末候*雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)

 この町に来た頃は春と暦で呼ぶのにまだ寒くて、暖かい春はまだかまだかと待ちわびていた。けれど軒下の雀に雛が生まれる頃には散歩をする道にも桜が咲き、庭の桜も満開に近いほど花を広げる。

 そうすると人はウキウキとした気分になるもので、春の陽気に誘われてイーゼルの傍にレジャーシートを敷く。のんびりと絵を描きながら酒を飲んで、なんて贅沢だろうと暁治はにんまりと笑みを浮かべた。
 花見の場特有の賑やかなざわめきもない。調子外れた歌も聞こえてこない。大きな桜を独り占めするのは実に気分がいい。

「つまみがスルメイカだけってのは寂しいが、まあいい」

 炙ったスルメはマヨネーズに醤油を垂らしたものを付けていただく。そして今日のために買っておいたとっておきの日本酒を煽る。この庭で花見酒――ようやく本物の酒で味わうことができた。
 せっかくなら祖父と楽しみたかったものだなと、少しばかり後悔が滲む。祖母が亡くなってから暁治は連絡こそ入れていたが、もっと会いに来たら良かったと思う。気にするなと笑っていたけれど、本当は寂しく思っていたのではないか。

 いくらご近所さんが賑やかでも、この広い家に一人きり。うるさい親や妹がいなくて清々すると思うが、暁治でも時折静けさに取り残されるような気分になる。
 昔は親戚もよく集まったが、いまは随分と縁遠くなったものだ。

「おーいっ、はるっ?」

 シートに寝転がり、酒の心地良さとお日様のぬくさにウトウトしていると、ふいに影が落ちる。重たいまぶたを持ち上げると逆さに見えた朱嶺の綺麗に整った顔。元が良いとどの角度から見ても見栄えがいいのだなと思っていたら、それは困ったように笑う。

「もう、いくら天気がいいからってこんなところで寝てたら風邪を引くよ。また酔ってるの?」

「……酔ってない」

「それ、酔ってる人が言う常套句。ほら、起きなよ。お天道様はまだ高いし寝るには少し早いよ。一人で花見をするくらいなら僕も誘ってよ」

「だってお前の連絡先、知らない」

 横になっている暁治を起こそうとしているのか身体に手をかけられる。しかし二人には体格差がそこそこある。それでも頭を持ち上げられて、鬱陶しくて首を振ったらぬくもりが触れた。
 目を瞬かせて上を見れば相変わらず逆さに見える顔。けれど頭が一段高くなって膝枕をされているのに気づく。女性に比べたら柔らかくない太ももだ。それでも久しぶりに人に触れたような気がして暁治はそのまま黙ってしまう。

「寝っ転がってお酒を飲んでたらこぼしちゃうよ」

「んっ、あっ! お前、いま飲んだな?」

「えー? 気のせい気のせい」

 手にしていたおちょこを取り上げられて、視線を動かせば朱嶺がそれに口を付けたのが見えた。普段の暁治ならすぐさま起き上がって酒を取り上げるところだが、暖かな陽気と心地良い酔いにふわふわとしてまたまぶたが落ちそうになる。

「今年も桜が綺麗だね」

「じいちゃんは毎年花見をしてたか?」

「してたよ。みんなで夜まで大盛り上がりさ」

「そっか」

「うん」

 柔らかい返事に視線を持ち上げる。桜を見上げる彼の顔はどこか愁いを帯びていた。時折見せるその顔が暁治は気になっている。けれど聞いてはいけないような気がしていつも言葉にできない。
 歳より大人びたような横顔や眼差し。いつもの明るい彼の裏側を見るような心地になる。

「こうして見ると」

「ん?」

「お前の頭、もっと薄い色かと思ってたけど赤いんだな。ちょっと黄色っぽいけど、赤茶色、なのか?」

「んふふ、綺麗な色でしょ。正治さんは赤朽葉色だって言ってくれた。秋の紅葉みたいだねって」

「……ああ、お前は髪の色もそれと同じ瞳の色も、綺麗だな」

 彼の色も顔立ちも純日本人には到底見えない。それでも和装がよく似合う見目は、一枚絵にしたらさぞかし美しいだろうと思う。普段姦しいが、黙っていると本当に人形のようだ。
 それに目を細めたら、朱嶺はやんわりと笑って暁治の黒髪を指先で梳いた。優しい手は心の奥にあるなにかを揺り動かす。しかしそれに意識を向けようとしたら、ふいに遠くで雷が轟いた。

「はる、起きて。庭を片付けよう。天気が変わる」

「え?」

「春雷だよ。この季節は天気が不安定だから」

 突然急かすように身体を持ち上げられた。細い身体のどこにそんな力があるのかと思うほどの勢いだ。上半身を起こすと背中を叩かれて、暁治は目を瞬かせる。そのあいだに朱嶺は慌ただしくキャンバスやイーゼルを縁側へ避難させた。
 天気が大きく変わり始めたのはのらりくらりと家に上がった頃だ。空が雲に覆われ、冷たい風が吹いてちらちらと白いものが舞い始める。

「えっ? 雪? 春なのに」

「山間だからね。天候が変わりやすいんだ。雪で良かったけど、この時期は雹が降ることもあるよ」

 縁側でガラス戸の向こうを見ていると、そそくさとこたつに入り込んだ朱嶺がおちょこを傾けている。その姿があまりにも自然すぎて一瞬判断が遅れたが、慌ただしく居間に駆け込んだ暁治はその手から酒を取り上げた。

「お前はほんとに油断も隙もない」

「ケチだなぁ、ちょっとくらい別にいいじゃない。はるも小さい頃にお父さんとかにねだったことない?」

「……な、なくは、ないが、駄目だ!」

「頭の固い大人になっちゃ駄目だよ」

「いやいや、頭が緩いのも駄目だろう」

 頬杖をついて呆れたような顔をされて、なにか自分が間違ったことを言ったような気持ちにさせられる。それでもぶんぶんと頭を振って暁治は冷静さを取り戻す。駄目と言ったら駄目だと言い募れば、肩をすくめて朱嶺はスルメに齧り付いた。

「はるぅ、これしかないの?」

「なんだよ、飯を食ってないのか?」

「小腹が空く時間だよね」

「ったく、お前は。……ああ、昨日作ったおはぎがある」

「いいものがあるじゃない!」

 ぱっと表情を明るくするその顔にため息が出るが、渋々暁治は台所へ足を向ける。雛鳥に餌付けをしているような気分ではあるけれど、作ったものを美味い美味いと食べてもらえるのは悪い気分ではない。
 ついでに冷蔵庫から取り出したものをカップに注ぎ、ラップをしてレンジで温めた。

「ほら」

「わぁい、って……これは?」

「甘酒、米麹のな」

「どうせなら酒粕のほうでいいのに」

「文句を言うなら飲むな」

「あっ、うそうそ、ありがと」

 皿に載せたおはぎとカップで温まった甘酒。それに手を伸ばした朱嶺を横目に見ながら、暁治も向かい側でこたつに足を入れる。そして銚子に残った酒をおちょこに注いだ。
 静かだけれど穏やかな空間に、また春の雷が音を響かせた。

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