あたたかな声
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 雨水が跳ね上がるのも気にせず駆けると、数メートル先を歩いていた中原が、ふいに立ち止まる。そして来た道を振り返り、キョロキョロと辺りを見回し始めた。

「中原くん!」

「えん、どうさん?」

 息を乱しながら傍まで駆け寄ると、中原は目を丸くして見つめてくる。彼の顔先に片手を突き出せば、ようやく天音が現れた理由がわかったようだ。

「鍵、鍵を落としたでしょう」

「ぶつかったの、遠藤さん、だったんだ。ありがとう、なくて焦った」

「大丈夫? 手がすごく熱いけど」

「へ、……いきっ」

 鍵を受け取った中原の手は、熱湯につけたばかりではと思うほど、火照って熱かった。傘の下を覗き見れば、咳き込む彼の顔は真っ赤で、瞳が少し潤んでいる。

「ずっと大学、休んでるの? 病院はちゃんと行った?」

「……熱が出てから、三日くらい、休んで、る。病院は、余力なくて。今日はちょっと、マシだったから、飲み物」

「酷くなる前に行かなかったんだね。今日は、どこも休診日か。っていうか、中原くん、飲み物しかないけど食べてる?」

「食欲、あまり、ないし」

 手にぶら下げたビニール袋に視線を落とすと、スポーツドリンクの二リットルペットボトルが一本と、プリンが一つだけ。
 あ然とした表情を浮かべた天音に、中原は困ったように眉を寄せる。

「せめてお粥とかうどんとか、炭水化物を食べなくちゃ駄目だよ」

「……買ってくる」

「待って、家にお米ある?」

「ある」

「作ってあげるから、もう帰ろう。いつまでもこんな雨の中を歩いてたら、さらに酷くなる。このアパート?」

「え! あ、……うん」

 とっさに中原の手を取ると、彼は繋いだ手を引こうと力を込めた。それでも天音の心配げな表情を見て、逆らえなくなったのだろう。ためらいを見せながらも、自宅へと案内してくれた。

「ちょっと散らかってるけど」

 六世帯入る木造二階建てのアパート。古びた鉄製の階段を上がり、廊下の突き当たりで中原が振り返る。
 少し照れくさそうな顔をしていて、天音は勢いで押しかけてしまったことを、いまさらながらに反省した。

「お邪魔します」

 部屋は一人暮らし向けの、ごく普通の1Kだ。入ってすぐにキッチンがあり、奥が六畳ほどの洋室になっている。
 散らかっていると言っていたが、かなり整頓されていて、洗濯物が少し溜まっているくらいだ。元々几帳面なのかもしれない。

「お米はここ、調味料はこの辺。冷蔵庫のものは適当に使って」

「わかった。中原くんは寝てていいよ。できたら起こしてあげる。あ、待って。これ貼ってから寝たほうがいいよ」

 冷蔵庫を開けたら、冷却シートの箱があった。取り出したものを、中原の額に貼り付けてあげると、彼は心地よさそうに目を細める。

「ありがとう」

「うん、ゆっくり休んでね」

 笑みを浮かべた天音に小さく頷くと、中原は大人しく部屋のほうへ戻っていく。中を覗けば、ベッドに横になって布団を被っていた。
 きっと熱が高くて、寒気がするのだろう。

「一人で心細かっただろうな」

 扉や冷蔵庫、水道の蛇口。部屋のあちこちから聞こえてくる中原の声は、手袋を外していても、やはり混線した状態だ。色々な感情がごちゃ混ぜになっている。

 それでも伝わってくる温かさに、天音はほっとした気持ちになった。ここは中原の心の声から生まれる光が、たくさん溢れていて、ひどく心地が良い。

 彼のテリトリーに入れてもらえて、じんわりと癒やされて、得をした気分にもなった。

**

「よし、そろそろいいかな」

 ぐつぐつと煮えた米は、いい具合にとろみが出ておいしそうに見える。
 熱で味覚が弱っているだろうから、味はそれほど感じられないと思うけれど。おいしいか、おいしくないかなら、絶対に前者だ。

