「日本語という言葉は世界で一番難解で、だが世界で最も美しい言語だと僕は思うね」
暁治の祖父は、生前口癖のようによく言ったものだ。
ひらがなかたかな、漢字と、三つの文字を使い分け、ときには文体や読みを無視して言葉を綴る。確かに初めて日本語に触れる人間には、難解な言語かもしれない。
だがそう言うときの祖父の顔はとても誇らしげで、日本語という言葉をこよなく愛していたのがわかる。
教師として学生たちに古典文学を教えていたこともあるのだろう。
昔はどこかの大学の講師もしていたようなのだが、祖母と結婚後は片田舎に引っ込んで、小さな学校の文壇に立つことを選んだ。
博識だがそれを鼻にかけることもない。子供の暁治の疑問にも答えてくれる。いつもにこやかな笑みを絶やさない、おっとりとした人であった。
母方の繋がりではあったが、子供が母のみだったため、大層可愛がってもらったのを覚えている。
暁治も小さいころは長期休みのたび、祖父母宅へと遊びに行ったものだが、中学、高校に進学するころには友達との付き合いが多くなり始め、すっかり縁遠くなってしまった。
祖母が亡くなったのは彼が大学生のころで、久しぶりに見た田舎の家はやけに小さく見えたものだ。
「よう来たなぁ」
腰が曲がり、すっかり小さくなってしまった祖父に迎えられ、長い間のご無沙汰を詫びると、彼はゆっくりと首を振った。
「便りがないこた、えぇことや。はるが毎日元気でおるんが一番やからな」
それでもずいぶん可愛がってもらっていたのに、連絡の一報も入れないのはどうだったろうか。大いに反省した暁治は、それからは折あるたびに連絡を入れるようになった。
年寄りに田舎暮らしは大変だろうと、両親は再三こっちへ来てもらおうとしたのだが、祖父は頑として首を振らなかった。
そんな祖父も亡くなったのは昨年末。
親戚だと名乗る、行事ごとに会う人、初めて会う人たちとやり合いつつ、慌ただしく喪を済ませ、すっかりがらんとした部屋の片隅に座ると、庭先にかかる月が白く浮かんでいる。
持ってきた荷物は多くない。ボストンバッグひとつだけだ。家具や備品は揃っているし、足りないものは買い足せばいいと、ほぼ身ひとつでここに来た。
祖父が暁治にこの家を遺したと聞いたのは、つい先だってのこと。
両親は思い出の残るこの家を処分したがったのだが。
不意に冷たい風が頬をなでた。
「っ、寒っ」
今日は暦の上では立春という。
春なのにこんな寒いのは、果たしてどうだろうかと思う。東からの風は春のものとは聞くが、まだ春の女神の息吹は遠そうだ。
しんしんと、静まり返る夜半。つい昨日までいた都会とは一転してなんの音も聞こえない。
今までこの家に来るといつも祖父が、祖母がいた。
実家には両親と妹が。本当の意味で独りになったのは初めてだと気づく。
――一人になりたかったはずなんだがなぁ。
ぽつりと、心の中に声が落ちる。
自ら望んだことでも人恋しくなるのは、果たして贅沢なことだろうか。
「寒い寒い」
無音を払い除けるように、ことさら大きな声で言いながら戸を閉めると、暁治は寝巻きの前合わせを掻き込みながらストーブの火を入れた。昔懐かしい石油ストーブは、火がつくと灰色だった周囲まで温かな色になった気がする。
古いストーブは、冬に遊びに来るたび世話になったものだ。
しゅんしゅんと沸いたやかんから、温かい湯を注いで飲むお茶や、大好きなココア。
特に上に網を置いて、炙ったかき餅がぷっくりふくれるのを見るのが好きだった。
餅は年末ついたもの。小さなころは親戚総出で大騒ぎしてついた後、醤油や餡、きなこや大根おろしを絡めて食べたものだ。丸めて鏡餅や雑煮に入れたり。
地方によりかき餅は揚げるものだと聞いて驚いたのだが、この地方のかき餅は炙って食べる。特に砂糖を入れて紅色に染めたかき餅は、彼のお気に入りだ。
田舎は退屈だと大人はいうが、幼かった彼には宝の宝庫だった。寂しい長い冬の夜も、一人で田舎に遊びに来た孫に、祖父はよく寝物語をしてくれた。ここで出来た友人とキャアキャア言いながらよく聞いたものだ。
「なんだっけなぁ。『夜来たるもの』だっけ」
読書家でもあった祖父がよく話してくれた物語のひとつ。夜に来たる怪の話。
ひたひたと闇に紛れて忍び寄る異形の存在。
真昼の太陽の下では存在出来ない怪異。「怪語れば怪来たる」と言われ、夜中にトイレに行けずに泣いたことも多々あったことを思い出し、思わず苦笑が漏れてしまう。
とはいえ、それも小さいころの話だ。もう彼のお茶目なお伽話に惑わされる歳でもない。
おっとり優しげな風情をしていた割りに人が悪かったのだ、あの人は。
ため息をつくと寝酒でも飲むかと、台所へと向かう。家具も冷蔵庫も前の持ち主のものを流用してるおかげで、引っ越したという気分はほぼない。楽ではあるのだが。
「やっぱ寒い日には熱燗だよなぁ」
燗をレンジに入れて独りごちる。しまった、ストーブで温めれば風情が出たかもしれないと、思わず舌打ちをしたものの、また次の機会があると思い直した。
独り言が多いのは、あたりが静かなせいだろう。暁治はさほど酒を嗜む方ではないが、今日ばかりは無性に飲みたい気分だった。
「引っ越し祝い引っ越し祝い」
だが酒の飲めない子供の時間をここで過ごしてきたからだろうか。一足飛びに大人になってしまった気がして、変な気分になる。
祖父もよく寝酒をしていたなと、そんなことまで思い出した。
子供が飲むと『夜来たるもの』が連れに来るぞ。
などと、そんな子供だましの禁則事項まで付け加えて。とはいえ、さすがにもうこんなに大きな子供はいないだろう。
そう、苦笑いをする暁治の耳に、小さな音が聞こえた。ともすれば掻き消えそうなほどの小さな、だが紛れもなく耳に響く音。
ほと、ほと。
怪語れば、怪来たる。
そして怪を語る。
それは、過日のものを想うだけでも始まるのだろうか。
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