これまでの誤解を解き、敦生は朝倉にもっと自分を意識してほしいと伝えた。
なにもしてくれない理由が自分自身にあったと、気づかなかった数ヶ月を悔いる気分だ。
「朝倉さんはさ、もっとこう、ぐいぐい来てくれていいんだぞ」
「そういうことは気安く言っちゃ駄目だよ」
夕食の材料が入ったビニール袋を、互いに一つずつ携えたエレベーターの中。苦笑いをした朝倉が、たしなめるような声音で苦言を呈する。
反し、敦生はムッと唇を尖らせた。
「早く、朝倉さんと、色々してぇのに」
「こら、敦生くん」
わざとらしく敦生が上目遣いで見上げたら、ため息交じりにコツンと額を優しく叩かれる。
しかし困ってはいるけれど、朝倉の表情はまんざらでもなさそうだった。
目的階に到着したエレベーターを降りると、敦生は朝倉にぴったりと寄り添い、満足げに笑う。
「お邪魔しまーす」
本日で何度目の訪問か。一週間ぶりに、朝倉の暮らす部屋へ敦生は足を踏み入れた。
彼が綺麗好きという点を除いても、相変わらず整理整頓された、清潔感がある空間だ。
シンプルに白とグレー、アクセントに黒や淡いブルーを使った部屋はとても落ち着く。
「今日は内定祝いをしようか。色々と用意したよ」
「お、酒がいっぱいある!」
二人でキッチンへ向かい、朝倉の言葉で敦生がパントリーを覗くと、ワインボトルや缶チューハイなどが随分と増えていた。
敦生がよく飲むので、ここへ来るようになってから常備されているが、いつも以上だ。
「このあいだ、メッセージをもらったあとに買い置いたんだ」
マンションの下層部分は商業施設が入っており、大型のスーパーも近くにあって、宅配もしてくれるらしく便利だ。
先ほどもマンションを出て、徒歩五分程度の場所にあるスーパーで買い物を済ませたところ。
駅近、築浅、高層マンションの2LDK。一番無難な中層階。
三十代前半のサラリーマンでは、なかなか暮らせないだろう部屋なのだが、朝倉の両親や兄姉もなにかと過保護らしい。
彼は子供の頃、体が弱く親元を離れて過ごしていた。
都会では暮らして行けないだろうとさえ言われていたので、心配はもっともだとしても、大人になって丈夫になり、現在は健康診断の結果も良好。
だというのに大きな病院が近くにある、このマンションを――朝倉の同意なく――購入したそうだ。
いまも昔の記憶が根深く残っているようだと、以前、彼は諦めの表情を浮かべていた。
医者の家系なのに、末息子を自分たちが治してあげられなかった、傍にいてあげられなかった罪悪感。
理解はできるものの、あまりにスケールの違いを感じて、敦生は乾いた笑いしか出なかった。
「敦生くん、猫の手」
「え? あっ、うん」
酒を物色したあとは二人で夕食を作る。
元々料理ができる朝倉とは違い、料理歴一ヶ月ほどの敦生はただいま修行中だ。
トマトをスライスする敦生の横で、指導役の朝倉はハラハラとした気持ちを隠せない様子だった。
本音としてはまだ、包丁を持たせたくないに違いない。
拙い包丁捌きで敦生がカプレーゼを作っている横で、朝倉はサーモンといくらのクリームパスタ、餃子皮の一口ピザなどを手際よく作っていく。
「うまそう」
「量を多めに作るから、いっぱい食べて」
「うん」
まったく役に立っていないのだが、こうして朝倉とキッチンに立つのが敦生は好きだ。
楽しそうに彼が料理をする横顔を見ながら、互いに会えなかったあいだの話をする。
些細なこの時間がなによりも幸せだと実感できる、敦生にとって大切な瞬間。
あの頃よりいまが、いまよりあの頃が――などと比べる暇もないくらいに、朝倉との時間は充実していた。
「すげー! 立派な晩餐だ! さすが朝倉さん」
出来上がった品をダイニングテーブルに並べると、綺麗な皿や器も相まって、非常に豪華に見えた。
パスタ、一口ピザ、ガーリックトースト、グリーンサラダにカプレーゼ。
これだけでは腹に溜まらないだろうと、朝倉はチキンソテーも焼いてくれた。
見た目のわりによく食べよく飲む、敦生をとてもしっかり把握している。
「敦生くんも頑張ったね」
「俺は切ってちぎって盛っただけだけど」
はしゃぐ敦生の頭を優しく撫でる、朝倉は微笑ましそうに目を細めた。
「包丁はもう少し練習が必要だね」
「俺もいつか朝倉さんみたいな包丁捌き、披露するからな」