 お粥には溶き卵と、冷凍の刻みネギもプラスした。少しかき混ぜて冷まして、ほぐした梅干しを載せれば出来上がりだ。
 天音は器を見下ろし、得意気な笑みを浮かべた。

「中原くん、起きられる?」

 部屋を覗いて、声をかけるが返事はない。しんとした部屋には、外の雨音だけが響いている。パタパタと滴る雫が、ベランダに当たる音がやけに耳についた。
 そっとベッドに近づいた天音は、眠る彼を驚かせないよう、ゆっくりと顔を覗き込む。

「やっぱり汗、掻いてるな。まだ熱が高いのかな」

「……えん、……どうさん?」

 汗で肌に張り付いた前髪を、指先で撫で上げると、まつげが小さく震え、中原が目を覚ました。

「身体、起こせそう? お粥、できたよ」

「うん」

 ゆっくりと起き上がった中原に、器を差し出せば、彼の表情がふんわりとほころんだ。どこか幼いような笑顔は柔らかく、自然と天音にも笑みが移る。

 もっと笑みを浮かべたら、彼を見て怖いなんて言う人は、きっといなくなる。そう思う気持ちと裏腹に、ほかの人に見せるのがもったいない、とも思った。

 雪宮はこの笑顔を、いつも見ているのだろうか。愛されている人の特権――当然か。

「おいしい。胃に、染み渡る感じ」

「少しずつ食べて。胃がびっくりするから」

「うん。ありがとう」

 お粥を口に運ぶ横顔を見つめれば、時々中原の視線が振り向き、はにかむように笑う。
 二人だけの静かな空間だけれど、触れたベッドから中原の声が流れ込んできて、天音の中は音で満ちあふれている。

 キラキラと周囲が眩しいほどに煌めき、その光の温かさに、天音はひどく心を癒やされた。
 声がクリアなので、体調が少し回復したのかもしれない。中原の横顔を見つめながら、天音はほっと息をつく。

 ――あったかいな。嬉しいな。なんでこんなに優しくしてくれるんだろう。やっぱりお人好しだからなのかな。それとも……いや、いい人だからだな。いい人すぎて、損しないか心配だ。

 素直な中原の言葉に、天音の口元が緩む。まだそれほど親しくもない他人を、こうして家に上げてしまう、彼のほうがよほど人が良くて心配だと思った。

 ――笑った顔、すごく可愛い。

「え?」

 ふいうちのように聞こえてきた言葉に、天音の頬が熱くなった。とっさに俯いて顔をそらすが、挙動不審な自分を見つめられて、ますます顔が火照る。

「遠藤さん? どうしたの?」

 表情を覗き見るように顔を寄せられると、恥ずかしさが増して、反射的に勢いよく立ち上がってしまった。

「汗、掻いたよね? 着替えしたほうがいいよ」

「う、うん」

「ついでに身体も拭こうか。まだお風呂は良くないだろうから。お湯、持ってくる」

 矢継ぎ早な言葉に、驚いた顔をする中原に背を向けて、天音は部屋を飛び出した。

「中原くんって、ほんとナチュラルに人のこと可愛いって言うよな。全然、意識してないんだろうけど。いつもより声の感じが優しくて、ドキドキした」

 これまでも天音は、他人に可愛いや綺麗、という言葉を言われたことはあった。
 しかしそれは美醜の善し悪しによる、感想に過ぎないもので、さきほどの中原のように、親しみや好意のこもった言葉ではなかった。

 じわじわと浸透してくる感情に、耳が熱くなり、心までふやけそうな気分になった。
 心にある気持ちで揺れるいま、面と向かって言葉にされたら、簡単に彼に落ちていただろう。

「あの子って、やっぱり無自覚な人たらし、なんだろうな。いままでもこうやって、ドキドキしてしまった子が多そう」

 この程度の言葉に振り回されていては、身が持たない。天音は心を落ち着けると、平常心、という言葉を繰り返した。

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