ずっと傍にいる
笑ったら笑ってくれる。原理としては確かにそうだが、いざ意識するとタイミングが見当たらない。
そもそも礼斗は、笑みを浮かべる表情筋が死んでいると、親にまで言われたことがある筋金入り。
せっかく綺麗に産んであげたのにと、母親が嘆いていた。そんな欠点プラス、口を開けば可愛げのないことばかり言う。
「これ、あれだろ。ここでお前が好きだった、とか言うんだろう。パターンだよな」
「アヤはまたそうやって、突っ込み入れる」
「面白いか、これ」
「王道だけど、それがまたいいんだよ」
話題の純愛映画は、まったく礼斗の好みではないが、さきほど好きなアクション映画を観たので、順番だ。
マグカップのコーヒーを飲みながら、熱く語る直輝の言葉を、右から左へ聞き流す。いつも必ずこうして茶々を入れるので、その分だけ彼の語りにも力が入るのだ。
「好きだ好きだで、なんとかなるなら、世の中は平和だよな。赤い糸なんて、信じてるわけじゃないよな?」
「うわぁ、夢のない発言」
「うるさいな。あんたが恋愛に夢見すぎなんだよ」
好きだ――その言葉だけで乗り越えられるのなら、二人の関係はひび割れていなかっただろう。
毎朝毎晩、好きだ好きだと言い続けていた直輝は、一方的な言葉を突きつけた日、あっさりとそうだね、と頷いた。
恋だとか愛だとか、高尚なもののようにみんなは言うけれど、引き金を引けば一瞬で打ち砕かれる。結ばれた赤い糸だって、あっという間に断ち切れる。
しかしいま考えても、あの時の彼の気持ちがよくわからない。
否定してくれる、そう思っていたわけではないが、あまりにも即答で呆気にとられた。
もうとっくに愛想が尽きていたのか。それとも――礼斗が言葉を翻すのを待っていたのか。
「まさか、ないよな」
ずっと前者であると思い込んでいたけれど、後者であれば、礼斗は復縁のチャンスを、すでに失っていることになる。
「アヤ」
「な、なんだ」
思考を遮るよう名前を呼ばれ、肩が跳ね上がる。ぱっと隣を見ると、やけに真剣味を帯びた眼差しがあった。
訝しげに礼斗が目を細めれば、そっと頬を撫でられる。
「好きだよ」
「え?」
「……って言われたら、ドキドキしない?」
「し、しねぇよ、馬鹿!」
ふいに耳元に囁かれた言葉のせいで、胸の音がドキドキを通り越し、バクバクと音を立てる。心音が耳元で鳴っている気がして、余計に速度が増す。
先ほどストーリーを馬鹿にしたから、からかいで言われているのだろうと、わかっていても焦る。
うろたえた顔を見られたくなくて、礼斗はとっさに俯いた。それなのに直輝は、さらに身体を近づけてくる。
二人掛けのソファがやけに窮屈に感じた。
「狭い! なんだよ、いきなり。からかうのもいい加減にしろ」
「からかったつもりはないよ。ただなんだかアヤが隣にいるのが、不思議だなって思って。ちょっと確かめたくなった」
「どういう意、味……って、近い!」
視線を上げると、触れそうなほど近くに直輝の顔がある。あと数センチ近づけば、唇にも届きそうな距離だ。
「キス、する?」
「えっ?」
思いも寄らない問いかけに、礼斗の声が上擦った。じっと唇を見つめすぎたかと、顔がじわじわと熱くなって、自分が紅潮しているのがはっきりとわかる。
そわそわと目を泳がせれば、目の前の唇が笑みを象った。
「アヤ、可愛い」
「ぁっ」
ふっと笑った直輝の息が唇に触れる。そのあとはぎゅっと目を瞑ってしまい、彼の表情は見えなくなった。それでも唇に触れた温かさは、しっかりと感じる。
ゆっくりと唇を合わせて、何度も触れては離れる、じれったさにむず痒い気持ちになった。けれど礼斗は唇をぎゅっと引き結ぶ。
「アヤ、口開いて」
甘えを含む直輝の声に、ゾクゾクとさせられるが、さらに拒むように顔を振った。すると両手で頬を包み込まれる。
「嫌だった?」
「違う。意味もなく、振り回されたくない」
キスをされるのは嬉しかったけれど、理由のわからないキスはまたこの先、不安を募らせる原因になるだけだ。
瞳を覗き込むように見つめてくる、直輝を押し離し、礼斗は視線を落とした。まっすぐな目を見ると流されてしまいそうで、顔を覗き込まれても、頑なに目をそらす。
そうすると本当に、礼斗が嫌がっているのを感じたのか、直輝は身体を離した。並んで映画を観ていた時よりも、距離が広がる。
「ごめん」
「それ、なんのごめんだよ。まさかあんた、誰にでもこういうことするのか?」
「そんなわけないだろ! これはアヤが、……」
「俺が、なんだよ」
