国王陛下の花嫁
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 一つの目的であったタットとの予定合わせが済んだので、事務所をあとにしてリトは船着き場へ向かう。
 王都民にとってここは散歩道でもあり、気分転換に運河沿いを歩く者が多い。朝日に照らされた水面が美しく、心が洗われる気がするからだろう。

 建国当初から流れていた川を切り拓いて、運河にした国王は先見の明があったのだろうか。それともこの場所に王都を築いた初代国王が素晴らしいのか。

 大陸の南に位置するロザハールは、周囲を森林や山に囲まれているゆえに、外部との繋がりは山道や林道だ。
 いまでこそ整備されているけれど、昔は国外への移動は大変だったはずで、外交を行う運河の存在はとても大きい。

 運河は向岸との行き来に船を使うほど幅広く、海の港の如く船が行き交っている。
 ロザハールの運河工事が始まった頃に同盟を持ちかけられ、設計図を取り引きしたという近隣諸国は、大国とはいかなくとも堅実で安定した治世を行っていると聞いた。

 現在も同盟国は優先して船着き場に入ることができる。しかし当時ロザハールを小国と侮って、手を取らなかった国は発展し栄えた我が国を逆恨みして、何度も戦を仕掛けてきていた。

 近年は若い王が即位して、裏を掻くつもりが圧倒的な武力で打ち負かされたというのだから、獣人の力は偉大であり素晴らしいとしか言えない。

 賢く力が強くとも無闇に自ら剣を取らない、そんな姿勢もまたリトの好感度を上げる一端だった。いままで平和に暮らせたのは彼らのおかげなのだと実感できる。

「わぁ、本当に大きな船も入ってきているな」

 普段出入りしている商船もなかなかの規模だが、王宮に招かれる貴賓の船は大きさだけでなく、堅牢にできているように見える。
 騎士も多く乗船しているのか、下船の準備をしている船上は慌ただしい雰囲気だ。

「やあ、リトくん。今日はお休みかい?」

「おはようございます。ババルおじさんは朝の散歩ですか? エミーちゃんもおはよう」

「りっくん、おはよ」

 ぼんやりと船を眺めていたら、リトは宿屋の近くにある雑貨屋の店主に声をかけられた。
 大抵の物はモルドール商会で仕入れをするけれど、ちょっとした日用品は彼の店にお世話になる。

 こうして早朝に船着き場に来るとよく顔を合わせるので、孫娘のエミーとも同じくらいよく挨拶を交わす。
 父親が獣人で彼女も容姿に垂れ耳うさぎの特徴が出ていた。ふわふわのストロベリーブロンドと相まって非常に愛らしく、リトにとって和みと癒やしの存在だ。

「ヘリューンの船が来ているんだな」

「同盟国の中でロザハールに並ぶ大国ですよね?」

 先ほどまでリトが見ていた船に気づいたババルは、少し険しい表情を浮かべる。地理歴史に疎いリトでも名前を聞いた覚えがある国で、ロザハールの友好国だと記憶していた。
 顔をしかめる理由がわからず首を傾げれば、ババルは小さく息をついた。

「ヘリューンの第二王女さまを娶るという噂が出ているんだ」

「えっ? 陛下の番さまだったんですか?」

「いいや、違う。これ以上、待っても見つからないだろうからと、国益のための政略婚だろうな。ヘリューンは近年ますます力を付けている。手を組めばロザハールもこの先、余計な戦争は起きないだろう」

「でも、それじゃあ、陛下も王女さまも幸せになれないんじゃ」

(結婚をしても愛される可能性がなくて、愛せない相手と一生を送るのって)

 国の政略結婚は総じて、愛や恋だのは二の次三の次と言われるものの、長く過ごすうちに情が湧くのが人というものだ。しかし獣人の王族は番しか愛せないと聞いた。
 伴侶とは思えなくとも、家族として情を育むということなのか。

 王族は富と権力を与えられる分だけ背負う責任が大きいが、話を聞く限りロザハールの王族は、富や権力よりも伴侶が一番大切なのではと思う。
 だというのに唯一無二の存在を諦める、というのはどれほど悲しい現実か。想像するだけで胸が切なくなる。

「第二王女さまはお体が弱いから元より子は望めないらしい。それに幼い頃から陛下がお好きなようだ。すでに次期後継はほかの王族の子からと声も上がっているしな」

「ヘリューンや王女さま、ロザハールには都合が良い状況なんですね」

「そうだなぁ。だが陛下のお気持ちを思うと国民としては複雑だ」

 この国に住む者ならば獣人の番に対する強い想いを知っている。ババルも婿が獣人だからこそ身近で目の当たりにしており、他人事には思えないに違いない。
 人族よりずっと愛情深くて家族を大事にする獣人たち。自分たちの君主であれば、憂いが深まって当然だ。

 実際に国王陛下を見ていないリトでさえもどかしい感情が湧く。
 船から下りてくるヘリューンの者たちを、遠巻きに見ているのはリトたちだけではなく、ババルの言っていた噂が密かに広まっている証拠でもあった。

