心にある想い
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 そこにたどり着くまでの時間、雄史の胸に広がっていたのは焦りと不安――そして恐怖だ。震えて何度も足が止まりそうになって、それでも泣きそうになりながら走った。

 目的の場所へ着いて、開ききらない自動ドアの隙間に身体を滑り込ませると、飛びつく勢いで受付に声をかける。
 必死すぎるそんな様子に、その場にいる人たちは呆気にとられていたが、雄史にとってはそれどころではなかった。

「三階の三〇五号室、左手の窓際です。でもそんなに慌てなくても、大丈夫ですよ。加納さん、今日はただの検査入院ですから」

「……っ、すみません。けど、いや、すみません。ありがとうございます」

 ひどく心配そうに声をかけられて言葉が詰まった。だがここで感情を吐き出しても仕方がない。ひと息つくと、目の前の看護師たちに頭を下げて、雄史は廊下の先にあるエレベーターへ向かった。

 志織から返ってきたメッセージにあったのは、頭を打ってしまったから病院にいるという内容だった。
 昼過ぎに買い物に出て、歩道橋で子供が足を滑らせたところを助けたら、体勢が悪く階段を落ちてしまったらしい。

 ただの検査入院――そこにも確かに、そう書かれていた。

「三、〇五……、あっ、ここだ」

 時刻は二十時四十五分。見舞いの時間もあとわずかだ。病室の六つあるベッドのほとんどは仕切りのカーテンが引かれていた。ほかの患者に会釈をして通り過ぎると、雄史は一番奥のカーテンに手をかける。
 指先が震えたけれど、ぎゅっと握ってそれをそっと開いた。

 スタンドライトの光が灯ったそこで、彼は身体を起こして手帳のようなものを眺めていた。

「志織さん」

 声をかけると、俯いていた視線が持ち上がり、立ち尽くす雄史を見て驚きの表情を浮かべる。

「雄史? わざわざ来てくれたのか? あ、にゃむは?」

「……ご飯、ちゃんとあげてきましたよ。ほら」

 なによりも一番に、愛猫の心配をする志織に苦笑いを浮かべて、雄史は少しだけベッドに近づくと右手の甲を見せた。そこには真新しいひっかき傷と歯形。

「引っかかれたのか? すぐ消毒しないと、痕が残るぞ」

「大丈夫です。志織さん、これじゃあ、ろくに歩けないでしょう」

 慌てたようにベッドから降りようとする人を、雄史は両手で制した。頭を打ったとしか知らされていなかったのに、右足にはギプスがされている。落ちる時に踏ん張って捻ったに違いない。
 高いところが苦手だと言っていたのに、どれほど怖かっただろうか。それを想像すると、喉が熱くなって、雄史は唇を噛みしめたまま俯く。

「そんなに心配はいらない。入院は今日だけだし、これも一週間くらいで外れるし、大げさに見えるだけだ。大したことはない」

「……そんなの、そんなのわかんないじゃないですか! 俺のじいちゃんだって、ちょっと転んで頭を打って、大事はないですって言われてたのに、あっという間にいなくなっちゃったんですよ!」

 志織が頭を打ったと知った瞬間、雄史の脳裏に浮かんだのは祖父のことだった。散歩をしている時に転倒してしまい、頭を打ったのが原因で亡くなってしまった。
 大したことはない、大丈夫だ。そう言っていたのに、一週間もしないうちに。

「……そうか、すまない」

「俺、怖いんです。もしものことがあったら、どうしようって。じいちゃんみたいに、志織さんがいなくなったらどうしようって。杞憂だってことはわかってるけど、だけど」

「雄史」

 張り上げた雄史の声は、震えてどんどんと小さくなる。唇までも震えて、名前を呼ばれた途端に堰を切ったように涙がこぼれ出す。
 ぼろぼろと落ちるそれは、止めようとすればするほどに溢れて、しゃくり上げるように泣いた。

「怖いです。あなたがいなくなったらって思ったら、怖くて怖くて仕方がなかったです」

「大丈夫だよ」

「不安なんです」

「心配性だな」

「怖いし、不安だし心配です。あなたがいなくなるなんて、考えられない」

 こぼれる涙を袖口で拭って、まっすぐに雄史は志織を見据える。ゆっくりと近づいて彼へ手を伸ばすと、ぬくもりを確かめるようにそっと、手の平で頬を撫でた。
 伝わってくる熱はとても温かくて、また視界が歪みそうになる。それをぐっとこらえると、何度も存在を確かめるみたいに触れた。

「好きです。俺、ずっとあなたのこと、好きでした。志織さんが好きです。なくしたく、ないです」

 怖くなって飛び出した時から、徐々に姿を見せ始めた気持ち。言葉にするたびに形がはっきりとしていく。難解でも複雑でもないごくシンプルな想い。
 それはずっと雄史の心の底にあった、大切な想いだ。

 いままで男性に、恋をしたことがなかったから、気づくのが遅くなった。ずっと意味がわからなかった、胸の高鳴り。
 それは単なる動悸でも、気のせいでもなく、恋愛のトキメキというものだ。

 なくしそうになって気づく、お約束みたいな自分が癪に思える。それでも雄史は、気づけて良かったと安堵した。
 鈍い自分はあのままでいたら、せっかくのチャンスを逃していただろう。志織は相手が困っているのに、無理を強いる人ではない。

 時間が過ぎれば、きっと身を引かれていた。
 いまは目の前にいるこの人の想いに、まっすぐに応えられるのだと、そう思うだけで雄史の心は喜びに満ちる。

 それなのに指先に力を込めると、彼は困ったように笑う。

「迷惑ですか? もう、遅かったですか?」

「そうじゃない。……こんなところじゃなかったら、もっとたくさん聞かせて欲しいくらいだ」

「あっ」

 ふっと目を細めた表情に、雄史はこの場所を思い出す。しかし慌てて離れようとすれば、伸びてきた手に引き止められた。
 それに驚いて目を瞬かせると、今度は強く身体を引き寄せられて、唇に柔らかなものが触れる。

 見開いた視線の先に見える長いまつげに、胸の音が騒がしくなった。まるで生まれて初めてキスしたような感覚。
 ドキドキとして、胸の奥が苦しさとは違うもので締めつけられる。

「嫌じゃない? 俺と、付き合う? そういう意味で」

 あの時みたいに、窺うような眼差しを向けられて、何度も雄史は瞬きを繰り返してしまった。さらにいま起きたことを脳が認識すると、茹で上がったみたいに頬が熱くなる。
 それでもとっさに手を伸ばして、自分よりも大きな手を握りしめた。

「……はい。付き合ってください。あの、志織さん。志織さんは俺のこと、好きですか?」

「え?」

 問いかけに問いかけを返したら、驚きの色を浮かべた瞳が大きく瞬く。その表情は次第に照れくさそうな笑みに変わり、触れたばかりの唇は好きだ、と甘く囁いた。志織の返事に雄史の唇がふやけたように緩む。

 そっと両手で彼の頬を包むと、もう一度愛おしい人の唇に触れた。

 静まり返った中で、雄史は何度も小さな好きを繰り返す。離れるのが惜しくなるくらい、胸が募る想いでいっぱいになって、彼をきつく抱きしめた。
 初めて腕に閉じ込めた身体は、やはり自分よりも大きかったけれど、いまは愛おしさしか感じない。

 けれどふいにどこからともなく、空気を壊すような咳払いが聞こえて、二人で顔を見合わせる。
 明日の朝、彼に居心地悪い思いをさせそうだ――そう思って謝ったら、志織はなんてことないように笑い、もう一度、優しくキスをくれた。

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