夏に咲いた花02

 夕刻が近づき、少し太陽の光が和らいできた頃、二人は伊那に声をかけて出かけることにした。
 まだ陽射しは強いからと、彼女は敦生に少しつばの広い麦わら帽子を被せてくれる。そして裸足の足にサンダルを履かせてくれた。

 どれも朝倉の子供の頃のものだと言うが、痛んだ様子もなく、十分に敦生の身体に馴染んだ。

「気をつけて行ってらっしゃいませ」

「夕飯までには帰るよ」

 伊那に見送られて家を出ると、土砂利の道が続く。
 常日頃、アスファルトの道しか歩いたことのない敦生には、足の裏に感じる感触は新鮮だった。

 固められた地面は熱を反射してひどく熱いが、この道は足元から熱が上ってくることがない。風が吹けばひんやりとして、それがとても心地よかった。

 朝倉の家は少し小高いところに建っていて、ゆるりとした下りの道がしばらく続いた。けれど五分も歩けば、辺りには家々が建ち並び始める。それを敦生は物珍しそうに見つめながら歩いた。

 都会の家々は、狭い土地に密集するように細長く建っているが、ここでは広い土地に平屋の家がほとんどだ。
 時折少し新しそうな二階建ての家を見かけるが、それでも狭苦しい印象はなく、大抵の家には前庭があり車が駐まっている。

「あら、朝倉の坊ちゃん。お帰りだったんですね」

「やあ、おかえりなさい。お元気そうでなによりです」

 道すがら人を見かけると、彼らは揃って朝倉を見て優しく笑みを浮かべた。そして隣にいる敦生を見て少し驚いた顔をするが、すぐに微笑ましそうに目を細める。
 その視線に少し気恥ずかしさを覚えて敦生は俯いてしまった。そんな敦生に気遣ってか、朝倉は長く足を止めることなく先を歩いてくれる。

 道沿いの小川がどんどんと太くなるにつれて、民家は遠ざかり森の小道へと続いていく。
 道なりに生えた木々に生い茂った青葉の隙間から、柔らかな木漏れ日が落ち、煌めいた光はひどく幻想的だ。

 涼やかな水の流れる音と共に心が落ち着いていく。
 人の気配がなくなると、敦生は思わずほっと安堵の息を吐いてしまった。

「ごめんね。あんまり慣れないよねこういう雰囲気。小さい町だから、みんな顔見知りって感じなんだよね。僕が誰かを連れてくるの初めてだから、ちょっと物珍しいのかもしれない」

「あのさ、朝倉さんは」

「ん?」

「いままで恋人とか、連れてこようとか、思わなかったのか?」

 小さく首を傾げていた朝倉は、敦生の言葉にほんの少し遠くを見た。けれどそれを見つめる敦生の視線に気づくと、振り向き目元を和らげて微笑む。

「うーん、あんまり思ったことがないんだよね。なんでかな。ここには踏み込んで欲しくなかったんだ」

「そうなんだ」

「けど敦生くんにはそうは思わなかった。一緒にこうしてのんびり歩いて、ゆっくり二人で過ごせたらいいな、なんて思ったんだよね」

 優しい朝倉の言葉――ほかの誰よりも特別なんだって、そう言われた気分になって、敦生の心の中に優越感が湧いてくる。
 いま自分だけを見つめてくれている。それがひどく嬉しくなった。でもふと浮かぶ感情もある。

「朝倉さんは、昔から好きな人って」

「あー、うん。どうなのかな。正直ちょっとそこはわかっていないんだけど」

 少し曖昧に笑ったその表情に、敦生の心は焦りに似た感情を覚えた。その胸のざわめきにぎゅっと手のひらを握る。
 彼はいままで男の人とは、付き合ったことがないのかもしれない。これは特別なのではなく、ただの物珍しさなのではないか。

 そんな想いが心の内に広がっていく。
 けれど不安に駆られる敦生に、朝倉は優しい笑みを向けてくれる。

「でもね。僕は君を、敦生くんを一目見た時から、忘れられなくて。心が高ぶって、どうしようもない気持ちになった。君がほかの誰かのものだって知っても、気持ちが収まらないくらい、君を好きだと思ったよ。こんな想いは初めてなんだ」