「あれ? エミーちゃん?」

 二人で長らく立ち話していたら、いつの間にか近くをウロウロしていたエミーの姿が見えなくなった。慌てて周囲を見回すと桟橋でしゃがみ込み、水面を覗き込んでいる。

 船が接する場所なので水底が深く、まだ十にもならないエミーがうっかり落ちては大惨事だ。驚かせないようゆっくり近づくが、リトがたどり着く前に彼女は水面に手を伸ばした。

 キラリと一瞬、なにかが光に反射したので、俯いているうちに大事なものを落としたのだろう。つられるように傾く小さい体を見て、リトは冷や汗が噴き出す思いがした。

「エミーちゃん!」

 とっさに駆け出したリトは後先も考えずに手を伸ばしてしまい、エミーが落下する寸前で抱き寄せると、驚いた彼女は反射的に手を振り上げた。
 指先がリトの目元をかすめ、目を見開いてエミーが振り返ったときには、胸元で手足をばたつかせた彼女と共に水面に落ちる。

(駄目だ! このままだとエミーちゃんを溺れさせちゃう)

 常日頃から体を動かし、森を駆け回っていたリトなので運動神経は抜群にいい。ただ一点、水だけは駄目だった。
 顔を洗う程度なら我慢はできても、冷たい水に浸ると体が強ばって動かなくなる。

 乱雑ではあるが考えている暇はないため、リトはエミーを桟橋に向けて放り出した。水面から桟橋まで若干高さはあったけれど再び落ちた様子はない。
 ほっとしたリトは徐々に体が沈んでいくのを感じながら、ぼんやりと水面から差し込む光を見つめた。

 キラキラと乱反射する光がわずかに黄金色に見えて、ふいにロヴェの顔が浮かんだ。
 思わず彼の名前を呟きそうになり、水を飲み込みかければ、さすがに穏やかに沈んでいくのは不可能だ。

(ロヴェに再会できずに死ぬの、やだな)

 空気が口から漏れて気泡が水面に上っていく。息苦しいのに恐怖が湧かないのはどうしてなのか。
 まるでそこに蓋をしてしまったように、水に落ちるといつも思考が停止する。だがリトの意識が飛びそうになった瞬間、腰に腕が回りぐんと引き上げられるような感覚がした。

(なんだろう。魚の尾ひれみたいにゆらゆらしてる)

 ぼやけた視界に映る水の中で揺れる尾のように長い髪と、ひらひらと揺れる長衣の裾が、優雅な魚のように見えた。

「リトくん!」

 いつの間にか気を失っていたリトは、ババルの声で目覚めた。桟橋に横たわる自分を覗き込む、複数の人影に気づき、ゆっくりと瞬きを繰り返してから視線を巡らす。
 ババルや医師のほかに、船着き場の職員や駐在所の兵士の姿も複数あり、なぜかその後ろには白の騎士団やヘリューンの騎士の姿も見受けられた。

「……っ、あの、エミーちゃんは」

「あの子はいま診療所で検査を受けているが怪我はない、大丈夫だ。それよりもリトくん、ありがとう。そしてすまない」

 咳き込みながらリトが体を起こせば、ババルは涙ぐみながら背を撫でてくれる。手のひらから心配と後悔の気持ちが伝わってきて、リトは努めて笑みを返した。

「平気です。僕も焦ってしまって、エミーちゃんを驚かせてしまったから。……あの、僕を助けてくれたのは」

「騎士団の方だ。ヘリューンの方々を迎えにいらしていたようで」

 リトの問いかけにババルが後ろへ視線を向けたので、つられるようにそちらを見れば、白の騎士団の制服を着た一人が、濡れた髪を拭っているところだった。
 長身でありふれた茶色い髪色。長い尾に見えた髪の毛は解かれ、緩やかな癖がついている。

 狼の獣人なのか立派な耳が印象的で、大きな体躯はロヴェを思い起こさせた。
 向こうは大事な仕事の途中とはいえ、せめて一言お礼を伝えようと、リトは彼の元へ向かうことにした。

「あの、助けてくださってありがとうございます」

 リトが近づくと、なぜだか緊張した雰囲気を醸し出す騎士団の面々を訝しく思いながら、恐る恐る声をかければ驚いた様子で狼の彼は振り向く。
 茶色い瞳とまっすぐに目が合い、無意識にリトが瞬いた瞬間、彼の姿がわずかにぼやけた。

「ロヴェ?」

 まったく似ても似つかない姿だというのにどうしてか、目の前の彼がロヴェに見えてしまった。
 ぽつりと名前を呟けば、彼は近くにいた人が持っていた布を引っ掴んで、乱雑な足取りで近づいてくる。

