小さな幸せのひととき01

 十月の初め、秋の気配がにわかに漂い始めた頃。
 夕刻になり、学生の姿がまばらになった大学のカフェで、あつは吉報を大いに祝われていた。

 夏が始まる前から就職活動に勤しんでいた敦生の元へ、つい先日、内定通知が届いたのだ。

「敦生が一番乗りだったな」

「俺たちもあとに続かなきゃだな!」

 テーブルの向かいで、自分ごとのように喜んでくれる友人二人は、大学に入ってからずっと親しくしている。
 以前は元恋人のノブこと信弘と四人、よく一緒に過ごしたものだ。

 彼が亡くなって一年半近く経ったけれど、今日まで引きこもらず敦生が大学に通えていたのは、彼らのおかげだろう。
 当初の自分は半ば鬱状態で、きっと手に余るほどだったに違いない。敦生はいま思い返してもそう感じる。

 大学を卒業後は、敦生たち三人の就職先はバラバラになるが、この先も付き合いを続けたいと思える大切な友人たちだった。

「でも二人も、もう少しで連絡が来る頃だろ?」

「俺は来週かな」

「自分も来週中だろうな。無事に全員、就職が決まったら、改めて飲みにでも行こうか」

「おお! 賛成! 駄目でも飲みに行こうぜ! 敦生もいいか?」

「もちろん。あ……俺、そろそろ」

 ジャケットのポケットで震えたスマートフォン。
 メッセージの着信を目に留めた、敦生の表情がふわっと綻んだ。

 普段はあまり感情が表情に表れないタイプである敦生。その様子を見た友人たちは、顔を見合わせてからニヤニヤとする。

「朝倉さんか?」

「うん。仕事が終わったって」

「明日は休みだからお泊まりか。付き合いが順調そうでなによりだ」

 椅子に置いた、普段より大きな鞄に視線を向けられ、敦生の白い頬が紅く染まる。
 二人は現在、敦生が朝倉と交際しているのを知っていた。

 元々、大学の出入り業者である朝倉のことは見知っており、敦生たちの距離が近づくきっかけにもなった、桜の木について教えたのも彼らだ。

 朝倉の横恋慕にも気づいていて、正式に付き合うと決まったあと「収まるところに収まったな」と笑っていた。

 ノブと付き合っていたのも知っていたので、未練を残したままでいるより、ずっといいとさえ言われた。

「俺らも進展があったら連絡するな」

「ほら、そわそわしてないで早く行きな」

「ありがとう。それじゃあ、また」

 快く送り出してくれる二人の好意に甘え、敦生は鞄を肩に掛けるといそいそと立ち上がる。
 そんな敦生を見る二つの眼差しは、微笑ましいと言わんばかりだった。

 ひらひらと振られる手に振り返し、浮き立つ気分を隠すことなく、敦生は足を踏み出す。

 秋らしいひんやりとした風が頬を撫で、それとともに敦生の赤茶色い髪がふわりと揺れる。
 早く朝倉の隣へ行きたいと敦生の心は急いた。

 大学から待ち合わせの駅までは徒歩と電車で、大体二十分。
 朝倉が勤めている、会社の最寄り駅なため、敦生が着く頃には彼はもう待っている。

 夏にお互いの気持ちを再確認してから、朝倉との関係は随分と進んだ。
 遠慮してプライベートに立ち入らずにいたけれど、最近の敦生はしょっちゅう朝倉のマンションに出入りしていた。

 初めは図々しいかと心配したが、向こうは向こうで、家に誘うと下心が見え見えな気がして誘えなかったようだ。
 外とは違い二人きりの空間。敦生に警戒されたくなかったと、朝倉は苦笑していた。

 朝倉は優しすぎるくらい優しくて、気遣いがくすぐったくて嬉しい。
 とはいえ敦生としては、もっと彼に近づきたいと思っていて、時折焦れったくなる。

 自分よりずっと大人で紳士的で、少し臆病な人。
 いつもの優しい笑顔を思い出し、敦生の口元が無意識に緩む。

(片想いしていた人の恋人が亡くなって、後釜に納まるって、客観的に見ると傷心につけ込んだみたいに感じるのはわかる)

 それでもいまだからこそ敦生は理解できた。
 ノブが亡くなって間もなく、告白してきた朝倉の気持ちを。

 友人たちは傍で黙って見守ってくれていたが、彼は見ていられなくなったのだろう。
 憔悴して、やつれていく敦生をあのままにして置けず、意識を別の場所へ移そうとしてくれた。