 まっすぐに見つめてくれる、朝倉の目には嘘や誤魔化しは感じられない。その瞳を見つめ返しながら、敦生は初めて朝倉に会った時のことを思い出した。
 それは大学一年の秋頃だった。担当が変わったと挨拶に訪れた朝倉は、いまと変わらない優しい笑みを浮かべていた。

 すごく親切で、困ったことがあれば丁寧に教えてくれて。でもほかの人たちと自分、どこか対応が違っていたかと考えれば、それほど大きな違いはなかったように感じた。
 そこに恋愛感情があることに敦生は気づかなかった。

 その気持ちを彼が打ち明けたのは、敦生の恋人だった信弘が亡くなってからだ。

「だけど信弘くんが敦生くんの隣にいる限りは、この気持ちは伝えるつもりはなかったよ。君たちは本当に想い合っていたし、誰かがこの二人のあいだに割り入るなんて、絶対にできないって思ってた。けど僕はね、君が思うよりずるい大人なんだ。信弘くんがいなくなって、敦生くんが一人になってしまったのに、心の中で喜んでしまった」

 それは言葉にすると、なんともひどく重たい告白だ。愛する人を失ったことを喜ぶなんてことは、本来ならあってはならない。
 しかしそのことは朝倉も十分にわかっているのだろう。その目は暗く、ひどく苦い表情をしている。

 その顔を見れば、責めるような言葉も浮かばない。朝倉は敦生に対して、一度も気持ちを押しつけて、無理を強いるようなことはしなかった。
 いつだって一歩引いて、敦生の気持ちを尊重してくれた。付け入る隙は、いくらでもあったはずなのに。

「こんな自分は、君にふさわしくないって思ったけど。それでも諦めきれなかったんだ。……ごめんね」

「どうして謝るんだ」

「僕は信弘くんのように、敦生くんの気持ちをすくい上げてあげられないと思う。お友達もよく言っていたよ。君たちは本当に二人で一つだって。言葉なんか交わさなくても、お互いがお互いのことを理解しているって。それは僕もすごく感じた。だから信弘くんには敵わないなぁって思うよ。僕はそこまで聡くはないから、きっと君にもどかしい思いをさせる」

「そんなこと」

 少し前を歩いていた朝倉の足が止まる。それと共に敦生の言葉も途切れて、思わずそれを飲み込んでしまう。
 じっと背中を見つめていると、彼はゆっくりと振り返った。

 自分を見つめる、あまりにも悲しげな色をした瞳に、敦生はとっさに手を伸ばしてしまった。大きな手を握ると、彼は弱々しく小さな笑みを浮かべる。

「いつも君が僕に向けてくれる、表情の意味に気づけない。敦生くんがなにかを望んでいるのはわかっても、僕はどうしてあげたらいいのかわからないんだ。きっと信弘くんならわかってあげられるんだろうけど」

 視線がゆるりと外されて、朝倉は目を伏せた。その仕草に敦生は焦ったように胸の鼓動を早める。
 なにか言わなければと言葉を探すけれど、喉の奥になにかが詰まったように声が出ない。

 朝倉の言った言葉の意味を、敦生はすぐに理解した。それは無意識だったけれど、確かな行動だった。長く信弘と一緒にいたせいで、これまで伝えるという行為をおろそかにしていた。

 いままで言葉にしなくても、信弘は敦生に応えてくれた。敦生もまた信弘のことはすぐに感じ取れた。
 それに慣れきって、気持ちを朝倉に伝えることをしていなかった。

「ごめん、悪いのは朝倉さんじゃなくて、俺だ」

 俯いてしまった朝倉に、すがるように敦生は彼の両手を掴んだ。ぎゅっと強くその手を握って、必死に言葉を探す。
 もっとちゃんと伝えなければいけない。朝倉の優しさに、甘え過ぎていたことに気づいて、彼を無意識に傷つけていたことにも気がつく。

「朝倉さん、俺もっとあなたに触れて欲しい。もっとキスだってしたいし、もっと傍にいたい。俺、朝倉さんが思ってるよりも、ずっとあなたのことが好きだ。確かにノブのことはまだ忘れてねぇ。だけど、それでもいまちゃんと朝倉さんが好きだって思う」

