ぎこちない笑顔
まだ一度しか歩いていない、慣れない駅までの道。ただ隣を歩く、それだけのことがもどかしいような、居心地の悪いような気持ちになる。
いま付き合っている人はいるのか?
そんな問いかけすら、素直になれない礼斗は言葉にできない。そもそも復縁を切り出せるだけの、勇気がなかった。
大学時代、好きになったのは礼斗のほうが先だったが、付き合おうと言ったのは直輝だった。あの頃も彼の言葉を待ってばかりだった気がする。
ほぼ会話もなく黙々と歩く。昔であれば気にならなかった沈黙が、いまはやけに重たく感じる。
「いらっしゃいませ。あっ、上条さん、こんにちは」
「二人なんだけど」
「カウンターでもいいですか?」
「アヤ、大丈夫?」
「うん」
連れられて入ったのは、まだ新しさを感じさせる、カントリー調の小さな店だった。四人掛けのテーブル席が三つ、鉄板が目の前にあるカウンターは四席だけ。
昼には少し早い時間ながらも、テーブルはすでに満席だった。外の看板を見たところ、ランチがかなりリーズナブルで、客の目当てはそれだろうと思った。
席に着くと目の前で調理している、店主とおぼしき人がにこりと笑う。その笑みに小さく会釈を返し、礼斗はメニューを開いた。
「上条さん、上条さん」
「ん?」
「お綺麗な方ですね。彼女さん?」
「え?」
メニューに視線を落とした礼斗だったが、店員の女性がちらちらと、自分を見ていることに気づく。
こそこそと耳打ちしているけれど、狭い店内、黙っていれば会話など聞こえてくる。
サイズの合わない直輝の服を着ているので、普段より華奢に見えるに違いない。だがどう返すのか気になって、礼斗は聞き耳を立ててしまった。
「ああ、彼氏、かな?」
「え?」
「残念ながら、彼女じゃないよ」
「あっ、男性だったんですね。ごめんなさい。とても綺麗だったから、つい」
礼斗が視線を上げると、こちらを見た彼女と目が合い、深々と頭を下げられる。悪気はまったくないように見えた。
口を開くと余計なことを言いがちなので、礼斗は黙って片手を上げるだけにとどめた。
「ごゆっくりどうぞ」
冷やグラスを置いて恥ずかしそうに去って行く、小さな背中を見送り、ふと思い返す。元々直輝は同性愛者ではなかった。
昔はああいった可愛らしい子と、付き合っていたはずだ。それなのにどうしてこんなに性格のひねくれた男と、付き合う気になったのか。
自分のことながら、礼斗は不思議でならなかった。
顔が好き、と正直に言われたことはある。とはいえ顔が好みなだけで、男に走るとか、普通あり得るのか。
礼斗は元より男性が恋愛対象だが、いきなり女性に恋に落ちる可能性があるのか、と問われれば、ないときっぱり言える。
「アヤ? どうしたの難しい顔して」
「なんでもない」
「そう? 肉はどれがいい? グラムは細かく指定できるから、胃もたれは大丈夫だと思うけど」
直輝は性別を、あまり意識していないのだろう。無意識のバイセクシャル。それは少々厄介な話だ。
どこで誰に、恋に落ちるかわからない。しかも六年という月日の壁で、見えない部分が多すぎる。
執着を見せるのに、いざという場面で手を離すのは、なぜなのか。直輝の真意がさっぱり見えてこない。
もしいま誰とも付き合っていなくて、少なからずこちらに興味があるにしても、ことあるごとに突き放されると近づくのがためらわれる。
本当にただ昔の癖で触れてくるだけなのだろうか。そこになにも感情がない?