 たとえ自分に、悪い印象がついても構わないと思っていたはずだ。
 傍にいると朝倉という人がどんな人物か、本当によく見える。

「朝倉さん!」

 大学をあとにしてからずっと、足早だった敦生は恋人の姿を認めると、途端に走り出していた。

 夕刻で人の多い駅の構内。
 人混みをすり抜けながら、まっすぐに朝倉の元へと向かう。彼はとても長身だから、遠くでも一目で見つけられる。

 けれど改札口から目につきやすい場所に立つ、さりげない心遣いも感じた。

(今日もスーツ姿、格好いい。横顔も男前だ)

 柔らかそうな焦げ茶色の髪、優しい黒色の瞳。
 決して派手な容姿ではないが、清潔感に溢れ、見た目からも誠実そうな雰囲気が醸し出されている。

 振り向いた朝倉と目が合うと、敦生の鼓動はドキドキと高まった。

「敦生くん」

「朝倉さん、お疲れさま」

 胸に飛び込む勢いでやって来た敦生に、朝倉は驚きの表情を浮かべたあと、やんわりと目を細めて笑った。
 穏やかな性格がにじみ出る、敦生の大好きな笑みだ。

「あれ? 敦生くん、髪を切ったんだね」

「うん。就職も内定したし、いい加減、伸ばしっぱなしじゃ駄目だろうと思ってさ」

 来年、敦生が就職予定の会社はスーツ出勤の必要がない、わりとフリーな社風だが、心機一転のつもりで先日さっぱりとさせた。
 これまで肩先に触れるほど長さがあったからか、襟足の短くなった首元へ視線を感じる。

「変か?」

「あっ、いや、そうじゃなくて。ごめん、首筋が……」

 ふいに視線が外れ、敦生は不思議に思い、首を傾げた。すると朝倉は気まずそうに口元に手を当てて、もごもごとする。

「ふはっ、朝倉さん、相変わらず正直!」

 理由を知り、敦生が思わず吹き出せば、朝倉の頬はじわじわと紅く染まっていく。
 歳が九つほど離れているせいだろうか。

 朝倉は敦生に対して、やましい感情を抱くのを恥じている面がある。
 敦生からしたら、恋人なのだから――以前に男なのだから、好きな相手に邪な感情を持って当然だと感じるのだけれど。

(そういえばキスより先、いつしてくれるんだろう? 朝倉さんは同性を好きになるのは初めてだし、実際にそういう行為は考えてないのかな。俺の見た目が女っぽいから意識してるだけ?)

 敦生の容姿について、周りの人は口を揃えて美人だと言う。
 しかし幼い頃は見た目が災いし、連れ去りや危ない目に遭いそうになったため、敦生にとってあまりプラスではない。

 男性らしい体格になりたくとも筋肉がつきにくく、どちらかと言えば痩せ気味な体型。
 女性には羨ましがられるが、敦生はちっとも嬉しくない。

 両親が毎週、食料などを送ってきたり、バイトはするなと言ったり。
 異常に過保護なのは一人っ子であるのと、外で変な大人に目を付けられないか、心配だという理由もあるようだ。

 女性的な見た目に反し、敦生の言葉遣いがどんどん粗野になったのは、周りからの評価へ無意識な反抗もあるのだろう。
 ただし、いまは朝倉に良く見られたくて、かなり気をつけている。

「敦生くん、どうかした? 嫌な気持ちになったかな?」

「えっ? 全然! 勘違いさせてごめん。ぼんやりしてて」

「そう? だったらいいんだけど」

 うっかりと長く考え込んでいたらしく、いつの間にか心配そうな表情で顔を覗き込まれていた。
 不安げな朝倉の眼差しを見て、敦生はハッとする。

「もしかして朝倉さん。俺がそういう目で見られるの嫌がると思ってた?」

「……敦生くんは、自分の容姿を結構気にしているようだから」

「た、確かに、誰彼なしにやましい目を向けられたら嫌だけど。朝倉さんは俺の、恋人だろ?」

 まさか自分の感情を見透かされ、気を使われていると思っていなかった。
 言いにくそうに口を開いた朝倉の袖を、敦生はとっさに掴む。

 ぎゅっとしわになるくらい掴めば、驚きに目を丸くした朝倉の頬がまたほんのり紅くなった。

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