 たった三ヶ月程度で、気持ちを乗り換えてしまった自分に呆れもした。けれどいま敦生の心の中には、間違いなく朝倉がいる。
 いままでずっと、まっすぐな愛情をかけてくれた彼が、愛おしいと思う。信弘のことを過去に思えるくらいに、その想いは成長した。

 そうでなければこんなに心は焦りはしない。いま朝倉に手を離されたら、きっと埋めきれないほどの穴が空いてしまう。敦生は振り解かれないように、さらにきつく手を握りしめた。

「ごめん。俺がきちんと忘れないから、だから朝倉さんのこと不安にさせてるんだよな」

「敦生くん」

「なに?」

「忘れなくていいんだよ。僕は君に忘れろなんて言わないよ。信弘くんは敦生くんにとってかけがえのない存在だ。君の人生に必要不可欠な人だよ」

 伏せられていた視線が、ゆっくりと持ち上がる。困ったように笑いながらも、朝倉は敦生を愛おしげに見つめた。
 けれど敦生は困惑したままその目を見つめ返す。目の前の瞳はひどく悲しげに揺れて、胸が締めつけられるように苦しくなった。

 朝倉は自分のために、痛みを飲み込んでいるのだ。最初から朝倉は信弘のことを忘れなくていいと言った。本当なら、心を残したままでいて欲しいわけがない。それは敦生にだってわかる。
 もし朝倉が前の恋人のことが忘れられずにいて、いまもまだ心の中にその人がいたらひどく辛い。きっと嫉妬で胸が真っ黒になってしまう。笑って許してあげることなどできないと敦生は思った。

「じゃあ、どうしたら朝倉さんを安心させてあげられるんだ? 俺はどうしたらいい?」

「敦生くんを困らせたいわけじゃなかったんだけど。僕は余計なことを言ってしまったね」

「言ってくれよ。なんでも言って、俺もちゃんと言うから」

「ごめんね」

 どこか引きつったような寂しい笑み。それと共に朝倉の瞳から、涙がこぼれ落ちて、敦生は息を飲んだ。大人の人が泣くのを初めて見た。
 静かに静かに涙をこぼす朝倉を、気がつけば敦生は腕を伸ばして抱きしめていた。背中に回した腕に力を込めて、隙間を奪うようにきつく抱きしめる。

「敦生くん、ごめん。つまらない嫉妬をして」

「もう謝らないでくれよ。俺も朝倉さんが好きだ。もうほかの誰かじゃ代わりになんねぇくらい、好きだよ」

 ゆるりと持ち上げられた手が、敦生の身体をかき抱く。朝倉の抱擁は、息が詰まってしまいそうなほどだった。
 それでも身じろぎもせずに、敦生は彼の背中を抱きしめ続ける。

「どうしてだろう。君のこととなると自分でもどうしようもなくて、僕はひどく弱くなる」

「いいよ。朝倉さんに寄りかかってもらえたら、俺すげぇ嬉しい。それに朝倉さんはいつだって、俺のことを大事にしてくれた。そのお礼がしたい」

「お礼なんて、そんなものはなくてもいいよ。僕は敦生くんがいてくれさえすれば、それだけで嬉しいよ。僕は絶対に君の隣に立てないだろうって思っていた。それなのにいま敦生くんは傍にいてくれる。僕は、人の不幸の上に立っているのかもしれないね」

 いつもの柔らかな声音は、掠れて小さくなっていく。自分を抱きしめる手が震えていることに気がついて、敦生はとっさに身体を離し、目の前の人を見つめた。
 俯きがちな顔をのぞき込めば、視線から逃れるように顔をそらされる。けれど敦生は朝倉の肩を掴むと強く揺さぶった。

「そんなこと言うな! 朝倉さんはノブが選んでくれた人だ。あいつが俺のために引き合わせてくれた。だからノブは恨んでもいねぇし、後悔もしていない。だからそんな風に言うな!」

 いつまでも未練を引きずる敦生に、信弘はあの桜の咲く日に終わりを告げた。帰ってきた指輪、さよならの言葉。そして目の前に現れた朝倉。
 どれも偶然などではない。

 まるで非現実のような出来事だけれど、敦生にも信弘の気持ちは伝わった。だからこそ朝倉の手を取ろうと思ったのだ。

「ノブに後ろめたさを感じなくていいんだ。朝倉さん、まっすぐに俺だけ見ろよ。わかるだろう? 俺がいま好きなのは朝倉さん、あなただ。そして朝倉さんが好きなのは、そんな俺、そうだろ?」