「楽しみにしてるけど。怪我だけはしないで」
朝倉へ向け得意気に敦生が拳を握ると、彼は小さく笑いながら、そっと引き寄せた頭に口づけをくれる。
かすかに感じるぬくもりに、敦生の頬はぽっと紅くなった。
「さあ、ご飯にしようか。最初はワインでいい?」
「うん!」
向かい合わせで席に着くと、グラスに白ワインが注がれる。
瞬間、甘い香りがふわっと立ち上り、敦生の瞳はキラキラと輝いた。
「敦生くん、内定おめでとう」
「ありがとう! 取り消されないよう祈ってて」
二人で軽くグラスを掲げてから、口元へ運ぶ。
すっきりとした味わいのワインは、これから堪能する料理によく合いそうだった。
「来年には敦生くんも社会人か。なんだか早いね」
「朝倉さんがうちの担当になって、もう三年くらいか?」
食事をしながら、朝倉が感慨深げに呟いた。
彼に初めて会ったのは一年の頃。大学の出入り業者が入れ替わっても、本来は気に留めるようなことではない。
「そうだね。いまくらいの時期だったかな」
「そうだったっけ。なんか寒い日だったのは覚えてる」
敦生の記憶では、確か担当教授の部屋に行ったら、朝倉がいたのだった。
教授は機械に弱かったので、直接挨拶に来ていたとか。目が合うと優しく微笑んでくれたのを覚えている。
穏やかな空気をまとう人だな、という印象を敦生は強く持った。
「実はあの時、一目惚れだったんだよね」
「えぇ? マジで? すげぇ落ち着いてて、全然そんな風に見えなかった」
「うん。随分綺麗な子だなって、目を奪われて」
「女と間違えた?」
「一瞬だけね。すぐ男の子だって気づいたけど、しばらく頭から離れなかったな」
恥ずかしそうに語る、朝倉はそろそろ酔いが回り始めたのではないか。
彼はそれなりに飲めるけれど、酔いの回りがひどく早かった。酔って醜態をさらすことはないものの、少しばかり無防備さが出る。
仕事の場合は常に気を張っているから、酔った様子を見せないらしい。
いま隙ができているのは、敦生に気を許している証拠でもある。
「俺って朝倉さんの好みなんだ?」
「うーん、僕自身はあまり人の見た目にこだわらないんだけど。いや、いままで好みだなって思う人に出会ってなかっただけで、敦生くんが僕の好みのタイプなのかも」
(……かわっ、可愛い)
照れくささを滲ませて、ふわりと笑った朝倉の笑みは、どこか少年のようなあどけない表情だった。
いつもの大人らしい落ち着きが鳴りをひそめ、あまりに無防備だ。
普段と違う朝倉の姿に、敦生の胸がぎゅんと高鳴り、鷲掴みされた気分になる。
「朝倉さん、俺のこと好き?」
「うん、大好きだよ」
「へへへっ、俺も大好きだ」
ずっと大切だ、好きだと言ってくれていたけれど、いまのは心からの本音がポロリとこぼれた印象がある。
嬉しくなって敦生がニコニコしていると、朝倉はじっとまっすぐに見つめてきた。
「どうしたんだ?」
「敦生くんが、可愛いなって思って」
「……っ! 朝倉さんのほうが、よっぽど可愛いから!」
(ふにゃふにゃって笑うから、ほんっと可愛いけど。いつもより酔いの回り早いな。疲れてんのかな?)
「朝倉さん、いま仕事が忙しいのか?」
「んー、ちょっとだけね」
(一瞬だけ言葉を濁したような)
「なんか悩んでる?」
「……そろそろ現場を若いのに任せろと言われてね」
「それって昇進の話? いい話じゃないのか?」
「一般的には、ね。いままであまり会社にいなかったから、逃げられたんだけど」
珍しく頬杖をつき、ため息をつく朝倉の姿に、敦生はピンときた。
会社で顔を合わさないように逃げる相手と言えば、上司か女だ。これは間違いなく、結婚話を持ちかけられそうで悩んでいる。
(朝倉さんって優良物件だよな。きっと仕事の評価が高いだろうし、見た目は良いし、家族はみんな腕の良い医者で資産家)
たとえ家族について知られていなかったとしても、朝倉本人は穏やかで優しくて、旦那にしたら幸せにしてくれるのでは、と女性が夢を見てもおかしくない。
「あれ? そういや朝倉さんに元カノっているんだよな」
「え?」
「あっ!」
心の中で呟いていたはずが、思いきり声に出ていて、俯きがちだった朝倉の視線が焦った敦生を凝視した。
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