しゅんと萎れた直輝に、眉をひそめてみせれば、珍しく視線が落ち着きなくさ迷う。いつでも一直線に向かってくる直輝にしては、珍しい反応だ。
とはいえここでまた話をうやむやにされるのは、さすがに我慢できない。顔を上げて直輝を睨み付けると、Tシャツの襟首を掴んだ。
「はっきり言えよ!」
「アヤが、まだ俺のこと好きだって、言うからだよ!」
「は?」
「酔ってる時の言葉を、真に受けるのはどうかって思ったけど。最近のアヤはしおらしいって言うか。すごく可愛いところ見せるから、本当にそうなのかなって、期待してた。でもキスしても、普段の態度はいつも通りだし、判断がつかなくて、確かめたかった」
「酔って、る時? ……あっ」
ふと思い出した、会議室で直輝が言いかけた言葉――昨日、言ったこと覚えてる? ――久しぶりにされたキスで、礼斗はすっかり忘れていた。
その続きがそんなことだったなんて、予想外すぎて頭が混乱する。
あの日、直輝が礼斗を家に泊めたのは、好きだと言ったからなのか。信昭の言っていた進展、とはこのことか。
「アヤ! 本当のところ、どうなの?」
「そ、れは……幻聴だ。幻覚だ! そんなわけ、ないっ」
肩を鷲掴まれて、礼斗はとっさに声を上げる。思っていることとは反対の言葉が飛び出すが、顔が茹で上げられたように熱くなった。視線がウロウロとすると、伸びてきた両手に真正面を向かされる。
逃げ場のない状況に、礼斗の表情が強ばるけれど、直輝は怯むことなくまっすぐに見つめてきた。
「別れる時はアヤの本音、聞かなくて失敗したから、今度はちゃんと聞かせて」
「……それは、その」
これは復縁のチャンスだ。そう思うのに、口の中がカラカラに乾いて、言葉が思うように紡げない。
また余計なことを、言ってしまったらと思うと怖かった。
自分で切り出すべきだと思っていたのに、肝心の場面で尻込みをする。自分の弱さに嫌気が差す。
「アヤ、期待していい?」
「……」
返事をしようとしても、なにかがつっかえたみたいに、一言も発せない。もどかしくて、礼斗は無意識に顔をしかめてしまった。
その表情に直輝はひどく不安そうな顔をするが、そんな顔をさせたいわけではない。言葉の代わりに手を伸ばして、彼の服をきつく握った。
「ゆっくりでいいよ」
優しい手が髪を撫でて、力の入った身体を少しずつなだめていく。浅い呼吸を整えながら、礼斗は頭の中で言葉を探した。
「直輝」
「ん?」
「……傍に、いてくれ。ずっと俺の傍に、いて欲しい」
好きだとか愛しているだとか、甘い言葉がいいのかもしれない。それでもこぼれた言葉が真実だ。
気づかないふりをしていたけれど、離れていた時間は大事なものが抜け落ちて、礼斗の心は空虚だった。
必死でその穴を埋めようとしたが、ほかの誰かでは代わりにならないのだと、いまならわかる。
「最初に突き放したのは、俺、だけど。……これから少しずつ、直すから」
「うん、これからはずっと傍にいる。手を離してごめんね」
「本当に? 俺で、ほんとにいいのか? また嫌な思い、させるかもしれないぞ」
両腕で抱きすくめられて、胸がじわじわと温かくなる。しかし不安も浮かぶ。また同じことを繰り返す可能性が、なくなったわけではない。
ちらりと窺うように、礼斗が直輝の顔を見上げれば、気持ちを見透かしているのか、やんわりとした笑みを返された。
「アヤがいい。あれから誰ともうまくいかなくて。アヤのことばっかり思い出してた。あの容赦ない辛口が懐かしいなって」
「あんた、実はマゾっ気があったのか?」
「え? 違うよ! 自分にだけ素顔を見せてくれている、それが嬉しかったんだよ。あそこまで本音でぶつかり合えたの、アヤくらいだよ」
毎日が楽しかった――ぽつりと呟いた直輝の声に、胸がきゅっと甘く締めつけられた。
「俺も、楽しかったよ」
「じゃあ、それを過去形じゃなくて、楽しいにしよう」
「……うん」
「あっ、やっぱりアヤ、笑うと可愛いよ」
「え?」
「アヤの全部、閉じ込めちゃいたいな。この笑顔、誰にも見せたくない」
「あんたって、ほんと物好きだよな。俺みたいなのがいい、なんて」
「アヤは自分の良さをわかってないよね。俺はアヤじゃなくちゃ、嫌なんだ。好きだよ、本当にアヤだけが好き。……やっと、言えた。俺、ずっと言いたかったんだ。でも気持ち確かめるまで、言っちゃいけないような気がしてて」
きつく抱き寄せられて、腕の中に閉じ込められる。たったそれだけのことが、やけに幸せだと思えた。
両手を伸ばして、広い背中を抱きしめ返せば、すり寄るように頬を寄せられた。