あたたかい毎日
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 おいしいコーヒーとおいしいケーキが、たっぷりと心を満たしてくれる――温かくて優しい、癒やしの場所に出会ってから、雄史の毎日に楽しみが増えた。
 これまでは家と職場の往復だけで、なんの楽しみもなかったのだが、仕事が終わると『Cafeキンクドテイル』へ足を向けるようになった。

 最近ではあそこへ早く行きたいがために、仕事をこなすスピードが格段に上がり、先輩たちに褒められるようになった。ささくれた毎日に潤いも生まれて、少しくらいキツくても頑張れている。
 仕事がうまくいって、たくさん褒められたら週に三回か四回くらい。あまりうまくいかなくても最低一回。人が聞いたら通い過ぎだと、言われそうなほど通い詰めている。

 気づけば梅雨空の季節から、秋の頃へと季節は移り変わっていた。

「はい、大丈夫です! そうだ。新商品を勧めたらすごく気に入ってくれて、次回から、はい。それじゃあ、今日は直帰しますね。お疲れさまです」

 これまで覇気のない声をしていた、雄史の声が明るく弾む。通話を終わらせたあとも、スマートフォンを操作する指先はやけにリズミカルだ。
 あんなに気の重かった営業報告も、一瞬でグループメッセージに送信する。完了を見届けると、雄史は軽い足取りで夜の穏やかな商店街を通り抜けていく。

 商店街の片隅にあるそこは、真っ白な外壁にパールグレーの扉。日が暮れて、外灯の明かりが店先に灯り、淡くオレンジ色に染まった様子は一際目を惹く。
 壁に設えた高窓と、扉の格子窓からは店内の明かりも感じられた。

 慣れた動作でドアレバーに手をかけて引き開けると、足を踏み入れた瞬間にコーヒーの香りが漂ってくる。そしてカウンターの内側に立っている人が、いつものようにやんわりと微笑んで迎えてくれた。

「雄史、お疲れ。今日は遅かったな」

「志織さんっ! お腹が空きました!」

「開口一番それかよ。まずは座れ」

 温かい笑顔を見た瞬間に、雄史の腹の虫が鳴いた。それに頬を染めながら、近頃の定位置である、カウンターの奥から二番目の椅子に腰かける。すると丁度目の前に志織が立って、おしぼりを手渡してくれた。

「なにが食いたい?」

「今日はなにがおすすめですか?」

「そうだな、煮込みハンバーグとかはどうだ?」

「ハンバーグ! いいですね。それでお願いします」

「うん」

 おいしい提案に瞳を輝かせる雄史に、志織は今日もまた優しく笑う。どんなに子供のようにはしゃいでも、彼はそれを馬鹿にすることはなかった。
 ここにいると居心地がいいのは、そんな彼の思いやり深さもあるのだろう。

 仕事がうまくいった日は褒めてくれて、失敗した日はおいしいケーキで慰めてくれる。見た目だけではなく、中身も男前な人だった。

「高塚くん、なんか君、毎日のようにここにいるよね」

「え?」

 ハンバーグを作り始めた志織の手元を眺めていると、ふいに雄史は横から声をかけられた。その声に振り向けば、白髪の知的な印象を与える年配の男性が、隣の席に座っている。
 彼は何度も顔を合わせている、店の常連の一人だ。

 それなのに声をかけられるまで、まったく気づかなかった。真横に座っていたのに。おいしいご飯と、志織のことしか見えていなかった雄史は、ひどく焦りを覚えた。
 ほかにも知り合いはいるのかと、慌てて店内に視線を走らせる。だが幸いにも、テーブル席を埋める客に見知った顔はなく、ほっと胸をなで下ろした。

「そ、そういう久野さんだって、いっつもいるじゃないですか」

「私は隠居した年寄りだからね。時間が余ってるんだよ」

「俺は、時間……余ってるわけじゃないですけど。ここに来るのはご褒美なので、来ないと元気が出ないです。だ、だって、コーヒーはすごくおいしいし! ケーキもご飯もどれを食べてもおいしいし! 来ない理由ないじゃないですか!」

「うん、まあ、おいしいよ。そんなに力説しなくても」

「……っ!」

 思わず言い訳がましく力んでしまったことを、ズバリと指摘されて、ボッと音がしそうなほど雄史の顔が赤く染まる。けれどそのわかりやすい反応に、久野は唇を歪めてにんまりと笑う。
 意地悪い表情に言葉が詰まるが、これは今日が初めてのやり取りではなく、毎回会うたび、なにかしらからかわれていた。

 簡単に手の平の上で転がされている、そんな自分に雄史はがっくりとうな垂れる。

「久野さん、あんまり雄史をいじめないでやってくださいよ」

「ああ、すまないねぇ。ほら、可愛いものには意地悪したくなるだろう」

 コンソメスープの器をカウンターに置きながら、助け船を出してくれる志織の言葉に、久野は楽しげに笑い声を上げながら背中を叩いてくる。スープカップに手を伸ばした雄史は、その勢いに中身をこぼしそうになった。

「さあ、私はそろそろ帰るよ。高塚くん、今度の土曜日、約束は忘れていないかい?」

「はい。大丈夫です」

「そう、じゃあ、よろしく頼むよ。加納くん、またね」

「ありがとうございました」

 伝票の上にお金を載せて、カウンターテーブルの上段にそれを置くと、久野はさっさと席を立って店を出て行く。
 その背中を見送ってから、ようやく雄史はスープに口を付けた。この店のコンソメスープは、野菜とチキンを煮込んで作った手作りで、優しい味がする。

「土曜って、なにかあるのか?」

「ああ、久野さんのお孫さんたちに最近、野球を教えてるんです」

「ふぅん、雄史は野球少年だったんだな」

「父親が少年野球のコーチをしていて、小さい頃からやってました」

 世間話をしている時にその話になって、ならば丁度いいと久野に頼まれたのが始まりだ。隔週か、時間があれば毎週の土曜、ここからほど近い場所にある小学校のグラウンドで教えていた。

「だから休みの日は来ないんだな」

「えっ? あ、いや、……本当は来たいんですけど。ここから近いし。でもいつも向こうでご飯をご馳走になるので」

「別に責めてるわけじゃない。一日休みを使ったら、もう一日はゆっくりしたほうが、疲れも溜まらないからな。そうか、だから最近は表情が明るいんだな。楽しいと思えることが増えたのはいいと思うぞ」

「えっと、その、最近、楽しいのは」

 ぐつぐつと煮えるハンバーグの匂いが漂ってきて、おいしい香りに腹は空かせているのに、頭の中は別のことでいっぱいになる。思わずぎゅっと、スープカップを握って雄史は『言い訳』を探していた。

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