?」

「ユキ、ミヤ?」

 突然現れた青年に歩み寄る、中原の背中を見ていた天音は、口の中で小さくその人の名前を呟いた。

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