グラスを手に取ると、溶けていく氷をカラカラと回し、礼斗は頭の中でごちゃごちゃとしている感情を整理する。
そもそもなぜ自分も、ここまでこの男に執着するのだろう。
未練が残っていた。それは確かだ。それプラス、一方的に振ってしまったから、罪悪感がある。
そこまで考えて、礼斗は隣にいる男をじっと見つめた。昔からお互い、駆け引きは苦手だった。
「直輝」
「なに?」
「……これがいい。和風ソースで」
「アヤはハンバーグのセットか。じゃあ俺はサーロインにしよう」
「うん」
駆け引きは得意ではないけれど、いまここで話すには人目がありすぎる。常連だろう直輝が顔出しできなくなるような、話題は避けるべきだ。
手早く注文をする彼を見ながら、いつ切り出そうかと考える。
このあと少し時間を引き延ばそう、そんなことを思って、礼斗はスマートフォンをポケットから取り出した。
「映画、か」
この近くのスポットを探すと、映画館が何軒かある。しかしタップして上映一覧を見るが、これと言ったものが見つからない。
「なにか観たいのでもあるの?」
「いや、特にはない」
「じゃあ、なにか借りて家で見る? 明日も休みだし、ゆっくりさ」
「え? ああ、まあ、そうだな」
思いがけない誘いに、口元が緩みそうになる。だがそれを押しとどめて、礼斗は唇を引き結んだ。
「アヤ、さ。昔にも増して、眉間のしわが癖になってるよね」
「う、うるさいな。いいだろ別に」
ふいに近づいた指先に額を小突かれて、ますます眉間に力が入る。すると直輝は頬杖をつきながら、まっすぐと見つめてきた。
その優しい眼差しに、自然と礼斗の目が泳ぐ。
「せっかく美人なのに、もったいない」
「見た目、そんなに重要かよ」
「そりゃあ、多少はね。アヤもにこって、笑ったら可愛いよ」
「嘘だ。あんた、あ然とした」
まだ礼斗は忘れていない。久しぶりに二人で飲んだ時の、あんぐりと口を開けた顔。酔っ払い扱いされたことは、いま思い出しても恥ずかしくて腹立たしい。
「ん? ああ、あれか。あれは、ね。んー、いや、なんていうか。アヤがあんな風に笑ったところ、いままで見たことあったかなって、びっくりしただけ」
「嘘だ」
「ほんとだって。ほら、もう一回、にこって笑ってみて」
「……嫌だ。なんでなにもないのに、笑わなきゃいけないんだよ」
「それはやっぱり、俺が見たいから? しかめっ面も愛着あるけど、笑った顔も可愛かったよ。ほらほら、にこーって」
「い、嫌だ」
頬を優しく撫でられて、触れられた場所が熱くなる。それを隠すようにそっぽを向くが、カウンターの向こうからも、小さな笑い声が聞こえた。
自分を見つめる視線と、周りの視線を集めている現状に、礼斗は穴があったら入りたいと思った。
「はーい、お待たせしました。熱いのでお気をつけください」
しばらく黙って俯いていると、気配が近づいて、礼斗の前に鉄板を乗せたプレートが置かれる。その上ではハンバーグが肉汁を弾けさせていた。
「ソースが跳ねるから、ナプキンもって」
「ああ、うん」
言われるがままに、テーブルの上のナプキンを広げると、湯気立つハンバーグにソースがかけられる。そしてじゅわっという音とともに、香ばしい匂いが広がった。
さほど肉が食べたかったわけではないが、その香りに食欲を誘われる。
「あ、笑った」
「え?」
「おいしいものを前にすると、笑顔って浮かぶよね」
「いまのは笑ったうちに入らない!」
「アヤは滅多に笑わないから、十分カウントされるよ」
「カウントするな!」
「写真を撮れば良かったな。もったいないことした。さっきのアヤはなかなかのお宝級だったよ」
どんな笑顔も、得意気に笑った直輝の眩しい笑みには敵わないと思う。
それでも素直に笑えたのなら、もっと笑みを向けてもらえるのかと、少しだけ前向きな気持ちが湧いた。