19.そこにある存在

 寝息を立てる恋人をしばらく眺めてから、汚れたTシャツやタオルをひとまとめにして小津は洗濯機を回した。そういえば学生時代は親に隠れてこっそり下着を洗ったこともあった、なんてことを思い起こして少し複雑な気分になりながら。
 乾燥まで終わらせてタオルを片付けたあと、光喜が眠るベッドに潜り込んだのは二時を回った頃だった。そしてぬくもりを感じたのか、胸元に頬を寄せてくる可愛らしい彼の髪を撫でながら眠りに落ちた。

 光喜が傍にいると小津はいつも深く眠りに落ちる。けれど久しぶりに眠っているあいだに色鮮やかな夢を見た。恋人と一緒に浜辺を歩くなにげないシーン。引いては寄せる波に楽しそうに笑い声を上げる彼が、ひまわりのような笑みを浮かべて振り返る。
 それは華やかで眩しく誰をも照らすような輝きを持っていた。けれどその顔を見ると胸が急に切なくなって小津は涙をこぼした。ボロボロこぼれ落ちる涙に戸惑っていると、そんな恋人の顔を優しく目を細めて彼はそっと撫でてくれる。

 そしてずっと一緒だよ、そう言って柔らかな唇でキスをくれた。手を伸ばして抱きしめた感触がひどくリアルで、絶対に失うものかと、心に誓いながら腕の中に閉じ込めた。けれどもしかしたら自分の独占欲がいつしか彼を縛り付けるものになるかもしれない。
 しかしいつだって自由でいて欲しい、そう想う心と同じくらいに光喜を手放したくないと心が叫ぶ。彼のいない未来には光など射さないと思えた。

「あ、小津さん。おはよ」

 大丈夫だよ、そう耳元で囁いた夢の中の恋人の声に優しい声が重なる。ぼんやりする思考のまま目線を上げると、抱きしめて寝ていたはずの彼に抱きしめられていた。そして夢と変わらぬ温かい手で頬を撫でられる。

「悲しい夢でも見た?」

「え?」

「起きたら小津さんが泣いてるから、びっくりした」

 やんわりと目を細めた光喜はまたそっと小津の頬を撫でた。彼の指先で拭われたそれが自分の涙だと気づくと、腕を持ち上げ確かめるように手のひらで触れる。濡れた指先を見つめれば小さなリップ音を立てて額に口づけが落とされた。

「君が傍にいてくれるのに、いつか消えてしまうような気持ちになった」

「俺は、どこにも行かないよ」

「うん、そうだよね。ありがとう」

 抱きしめる腕に力を込めて光喜は小津を優しく包む。胸元に引き寄せられると、緩やかな胸の音が響いて少しずつ気持ちが穏やかになった。腕を伸ばして抱きしめ返せば、すり寄るように髪に頬を寄せてくれる。

「小津さん、好き、大好き」

 囁かれる声に胸がじわじわと温かくなる。それと共にまた涙がこぼれて縋りつくように彼を抱きしめた。きついくらいに抱きしめているのに、泣き濡れる恋人に光喜は優しく何度も愛を囁いてくれた。

「そういえば、さっきお父さんとお母さんが散歩から帰って来たっぽいよ。凛太郎と茶太の鳴き声が聞こえた」

「いま何時?」

「んーと、もう少しで七時になるところ」

「お腹、空いたよね」

「あー、うん。空いた」

 顔を持ち上げると光喜は照れたように笑う。意識するとなおさらなのか、彼の腹の虫が静かな中に小さく響く。それに笑うと頬をますます染めて恥ずかしさを誤魔化すようにぎゅっと胸に引き寄せられた。

「下に下りようか」

「うん」

 そっと腕が解けていく、それをじっと見つめていると、ふいに近づいてきた彼が唇にキスをくれる。そしてふわっと花が開くような笑みを浮かべた。この先もこの笑顔を守っていきたい、そんな気持ちが小津の心に湧いてくる。

「あらぁ、おはよう。早いのね」

 一階に下りてリビングを覗くと高道はソファで新聞を開き、その隣で敦子が湯呑みを傾けていた。顔を覗かせた二人に振り向いた母は目を瞬かせてのんびりとした声を上げる。

「あ、ご飯まだ準備してないの。いつも希美は休みの日に起きてくるの遅くて。待ってて、すぐ用意するから」

「うん、ありがとう」

「顔でも洗ってきて。そうそう、待ってるあいだにあの子たち構ってあげてくれる? 昨日の散歩がよっぽど楽しかったのか、散歩に行く時に光喜くんじゃない、って駄々こねられちゃった」

 ソファから立ち上がった敦子は困ったように頬に手を当てて小さく息をつく。そしてそれと同時に光喜の名前に反応でもしたのか、窓際のクッションベッドで寝ていた福丸がキャンと鳴き声を上げる。
 尻尾をぶんぶんと振った彼はちまちまと走り寄ってきて、まっすぐに光喜の元へやってきた。飛び跳ねるようにはしゃいで足元にまとわりつくと、抱っこをせがんでまた鳴き声を上げる。

「母さん、福丸も茶太みたいに抱っこ癖がつくんじゃない?」

「そうなのよねぇ、大きくなった時が大変だわ」

 また困ったようにため息をついた敦子をよそに、光喜がしゃがむと福丸は膝の上によじ登る。そして抱き上げられると振り切れんばかりに尻尾を揺らし、鼻先を寄せて彼の顔を舐め回した。

「福丸、くすぐったいよ。なんか顔を洗われてる気分」

「んー、まあ、小さいうちは仕方ないか。光喜くん、交代で顔を洗おう」

 いま下ろしてもきっと福丸は洗面所までついてくる。あまり足元でウロウロすると小さい身体を誤って蹴飛ばしてしまいかねない。それならば抱っこを交代して済ませたほうが早いだろう。
 洗った顔をまた福丸に舐め尽くされる可能性はあるが、彼を抱っこしている恋人が至極嬉しそうにしているのでまあいいか、と思えてくる。笑い声を上げる光喜に小津はやんわりと目を細めて微笑んだ。

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