二人で迎えた朝

 温かくて優しい匂いがする夢を見た。
 広い草原に立つリトは目の前を転げ回る小さな影を見ており、隣には自分の肩を抱き寄せる大きく頼もしい、そしてなにより美しい人がいる。

『――さま!』

 清々しい風が吹く中でパッと振り向いた影に、リトは呼ばれたような気がした。

「待って」

「なにを待てば良いのだ?」

「ん? ……ロヴェ?」

 夢うつつだったらしく、口からついて出た寝言に返事をされて、リトは重たいまぶたを開いた。そして自分と共に横たわる人が己の顔を見ていることに気づく。
 室内にわずかに漏れ差し込む朝日で、オレンジブラウンの髪がキラキラとして見える。相変わらず美しい人だと見惚れたくなるのは仕方がない。

 ぼんやりとするリトの様子に、柔らかく目を細めたロヴェは、腕に抱いていたリトの体を優しく引き寄せる。
 体がぴったりとくっついた状態で、どんどんと頭が覚醒してくれば、比例してリトの顔は赤く染まっていく。

 昨晩一緒にベッドに入ったときのままで、ロヴェに抱きしめられながら眠った事実を改めて認識した。
 さらにはその前にした深い口づけを思い出し、リトは思わず口元を指で撫でた自分の行動に沸騰しそうになる。

「真っ赤に熟れたおいしそうな果実だ」

「ちがっ、僕は果実じゃありません! ちょ、ロヴェ!」

 チュッと音を立て額に触れたロヴェの唇が徐々に滑り落ち、まぶたや目尻、頬まで下りたかと思えばしまいに齧り付かれた。
 甘噛みなので痛みはまったくないものの、時折舌先で撫でられるので羞恥を煽られる。

「ロヴェ、寝ぼけてるんですか?」

「寝ぼけてなどいない。ただ目の前においしそうな子猫が横たわっていたから、少し味見をしただけだ」

「僕を捕食しないでください!」

「昨日は口づけをねだって、俺を捕食しようとしたのは君なのに?」

「わぁぁ、やめてください! 僕、快楽に弱いだらしないやつみたいじゃないですか!」

 確かにロヴェの言うとおりだった。
 おやすみの口づけ、などと可愛いおねだりはどこへ消えたのか。二度目のロヴェの口づけがあまりに気持ち良く、深い口づけを求めたのはリトだった。

 遠慮するロヴェを目いっぱい抱きしめ、離さなかったのだから、言い訳はできない。

「とても可愛らしかったから許す。できたらもう一度ねだってくれ」

「……えっと、おはようの口づけをしませんか?」

「喜んで」

(あ、やっぱり気持ちいい)

 やんわりと触れ、口先をついばみ、リトがうっすらと唇を開くと肉厚な舌がそっと滑り込んでくる。
 まさぐるように口の中を撫でられるとぞくりとする感覚に身体が震え、リトは手を伸ばしてロヴェの背中を抱いた。

「たまらない表情だな。もっとリトの欲情した顔を見ていたいところだが、隣で俺たちが起きるのを待っている彼らが待ちくたびれる」

「……っ!」

 散々蕩けさせられたあとに思いきり現実に返されて、リトは一気に目が覚めた。
 勢いよく体を起こせば、後ろで忍び笑いを漏らすロヴェがゆるりと起き上がり、サイドテーブルの呼び鈴を鳴らす。

「陛下、番さま、おはようございます。お支度の手伝いをさせていただきます」

「リトを頼む。俺は湯浴みをしてから向かう」

「かしこまりました」

 すぐにノック音が響き、部屋に入ってきたのは獅子宮殿の侍女長だった。
 長く勤めているので歳を重ねているらしいが、いつも髪をきっちりと結い、背筋がぴんとしており若々しい。毎日、年若い侍女たちなど足元に及ばないほどテキパキと働いている。

 いまも侍女たちにすぐさま指示を出して、あっという間にリトの身支度が調えられていた。

「あの、侍女長さん。ミリィさんやダイトさんは」

「すでに食堂のほうで控えております」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「番さま、これまでは指摘いたしませんでしたが、今後私どもに敬称を付けてお呼びになりませんように」

「……わかりました。リーフィス侍女長、これからも助言をお願いします」

 昨夜ロヴェに告げた言葉はすでに主要な従者たちに伝達されているとわかり、リトは深く頷き返した。
 ためらう様子もなく言葉を返すリトを見た侍女長は、満足げに頷いて食堂へと案内してくれる。一見厳しい印象を受ける彼女ではあるが、努力を怠らない者には寛大なのだ。

