好きな人
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 予約したという店は、商業ビルの五階にある、洒落た個室メインの居酒屋だった。席はベンチシートで、目の前の窓からは雨に濡れた街並みが見える。

 もっとラフな居酒屋を想像していたので、選択の意外性に驚いた。それでも個室のほうがゆっくり話せるから、と言われれば納得もいく。
 誠も天音と似て静かな場所を好むに違いない。

「お疲れさま」

「誠くん、全快おめでとう」

「ありがとう」

 ハイボールのグラスとビールジョッキを鳴らして、二人で顔を見合わせる。乾杯とともに、ごくごくと天音がビールを飲むと、やんわりと誠が目を細めた。

「天音さん、気持ち良さそうに飲むよね」

「そんなに強いわけじゃないんだけど。お酒、好きなんだよね」

「じゃあいっぱい飲んで」

「やった、遠慮なく」

 見た目がお洒落なのに、メニューを見たらかなりリーズナブルだった。
 この価格帯であれば、誠の財布にあまり負担はかからないだろう。とはいえ天音は、すべて彼におごってもらうつもりはなかった。

 これがお礼だとしても、年下の大学生に全額払わせるほどの、図太さは持ち合わせていない。だがここで割り勘と言えば、誠のせっかくの気持ちを台無しにすることになる。

「そういえば誠くんの働いているお店、お魚がすごくおいしかったな」

「店長が毎日市場で仕入れてきてるから、新鮮なんだ」

「このあいだ食べたあじフライ、肉厚で食べ応えあった」

「天音さんは食べるのも好き?」

「好き。でも、誠くんも食べてね。じゃないと僕、一人で食べちゃうから」

 飲み物と一緒に注文した、つまみや料理が並ぶと、天音は遠慮なく箸を伸ばす。
 甘いものもよく食べるが、基本的に食事量が多いほうだ。昼食にカツ丼と天蕎麦を平らげられるほど、胃が大きく丈夫だった。

「図書館に来ないあいだ、本は読んでた?」

「うん、ちょうど積ん読本が結構あってね。ベストセラー作のファンタジーものを読んだよ。なかなか面白かった。分厚くて読み応えがあったよ」

「誠くん、わりと質より量?」

「んー、そうかもしれない。でも合わないものもあるよ。そういうのは、数行くらい読んで閉じる」

「たまにあるね、そういうの」

 二人きりという空間がいいのか、酒も進み、お互い少し饒舌なくらい、話が盛り上がる。おすすめの本の話から、話題の映像化作品まで。
 図書館と違って、ここでは大きな声で笑ったり、話したりしても誰に咎められることがない。

「俺、注文するけど、もう一杯飲む?」

「うん。ビールはお腹いっぱいになってきたから、焼酎の水割り」

 天音もよく飲むが、隣の誠はそれよりペースが速かった。一貫してハイボールだけれど、三杯くらいは先を行っている。
 しかし横顔を盗み見ても、まったく酔った様子がない。天音のほうは少し顔が火照って、酔いが回り始めていた。

「天音さん、ちょっと酔った?」

「ん、ちょっと」

「色が白いから、赤くなってるのすごくわかりやすい」

「そんなに赤い?」

「うっすらピンク色って感じ」

 ごく自然に誠の手が伸びてきて、指先が天音の首筋を撫でる。くすぐったい感触に首をすぼめたら、今度は小さく笑われた。

 優しい笑い声を聞くと、途端に恥ずかしくなってきて、天音は誤魔化すように目を伏せる。だがじっと自分を見つめる視線が、まったく離れていかない。

「誠くん?」

「頬にまつげが影を落とす、みたいな表現、よくあるけど。ほんとにあるんだね」

「あんまりそうやって見られると、恥ずかしいんだけど」

「天音さんって、全体的に色素が薄い。瞳の色、綺麗だよね。琥珀色、っていうのかな」

 いつもより距離が近くて、誠の小さな息が頬に触れそうになる。視線を上げたら、きっと目が離せなくなるだろう。
 酒で酔っているのか、誠に酔っているのか、天音はわからなくなりそうだった。