 涙が浮かんだ瞳が、光を含んでキラキラと輝いて見える。瞬くたびに光の粒がこぼれ落ちた。
 心の優しい人の涙は宝石のようなんだなと、敦生はその煌めきに見惚れてしまった。

 引き寄せられるように両手を伸ばして、涙で濡れた頬を包む。そして精一杯背伸びをすると、敦生は朝倉の口先に口づけた。

「俺、もっと朝倉さんのことが知りたい。もっと教えてくれよ。どんな些細なことでもいい。俺もこれからちゃんと言葉にするから」

「……うん、敦生くん、ありがとう」

「あのさ、俺まだ朝倉さんと離れたくないんだ。だからさ、今日はずっと一緒にいたい。駄目、かな?」

「うん、いいよ。今夜は一緒にいよう。朝まで一緒にいてくれたら嬉しいな」

 やんわりと目を細めて、いつもと変わらない優しい笑みを浮かべた朝倉に、敦生の胸は幸せを感じて、鼓動をどんどんと早める。
 頬がじわじわと熱くなって、紅潮しているのも自分でわかるほどだ。それでも敦生はまっすぐに朝倉を見つめた。

「伊那さんもきっと喜ぶよ」

「今日帰るって言ってたのに、迷惑にならねぇかな?」

「大丈夫、あの人のことだからもしもの準備はしているはずだよ」

「そっか、それならよかった」

 あの日、本当にやましいことを考えていたのは、敦生のほうだ。一緒に出かけようと言われた時、少しでも長く一緒にいられたらいいと思っていた。
 だから言い淀んでいたことを言葉にできて、心は嬉しさで弾むようだった。

 そんな気持ちを表すように、敦生は朝倉の隣に立つと、腕を絡めて手を繋いだ。指先に力を込めてぎゅっと握れば、微笑んだ朝倉がそれに応え、優しく握り返してくれた。

「あ、笹舟」

 青空が茜色に染まり始めた夕刻。
 新緑に囲まれた森の中を、二人でのんびりと歩いている。ふと敦生が視線を小道の横を流れる川に向けると、桔梗の花を載せた小さな笹舟が三艘、浮かんでいるのが目に留まる。

 川の流れに運ばれるそれは、どんどんと川を下っていく。それに気がついた敦生は不思議そうにそれを目で追った。

「もうすぐお盆だからね。精霊迎えだ。昔は送り盆に灯籠流しもしていたけど、町も人が減ってあまりする人がいなくなったよ」

「ああ、お盆か」

「信弘くんも帰ってくるかな?」

「いや、あいつは多分もう帰ってこない気がする。きっと満足して成仏しちまったよ」

 あれから思い出が染みついたアパートを出て、敦生は新しい場所で生活を始めた。敦生の隣にはいつでも朝倉がいてくれる。
 もう思い残したことなんて、きっとないだろうと敦生は笑った。そのすっきりとした笑顔に、朝倉もつられるように笑みをこぼす。

「朝倉さん、ずっと俺の傍にいてくれてありがとう。毎日が楽しく思えるようになったのは、朝倉さんのおかげだと思う。俺さ、いますげぇ満たされた気分」

「うん、僕も敦生くんといると楽しいよ。君が傍にいてくれて本当によかったって思える」

「あ、あのさ、来年は二人で花見をしよう」

「うん、いいね。楽しみだ」

 まっすぐにお互い見つめ合って、くすぐったさに頬を染めて、ふっと緩んだ空気に肩を揺らして笑った。
 言葉にはし尽くせない想いが二人の胸に広がる。それは最初は小さな種だった想い。

 けれどゆっくりと育んだ恋の花は、確かに互いの胸に根付いた。それはこれからもっと綺麗に花咲いて、二人の心を彩るだろう。
 大きな太陽の花が咲いたら、もう二度と心を通わせた二人が、離れることはないはずだ。

 これから先の約束――春が来るたびに二人であの桜を見よう。

夏に咲いた花/end

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