身勝手な感情
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 さよならを言いたくないから逃げ出した。
 薄々気づいていたが、自覚をすると胸が苦しくなる。

 急に沈み込んだ天音の様子に、気づいているだろう道江は、わざと明るい話題を選んで話してくれる。気遣いがひどく嬉しいと思うけれど、時折聞こえてくる大きな笑い声に、気を取られた。

「遠藤くん、なにか悩みごとがあるんでしょう? 私で良かったら聞くわよ」

「あ、……いえ」

「どんなことでも気にせず話してくれていいのよ。絶対に内緒にしてあげるから。遠藤くんっていつも内に込めちゃうところあるから、心配だったのよ」

 今日この店を選んだのは、人の会話が聞き取りにくいから、という理由なのかもしれない。気分転換と言っていたが、きっと最初から天音の悩みを、聞いてくれようとしていたのだろう。

 とはいえ心の声を聞かれるのが怖くて、好きな人から逃げています。などと正直には言えない。
 たとえ信用のおける道江にでも、言えることと言えないことがある。誠にはあっさり言ってしまったのだが。

 逡巡する気持ちが湧くものの、優しく笑う道江の顔を見て、天音の心がわずかにほころんだ。

「実は、気になっていた人に、付き合って欲しいって言われたんですけど。その人はずっと片想いしている人がいたから、本当だろうかって、どこか信じ切れない自分もいて」

「ちゃんと好きって言われてないの?」

「言われてない、です。ちょっと色々うやむやになっちゃって」

 好きになってもいいか、と言われたが、はっきりと好きだと言われていない。恋人になりたいと言うくらいだから、そうであることは確かなのだろうけれど。

 確認する前に段階を超えてしまった、とは口に出せず、天音はつい口ごもる。最後までしていなくとも、酔った勢いで彼を誘うような真似をした、自分にも非があった。
 とんでもないうかつさに気づくと、余計に口が重たくなる。

 そんな天音の様子に、道江は酒のグラスを傾けて小さく息をついた。

「関係だけが、先に進んじゃったのね」

「……はい」

「いつも慎重に見える、遠藤くんにしては意外だけど。若い頃って、勢いばかりが先走ること、あるわよね」

「僕は、軽率に期待させた挙げ句に、逃げてしまって」

「それはちょっと良くないわね。お互いに言葉が足りず、すれ違っているのかしら」

「すれ違い、というより。僕が一方的に避けて、ます」

 あまり多くを語ると相手が誠であることが、バレてしまいそうに思える。ここ最近の急な態度の変化は明らかに異常だ。

 道江は天音が彼と親しくしているのを知っている。最初のうちは喧嘩でもしたの? と笑っていたのに、近頃では気遣ってか言葉にすることもなくなった。

「あっ」

「どうしたの?」

「いえ、なんでもないです」

 彼女は知っているからまだいい。だが知らない人から見たら、どう感じるだろう。天音がひどく拒絶する様子を見たら、誠がしつこくつきまとっている、と思われるのではないか。

 これまではほとんど自分が応対していたので、天音はすっかり忘れていた。ほかの職員たちはいまだに彼に対し、苦手意識があるはず。
 だというのに、さらに悪い印象を与えてしまった。

 このままでは図書館へ、誠が来られなくなってしまうかもしれない。本が大好きな優しい人なのに。
 誤解は解きたい。そう思っても、天音は以前のように傍にいることはできないとも思う。

「僕は自分の気持ちを知られるのが怖いんです。嫌われるのが、怖くて」

「遠藤くんはその人のこと、好きなのね」

「好き、です。でもそれ以上に怖いんです」

 始まる前から、終わることを想像している。馬鹿げた考えではあるが、天音にとってはとても大きなことだ。
 誰かと付き合うたびに、植え付けられたトラウマが広がっていく、そんな思いをさせられる。

 声を落とした天音に、道江は口を噤み、考え込むように頬杖をつく。まっすぐな視線から、天音は無意識に目をそらしてしまった。

「一人で勝手にジタバタしてるだけだって、わかってるんですけど。でも本当に怖くて」

「深い事情はわからないけど。遠藤くんはちゃんと相手に、気持ちを伝えるべきだと思うわ。聞かないのに、知ってるつもりになるのは駄目。言わないのに知ってもらえると思っては、駄目よ。人って言葉っていう形にしないと、伝わらないものがあるの」

 すっぱりと言い切った道江に、俯いていた天音の顔が前を向く。自分を見る道江のまっすぐさに、ひどく心を掴まれた。

 心の声が聞こえるから、相手のすべてを知っている気になる。誠に自分の想いが伝わらなければ、嫌われることがない。
 心のどこかで、天音はそんな風に考えていた。

 いつか自分のことを忘れてくれるだろう、という考えは、あまりにも身勝手だ。
 傷つきたくないから、誠の気持ちを無視した。

 心変わりした自分に戸惑って、彼はたくさん悩んだかもしれない。気持ちを打ち明けるのに、勇気が必要だったかもしれない。
 自分の残酷さに気づいて愕然とする。震えた手を握りしめると、天音の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「きっといまごろその人も、遠藤くんみたいに苦しんでる。どうして逃げられてしまったんだろうって、困惑しているわ」

「僕は、察しすぎて……逆に相手の気持ちに寄り添えなくなっていたのかな」

 心の声が聞こえるのだとしても、相手のすべてを知ることができるわけではない。それなのに天音は、それがすべてだと思い込んでいた。

 いま思えば、サボテンから聞こえた声も、長い時間の中で染み込んだもので、いまの誠の声ではなかったかもしれない。

 これまでがずっとそうだからと言って、誠が本当に自分を避けたり嫌ったりするとも限らない。
 憶測だけで相手の考えを決めつける。それは天音自身もされては嫌なことだった。

 突然のことにパニックを起こして、冷静さを失っていた。

「遠藤くんは少し他人に気を遣いすぎるところがあるわね。もっと大雑把でいいのよ。私みたいにどーんと大きな態度でも全然平気」

「道江さんは懐深いし、仕事ができるから許されるんですよ」

「あら、知らないの? 私はあそこで一番、手を抜くことがうまいのよ。みんなが忙しい時にぱぱぱっと楽をしちゃうの」

「僕も、そのくらいになりたいです」

「大丈夫よ。私を見習ったらばっちりよ」

 大げさな素振りで胸を張った道江に、思わず天音は声を上げて笑った。作り笑いではなく、ごく自然に笑えたのは久しぶりだ。おかげですっと、心が軽くなるような気がした。

「遠藤くんはもっと笑ったらいいわ。そのほうがずっと可愛いわよ」

「ちゃんと、話をしてみようと思います」

「それがいいわ。まっすぐ言葉を伝えてあげて」

「はい」

 天音の浮かべた笑顔に、道江は満足そうに微笑んだ。

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