独りぼっちの憂鬱
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 突然図書館に現れた雪宮は、あれからたびたび来館するようになった。閲覧室で二人、仲良く読書をしているのをよく見かける。
 賑やかな印象があったので、おしゃべりせずに黙って本を読んでいるのは、かなり意外性があった。

 しかしさきほど閲覧室を覗いたら、いつものように並んで本を読んでいた。
 話が合う友達がいないと、中原はこぼしていたことがあったけれど、すぐ傍にいるではないか。しかも想い人なのだから、なおさらいい。

 だがそんな考えとは裏腹に、本を書棚に戻しながら、天音は無意識にため息をついていた。最近、雪宮がいるので中原と会話をする機会がない。
 友達がいないので、彼と本の話をする時間は貴重だった。

 なにげない日常の会話も楽しかったのに、ひどくつまらない。
 だが長いこと片想いしていた中原を思えば、手放しで喜んであげるべきだろう。

 これまで天音はあまり考えないようにしてきたが、いまになって友達が欲しい、と思ってしまった。
 気兼ねなく、話し合える相手が欲しい。とはいえ心の声が聞こえてしまう天音には、いささかハードルが高かった。人の多くは本音と建前を持っている。

 聞こえなければスルーできるけれど、笑顔の裏側を知ると、人が怖くなる。深い付き合いをすることをためらってしまう。
 数えるほどしか時間は過ぎていないのに、中原と裏表なく会話できていた時が懐かしく思えた。

「あ、いけない。十八時になる」

 ふと腕時計に視線を落とした天音は、時刻を確認してエンジンがかかったように、急に動きをキビキビとさせる。
 ブックトラックに残っていた本を、素早く書棚に収め、今度は足早にカウンターへ向かった。

「ごめん。遠藤さん替わるよ」

 視線の先にいた弥生は天音を見た途端、わかりやすくウキウキとした顔をする。さらには挨拶もそこそこに、そそくさと席から立ち上がった。

「もしかして今日はデート?」

「えー、わかる? 久しぶりに食事に行くの」

「そうなんだ。いいね」

 恋人とデート。羨ましい話だ。最後にデートをしたのは、いつのことだったか。頭の中で指折り数えて、天音はその数にがっかりする。
 思えばここ最近まったく出会いがない。

 以前はチャットアプリなどで知り合った、趣味の似通った相手と会っていたのだが、失恋が続いて、恋愛に臆病になってしまった。
 スキップでも踏みそうな弥生の背中を見ていたら、重たいため息が出た。

「遠藤さん、疲れてるの?」

「え?」

 黙々とカウンター業務をこなしていた天音は、突然かけられた声に驚いて顔を上げる。目の前には心配げな眼差しをした、中原が立っていた。
 いま貸し出しの本を受け取ったのに、まったく気づかなかった。

 いつもだったら触れただけで、心が軽くなる優しさを感じるのに、彼の『声』が聞こえなかった。
 思いがけないことに、ひどく動揺する。

「遠藤さん、大丈夫?」

「あ、うん。ちょっと考えごとしてただけ」

「それならいいけど、いつもより元気がないように見えたから」

「平気だよ。ありがとう」

 意識が散漫だったからだろうかと、指先に集中したけれど、思念の残滓がかすかな音を響かせる程度だった。
 チャンネルが、合わなくなったのだろうか。中原の心の中に、なにか変化が起こったとか。

 もしかしたら雪宮と一緒の時間が増えて、満たされてしまったから、声が響かなくなったのかもしれない。

「こんな時間までゆっくりしてるってことは、今日はバイト休みなの?」

 いつもなら十九時になる前に中原は帰っていくので、閉館間際までいるのは珍しい。視線を彼の背後へ向ければ、玄関傍に立つ雪宮と目が合った。
 人なつこい笑みで会釈をする彼は、天音の視線を追いかけて振り向いた中原に、満面の笑みを浮かべた。

「もしかして雪宮くんとデート、とか?」

「えっ? 違うよ。飯食いに行くだけだって」

「ふぅん」

 慌てたように首を振った中原の反応を、窺うように見つめたら、ますます焦りを募らせた顔をする。同性同士であることを、揶揄されると心配しているのかもしれない。

「僕、そういうの偏見ないよ。というか、恋愛については性別にこだわりないし」

「……え? 遠藤さんって」

「世の中の枠組みは、一つじゃないってことだよ」

「あのっ、遠藤さん!」

 心底驚いた顔をする中原に笑みを返せば、立ち尽くしていた彼が、急に前のめりになる。カウンターに両手をついた中原の顔が、目前まで迫り、天音はその勢いに気圧された。

 まっすぐに見つめてくる視線を見つめ返すと、カウンターに置かれた手が握りしめられる。
 なにか言いたげな様子を見せるので、天音は黙って言葉の先を待った。

「よ、良かったら、今度、一緒に」

「一緒に?」

 ぷつんと途切れた言葉に首を傾げれば、なぜか中原は顔を真っ赤に染めた。沈黙のあいだにも、みるみるうちに赤みが広がり、耳や首筋まで朱色に変わる。
 どうしたのだろう、そんな疑問が湧くが、あまりにもまっすぐに見つめてくるので、言葉が継げない。

 しかし黙ったまま見つめ合い、どのくらいが経ったか。中原の背後から伸びてきた手が、彼の腕を掴んだ。

「誠、なにしてんの? 早く行こう。腹減った」

「いや、いま大事な話を」

「引き止めてごめんね。はい、これ」

 中原の腕にぴったりとくっついた雪宮に、一瞬睨まれたような気がする。お腹が空いて気が立っているのか、天音に対しての牽制なのか。
 答えは定かではないが、後者であったら申し訳ないと、手早く貸し出し手続きを済ませ、本を中原に差し出した。

「……ありがとう、ございます」

「ほら、行くぞ」

「遠藤さん、また、明日」

「うん、またね」

 まだなにか言いたそうではあるが、雪宮がどんどんと進んでいくので、諦めたのだろう。小さく会釈をすると、中原はこちらに背を向けた。

「あの二人、やっぱりもうくっついたのかな」

 並んで出て行く、二つの背中を見つめる天音の口から、また重たいため息が出た。好き合う人と一緒にいられる人が羨ましい。
 厄介な力がなかったら、もっと自由な恋愛ができただろうか。人の心の声に怯えずに、笑っていられたのだろうか。

「こんなこと考えるなんて、気持ちが疲れてるのかも。今日は帰りに飲みに行こう」

 道江が休みでいないのが残念だけれど、軽く飲んで帰るだけなら、一人でも行ける。
 どこへ行こうか、考えてからすぐに頭に思い浮かんだ。いま話をしたい人はそこにいないが、おいしいもので心を満たそうと思った。

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