「ミリィ、ダイト、おはよう。昨日は言付けもないまま戻らず、すみません」

「問題ありません。陛下のお傍が一番安全ですので」

「おはようございます、リトさま。また引っ越しのご相談をしなくてはいけませんね」

 食堂前の廊下に立っていた二人にリトが声をかければ、わずかな間があったけれど、すぐさま礼を執り普段通りの対応をしてくれた。
 いまはまだ形だけだとしても、こうして少しずつ、この場所での自分の意識を変えていかなければならない。

(できるかできないかじゃない。ロヴェの隣にいるためには、やらなくちゃいけないんだ)

「食堂、広いですね。いつもここでロヴェは食事を?」

 侍女長に案内された食堂は、十数人ほどは席につける長テーブルが配されていた。
 親族が揃えばこの数でも埋まるのかもしれないが、即位後の獅子の宮殿にはロヴェしかいなかったと聞く。こんな場所で一人きりは食べ物の味を感じなくなりそうに思えた。

「いえ、即位されてからは朝も夜も執務室で済ませておりましたので」

「うーん、正直、どっちもどっちな気がしますね」

「できましたらこれからは番さまがご一緒くだされば、陛下もお喜びになるかと」

「そうですね。相談してみます」

 ダイトが引いてくれた椅子に腰掛けた頃、丁度ロヴェもやって来て斜め横の椅子に腰を下ろした。
 毎晩リトの部屋で一緒に食事をする際は向かい合わせなので、些か不思議な心地になる。

「待たせてしまったな」

「いい頃合いでした」

「なんだかこの配置は少々落ち着かないな。次に食事をするときまでに部屋に新しいテーブルを用意しよう」

「はい!」

 立派な食堂もそれらしくて良いけれど、やはり二人で向かい合って食事できたほうがいい。同じようにロヴェも感じてくれたのだとわかり、気づけばリトは満面の笑みを浮かべていた。

 そんな番の正直な笑みをロヴェは至極愛おしげに見つめ、部屋の隅に控える従者たちも皆、心を穏やかに二人の様子を見守った。


 食事が済めばロヴェはすぐさま執務室へ向かう。
 昨日の話が途中だったため、一応リトもついて行った。しかし通りすがる者たちのほとんどが、ニコニコと微笑ましそうな笑みを浮かべていて、ひどく恥ずかしくなる。

 リトが番になるとまだ知らないだろう者たちまで――ということは、これまで誰よりも早く執務をしていた陛下がゆっくりな出仕。
 なおかつ朝からリトを伴っているので、様々な憶測が為されているに違いない。

「おや、今朝はごゆっくりでしたね」

 執務室に入るとすでにベルイは自席で仕事をしており、揃って現れた主たちに対し事もなげに言葉をかける。
 なにがとは言わなくとも、それだけで聞く人が聞けば想像されてしまうものだ。

「下世話な言い方はよせ。昨日は俺が頼んで添い寝してもらっただけだ」

「そうでしたか。まあ、でも獅子の腹に収まるのも時間の問題でしょうね」

(それは食われるって意味だよね。直接的な意味じゃなくて)

 眼鏡を片手で押さえながら、顔色一つ変えないベルイとは対照的に、ロヴェの隣でリトは熱くなる頬を隠すように俯いた。

「今朝、婚約について教会に報告へ行かせましたが、大司教さまは婚約式には自分が立ち会いたいと言っているようですよ」

「婚約式か。準備に時間がかかるようなら、簡易的に済ませたいのだが。早くリトの立場を確かにしてしまいたい」

 応接用のソファに腰掛けたロヴェは、リトを隣に座らせ腰に腕を回す。
 伴侶になると言ってから、より一層距離が近くなって、これまでは彼なりに遠慮していたのだなと気づいた。

「そうですね。陛下は婚約式の一年後には挙式を上げるおつもりでしょうし、盛大である必要はありません。ただどちらにせよ昨日の件を片付けないと、民も複雑でしょう」

「リトの噂か。……大人しくしているなら黙っていようと思っていたが、今後リトの障害になるなら狩るしかないな」

「妥当な判断ですね」

 ひどく物騒な話をしているものの、番に危害を加えられた獣人とはおそらくすべてにおいてこのようなものなのだろう。
 目をつぶる気でいたというロヴェの言葉は意外だったけれど、もしリトがお触れのあとすぐに彼と出会っていれば、これまでの人生とはまったく違った。

 歩んできた人生もリトの大切な時間であり、いまのリトを形成した大事な核だ。
 だからこそ否定もしないし、荒立てる気もなかったという意味かもしれない。とはいえ番を隠した行為については、腹に据えかねていたのは間違いないので、きっと遅かれ早かれだ。