 勢いにも驚くが、囁き程度の声だというのに、数人はあいだに挟むくらいの距離で聞こえたのにも驚いた。さすがは獣人だ。

「あ、あの、すみません。 貴方が知り合いに似ていたように思えて」

 視線を外さないまま目前まで近づいた彼を見上げて、リトは困惑しつつも辛うじて笑みを返す。
 背が高いので圧迫感と威圧感を覚えてしまい、やたらと心臓の鼓動が早くなるが、なぜ彼がロヴェに見えたのだろうと、不可思議な現象に疑問を持つのが先だった。

 顔立ちは極平凡な印象で、ロヴェのような美しさは感じられない。
 背格好は似ているようには見えるけれど、それだけとも言える。だというのに一瞬、その場に立つのがロヴェに見えたのだ。

「君は不思議な目を持っているな。今日はいつもよりしっかりと施したのに」

「え? 目、ですか?」

 ふいに顔を間近に寄せられてリトは驚きで肩を跳ね上げる。思わず体が仰け反りそうになるものの、覗き込まれては逃げ場がない。
 仕方なしにわずかそらした視線を、おずおずと向ければバチリと再び目が合う。

「あれ? 瞳が金……」

「リト、いま気づいたことは内緒だ」

「……っ!」

 予想外に名を呼ばれ、リトが声を上げそうになった途端、ふわりと大きな布地を頭に被せられる。肌触りのいい柔らかな感触に瞬きを繰り返していると、ロヴェとおぼしき人は穏やかに目を細めた。

(どういう状況? ロヴェは姿を変えるスキルを持っているの? このあいだは白の騎士団に追われていたけど、そんな中にいて大丈夫なのかな?)

 思いきり表情に心配する気持ちが表れたのか、布で体を包まれ頭を力強く撫で回される。
 状況が把握できずされるがままになっていたものの、念入りにリトを撫でるロヴェの行動が、濡れた自分を心配しているからだと気づく。

 桟橋に引き上げられたあとに、誰かが水気を飛ばしてくれたのだろうけれど、自覚すると濡れた衣服や肌が冷え切っていた。

「ありがとう」

 こちらに向かってくる際に、なぜ新しい布地を手に取ったのか謎だったが、理由がわかり胸が温かくなる。
 しかも運河に落ちた自分を助けてくれたのが、ロヴェなのだと思うと、じわじわと頬まで熱くなってリトは慌てて俯いた。

「いまの時期はまだ寒い。リト、早く家に帰るといい」

「う、うん。ロヴェも早めに着替えてね」

 頬が赤くなったのに気づいたのか、ロヴェに武骨な手で心配そうに撫でられ、火照った顔が火にかけた鍋みたいな熱を帯びる。

「発熱でもしたか? もしものときはまたきちんと医師に診せるんだぞ」

「……あ、すごい、あったかい」

 自分の内から出る熱気ではなく、ロヴェの触れている部分から広がる温かさ。体が程よい温風に包まれたかと思うと、濡れていた服や髪がさらりと乾いた状態に変わった。

(姿を変える特殊スキルだけじゃなくて風のスキルまで持ってるの? 生まれ持った固有スキルのほかに、スキルを取得するのは大変って聞いたんだけどな)

 目の前にいるロヴェという青年が何者なのか、疑問が次々と湧いてくる。
 何事もないようなそぶりで、国の精鋭部隊である白の騎士団に紛れているだけでも驚きだというのに。

(悪いことをしているとかじゃないといいな。全然そんな感じはないけど、人って側面だけではないっていうし)

「ダイト、彼を自宅まで送ってくれないだろうか」

「……わかった。責任を持って送り届けよう」

 そわそわした気持ちでいるリトとは裏腹に、ロヴェは後ろを振り返るとダイトという青年に声をかけた。
 近づいてきた人はロヴェに負けず劣らず美丈夫で、小麦色の肌が魅力的な猫系の獣人だ。黒髪と馴染む丸みがある耳は黒豹のように思える。

(騎士団の人と親しいの? ロヴェは謎が深すぎる。……あ、ダイトさんは獣人の番がいるんだな)

 髪の両サイドに地毛色と違う色が現れているのは、心を交わした番がいる証拠だ。はっきりとピンク色が現れているので、ダイトはすでに結婚していると推測できる。

 獣人同士で番になり、心の結びつきが深くなると色が現れ始めるらしく、話を聞いたリトは獣人の神秘だといたく感動したものだ。
 人族など人型の種族が相手だと色が出ないので、相手の色に染める獣人が多数で、彼らの愛情深さにさらに感激した。

「私はダイト・ガゼイン・ハウゼンと申します。ご自宅までの同行をお許しください」

「は、はいっ! よろしくお願いします!」

 至極丁寧に礼を執られ、リトは緊張のあまり声が上擦る。
 さすが王族の傍で使える騎士だけあって気品があると感じた。ロヴェと初めて会った時に話しかけてきた騎士も、物腰が柔らかだったと思い出す。

 ふと視線を巡らせたが今日、その人はいないようだ。

「参りましょうか」

「あっ、はい」

 もう少しロヴェと話をしたかったけれど、ちらりと視線を向けると小さく頷いたので、リトは会釈を返してダイトのあとに続いた。

リアクション各5回・メッセージ:Clap