二人のあいだにある見えない距離
風呂から上がると、脱衣所にシャツとデニムが置かれていた。半袖シャツはオーバーサイズでも、なんとか着られる。デニムはロールアップすれば、問題ない。
それらを身につけると、やんわりと優しい香りがする。香水などではない、それは柔軟剤の香りだった。
昔からこれがいいと、直輝が譲らなかったことを思い出す。甘すぎて当時の礼斗は嫌いだったが、いまでは懐かしい匂いだ。
「すっきりした?」
「うん」
扉を開いたら、部屋の中には香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。いつも直輝は豆から淹れるので、匂いが違う。
これも懐かしい香りだ。そんなことを思いぼうっとしていると、ソファに座っていた直輝が立ち上がる。
「コーヒー、飲む?」
「……飲む。俺の眼鏡は?」
「テーブルの上。それとスマホ、充電しておいたよ」
オープンキッチンの前にある、テーブルを指し示されて、礼斗はそこへ行き、眼鏡を取り上げる。
一緒に置かれていたスマートフォンをチェックしてみるが、大した用件はなかった。グループメッセージで、あの三人からのお疲れさまの言葉が、届いているくらいだ。
酔い潰されるのはいつものことだけれど、昨夜はいらぬ迷惑をかけてしまった。
昨日はすまない、と短いメッセージを送れば、まったく気にしていないと言わんばかりの、賑やかな返事が来る。相変わらずの反応に、礼斗はほっと息をついた。
「座ってて」
「ああ」
言われるがままに、ダイニングテーブルの椅子に腰かけて、礼斗は無意識に部屋の中を見回した。
十畳ほどのワンルーム。ものはあまりなく、散らかっている様子もまったくない。彼は昔から綺麗好きだった。
その反面、礼斗は普段の姿からは想像もつかないほどずぼらで、いつも片付けていたのは直輝だ。
「あんたの部屋は、相変わらずモデルルームみたいだな」
「そうかな? 礼斗の部屋は? 相変わらず適当?」
「そうだな。誰もいないし」
「……ふぅん」
曖昧な相づちを打って、直輝は目の前にマグカップを置いた。思わずそれと彼が握るカップを比べて、礼斗は小さく息をつく。
色も形も不揃いなマグカップに安堵した。
こんな小さいなことをめざとく確認する、そんな自分が情けなく思えるが、いまはどんな些細なことも見逃したくない。
少しでもきっかけがあれば、直輝の気持ちを知る機会があれば、モヤモヤとする気持ちも晴れるかもしれない。
「アヤはブラックだよね」
「うん。……だけど、あんたのを見てると口の中が甘ったるくなる。砂糖、いま何杯入れた?」
「四杯、かな?」
「山盛り四杯だろう。それ牛乳、どのくらい入ってるんだ?」
「半分くらい?」
「それはもはやコーヒーじゃない。せっかく挽いたコーヒーが無意味だ」
眉間にしわを刻んで、うんざりとした表情を浮かべた礼斗に、直輝は少し考える素振りを見せる。
さらにはなぜか、満面の笑みを浮かべた。
その表情の変化に、礼斗は窺うような目を向ける。いまのは反論されても良さそうな場面だ。
いくらいまさらなことでも、こうやって細かいことをブツブツ言う礼斗に、以前の直輝はよくイライラした様子を見せていた。
「な、なんだよ、その笑顔」
「いや、こういうやり取りも懐かしいなって思って。アヤのその嫌そうな顔、久しぶりに見ると可愛いなって」
「はっ? 馬鹿にしてんのか?」
「違うって、ほんと純粋に、そう思ったの。アヤの可愛さを再認識した感じ」
楽しげに笑った直輝は、甘ったるいだろうカフェオレを飲みながら、にこにことした。その顔はからかいや、冗談を言っているようには見えない。
確かに――優しい笑みと静かなこの光景は、昔の時間を思い起こさせる。
むずむずとした、くすぐったい感覚を誤魔化すように、礼斗は目を伏せてコーヒーを口に運んだ。
「はあ、やっぱりブラックに限る」
「苦くない? どう頑張っても俺は飲めないよ。アヤってさ、基本的に味の濃いものが嫌いだよね。辛うじて食べられるのはソースとかくらい?」
「なにが言いたいんだよ。味覚音痴だとでもいいたいのか? お前の舌も大概だぞ」
「なんかもったいないっていうか。ちょっと損してる気がする」
「うるさいよ! 俺の勝手だろ。お前に面倒をかけているわけでもあるまいし!」
「うん、そうだね」
ふいに、寂しそうに笑った直輝の顔に、礼斗は我に返った。またけんか腰になっていた自分が情けなくて、がっかりとした気分にさせられる。
どうしてこうも、突っかかる物言いをしてしまうのか。いつまでも大人になりきれていないのは、自分だけだ。
「悪い。言い過ぎた」
「いいよ。別に気にしてない」
どこか素っ気なく聞こえる直輝の返事に、胸がズキズキと痛む。もしかしてもう、どうでもいいと思われている?