「そんなに顔を近づけたら、間違ってキス、しそうだよ」

 肩が触れそうなほど近くなり、天音は少しだけ抵抗を見せるように身体を引く。けれど一瞬のふいをつき、その隙間が埋められる。
 気づいた時には、唇に柔らかなものが触れていた。

「んっ」

 やんわりと押し当てられた唇。触れた場所から、一気に熱が広がりそうになる。頬や耳だけではなく、首筋まで赤くなっていくのが自分でもわかった。

 それでも押し離すこともできず、天音は誠の袖を指先で掴んだ。するとやんわりと唇を食んだ彼が、ゆっくりと離れていく。

「誠くん、……誰にでもこういうこと、するの?」

「しないよ。天音さんだから、触れたくなった。天音さんにキス、したかったんだ」

 熱を灯した瞳に見つめられて、胸の音がどんどんと早くなる。縫い止められたように目が離せなくなり、天音は小さく唇を噛んだ。

「天音さん、俺……」

「酔っ払いすぎ、だよ。好きな人、いるのに」

「え?」

「サボテンのユキって、好きな人の名前でしょう?」

「確かにそれは、そう、……だったけど」

 再び触れようと手を伸ばす誠を、天音は小さな精一杯で押し止めた。正直に言えば、もう一回、一回とは言わず何度でも、キスされたい。
 けれど天音はサボテンから感じた、大きな感情の波が忘れられなかった。

「こういうの良くないよ」

「一度好きになったなら一生、その人を好きでいなくちゃいけないの?」

「そういうわけじゃないけど。誠くん、すごく好きだったでしょ、その人のこと」

「最近は自分でもよくわからないんだ。あいつが好きだったのか、それとも好きでいる時間が長過ぎて、好きなんだって、思い込んでいたのか」

「わからないから、手近にいる人間で、試してみよう、ってこと?」

「俺が、そんなに器用に見える?」

「見えない。見えないけど、そんな風に聞こえる」

 伸ばされた手が、頬に触れる前に離れていった。唇を引き結んだ誠は、ひどく苦しそうな顔をする。そんな様子を黙って見つめていると、彼は天音から身を離し、距離を置いて座り直した。

「ごめん。だけど本当に、そんなつもりじゃなかった。ただ最近はずっと天音さんのことが、心から離れなくて。こうやって距離が近づくまでは、確かにあいつが好きだと思ってたよ。でもそれ以上に、天音さんといるのが」

「誠くん」

「……簡単に相手を乗り換えるような男に、こんなこと言われても信用できないよね。好きな人がいないってわかって、浮かれすぎた。変なこと言って、嫌なことして、ごめん」

 それは違う、そういう意味ではない。誠の言葉を打ち消したかったのに、天音は喉が張り付いたみたいに、声が出せなかった。
 本当は気持ちが嬉しいのに。

 誠は長く好きでいた相手に対して、簡単に手の平を返すようなタイプではない。いつから彼の視界に、自分は入り込んでいたのだろう。

 思えば涙を見られた春頃は、ちょうど誠の声が聞こえ始めた頃ではなかったか。
 だとしても泣いているところを見たくらいで?

 タイミングがさっぱり分からない。

 そのまま気まずい沈黙が続き、届いた水割りを一気にあおった天音は、意識がおぼろげになった。緊張がピークになっていたところに、濃いめのアルコールが入り、一気に酔いが回ったのだ。

 会計をするまで気を保っていたが、店を出ると、立っていられる自分に驚くほど、頭がぼんやりとした。

「天音さん、大丈夫?」

 隣で天音を支える誠は、心配そうに覗き込んでくる。まさかいきなり酔い潰れるとは、想像もしていなかっただろう。

「へ、いき」

「まっすぐ立ててないよ」

「少し休めば、大丈夫」

 エレベーターが下降していく感覚が、さらに酔いの浮遊感を助長する。足元がおぼつかなくなって、身体がふらつくと、腰を抱き寄せられた。

「すぐ車が来るから」

「だ、いじょう……」

「待って、タクシーに乗るまで寝ないで!」

 さらに強く抱き寄せられたが、膝の力が抜けた。かすかに耳元にため息が聞こえた――ところでぷつりと天音の記憶が途切れる。

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