思わずマグカップを握って、舌打ちまでしてしまい、ますます気分が降下する。だが顔を合わせられず俯く礼斗を見て、直輝はすぐさま話を変えてくれた。
「アヤ、もう十一時だから、朝昼ご飯だけど。なにが食べたい?」
「……肉が、食いたい」
「珍しいね。そっか肉かぁ」
本当は朝なら、さっぱりとした和食が食べたい。魚派の礼斗と肉派の直輝。昔ならどちらにするか、バトルになっている。
胃にもたれる肉など普段であれば論外だが、礼斗なりの失言続きの詫びだ。
「じゃあ、駅前にステーキハウスがあるから、そこに行こう」
「うん」
「おいしいから楽しみにしてて」
先ほどとは一変した、機嫌良さそうな笑顔。その表情を見た途端に心が軽くなり、礼斗の口元が緩む。けれど表情の変化に気づいたのだろう直輝に、覗き込むように見つめられて、思わず顔をしかめてしまった。
自分の感情表現の下手くそさに、礼斗はまた落ち込みそうになる。
それからしばらく無言のまま、コーヒーを飲んでいる様を、直輝に観察されていた。なにを言うでもなく、ただ黙って礼斗の顔をまっすぐに見つめて、たまに小さく笑みをこぼす。
よくわからない彼の行動に戸惑うものの、嫌な気分ではなかった。
昔もよくこんな場面があったな、と不思議な気分になったくらいだ。思えば直輝は昔から、言葉が足りないところがあった。
言わなくてもわかるだろうと、思っている節がある。だが普段よく喋る人間が黙っている時など、なにを考えているかまったくわからない。
「相変わらずだな」
「なにが?」
「なんでもない」
わからなければ聞けばいい、簡単なことだ。それでも礼斗は昔から、うまく気持ちを言葉に変えることができなかった。この行動ができるだけで、衝突も減ることはわかっている。
だが頭で理解していても、言葉が紡げない。おそらく私生活でのコミュニケーション能力が、呆れるくらい皆無なのだろう。
とはいえこの関係を修復するためには、どこかで変わらなければいけないとも思う。きっと自分から行動を起こさなければ、この先ずっと変わらない。
「そろそろ行こうか」
「……うん」
悶々としているあいだにコーヒーが飲み終わり、タイミングよく直輝が立ち上がる。それとともに手を差し出されて、胸の音が跳ねた。じっと見つめれば、笑みを返されて鼓動が早まる。
しかし礼斗が手を取ろうとしたところで、ハッとしたような表情とともに、手が引っ込められた。
「ごめん、昔の癖でつい」
「ああ、うん」
いきなり突き放されると、大きく一線を引かれたみたいに感じる。寝起きの時といい、やはりもう誰か相手がいるのかと、勘ぐらずにはいられない。
しかし真実を確かめたくとも、言葉をかけるタイミングを見つけられず、ますます会話のハードルが高くなる。
「とことん、馬鹿だな。……俺は」
どうせ文句を言うのなら、思わせぶりな態度をする直輝に、なぜすぐ手を離すのだと聞けばいいのに。
離れていく手を引き止めるくらいの、勢いと度胸が欲しい。玄関へと向かう、直輝の背中を追いかけながら、礼斗は何度目かわからないため息をついた。