相変わらず万年春のような庭園では、時折ひらひらと蝶が横切っていく。
ロヴェに聞いた話では数種の妖精もここで暮らしているらしい。
いまでは昔語りとも言える存在だが、あまり人の目に触れないだけで案外すぐ傍にいるのだとか。
初めて草原に行った時、声が聞こえた気がしたと言ったら教えてくれた。
「母さま、もう本物の獅子さまには会えないの?」
温室のソファで絵本を一緒に読んでいると、不思議そうな顔をしてレヴィーが顔を上げた。
世界には様々な動物が存在しているけれど、獅子だけはいまの世で存在が確認されていない。
だからこそロザハールでも獅子の子が生まれると神聖視し、崇めてしまうのだろう。
獣人の獅子自体が非常に珍しく、ロヴェとレヴィーのように二代続けて生まれるのは数百年ぶりらしい。
王族も多種多様な獣種が混ざっているからこそだが、獅子の血脈が途絶えるのではという懸念も強いはずだ。
毛色や瞳の色が獅子ロザハールにとても似ているらしい、ロヴェに子が生まれて、皆ほっとしたのは容易く想像がついた。
「それは母さまにもわからないな。ごめんね」
「そうなんだ。獅子さまは大きくて格好いいんだろうね」
「うん。きっと素敵だろうね」
「いま、父さまを思い浮かべた?」
「えっ?」
無意識に考えていたことを指摘されてリトは頬が熱くなる。
歳を重ね三十代になったロヴェは年々男らしさや美しさが増して、リトは日々を更新するが如く、惚れ惚れしているのだ。
とはいえ幼い息子に言われると恥ずかしさが倍増する。
思わず熱くなった頬に手をやれば、ほんのわずかレヴィーは口を尖らせた。
「仕方ないなぁ。父さまは母さまの番だもんね」
なにやら悟った様子で絵本に視線を落とす息子にリトは目を瞬かせる。
時折やけに大人びた反応をするので、非常に驚かされた。
普段はこうして幼い物言いをしているけれど、王宮などで他の者たちと話すときはきちんとかしこまった話し方をするそうだ。
ここ最近、獅子の宮殿と温室にしか行っていないため、リトは外のレヴィーをまだ見たことがない。
子供はあっという間に育っていくのだなと感心をする。
「番さま、おはようございまーす」
「ナディアル、エル、おはよう」
しばらくレヴィーと二人で過ごしていると、のんびりとした声が聞こえてきた。
かけられた声に振り向けば、相変わらずどこかゆるっとした宰相ベルイの番、ナディアルがやってくる。
騎士服を着た彼の腕には幼い女の子が抱えられていた。
誰の子だと聞かなくともよくわかるほどベルイ色で、顔立ちはナディアルにそっくりだ。
青銀髪に金色の瞳を持った狐の子は、二歳になる二人の愛娘ナナエル。
ここの夫婦もロヴェとリトに子が生まれたので、ようやくといった感じだとか。
ベルイは最側近なので主君を差し置いて、子作りなどできなかっただろう。
ナディアルが成人して即結婚をしたらしいので、十年目にして念願な上に顔立ちがナディアル似なため、ベルイの溺愛はなかなかである。
「またお願いしてもいいですか?」
「いいですよ」
ナナエルが一歳になるまでは完全休業していたナディアルも、最近は仕事に復帰していてよく預かって欲しいとやってくる。
元々仕事を長く続けていきたい気持ちがあった彼なので、ベルイも渋々だが了承したようだ。
「エル! いらっしゃい。待ってたよ」
ナディアルが娘を床へ下ろすと、彼女はソファから下りて手を広げたレヴィーに向かい歩いていく。
小さな体がレヴィーにたどり着けば、ぽふんと彼の腕の中に飛び込むみたいに収まる。
幼い子たちの微笑ましさを感じさせる光景に、リトとナディアルは自然と笑みが浮かんだ。
ここにベルイがいたら顔が引きつっていそうではあるが。
二人はとても仲が良く、レヴィーも実の妹のようにエルを可愛がっている。
一緒にいるといつもべったりで、ベルイとしては面白くないらしい。それでもお互いに番紋は現れなかったため、目をつぶっていると言ったところだろう。
「ナナエル、番さまと王子さまの言うことを聞いていい子にしてるんだぞ」
身を屈めたナディアルが頭を撫でれば、素直にエルはこくんと頷く。
この歳のわりに彼女は非常に大人しい印象だった。ただ言葉数は少ないものの、人の話はよく聞いている。
「それじゃあ、夕刻までよろしくお願いします!」
「いってらっしゃい」
三人で手を振ってナディアルを見送ると、レヴィーはエルの手を引いて花壇の周りを散歩し始めた。
尻尾を揺らし歩く、幼い獣人たちのなんとも愛らしい姿に心が和む。
裾を汚しがちなのでレヴィーはいま上掛けは着ていないけれど、小さな子がロザハールの衣装を着ているのがたまらない。
エルに至っては成長の早い幼子には少々もったいないと言えるほど、綺麗な上掛けを着ている。
この辺りは女の子だからという面もあるかもしれないが、普段は鉄仮面である親ばかな父親によるところが大きいだろう。
「あ、またレヴィーに妖精が集まってる」
二人の様子を眺めていたリトは、彼らの周りにふわふわとした光が漂っているのに気づいた。
最初はなんだかわからなく不安に思ったものの、ロヴェが妖精が発する光だと教えてくれたのだ。
通常は身を隠しているので人目に触れないようにしている彼らは、好ましい相手の傍へ行くと気づいて欲しくて無意識に光を発してしまうのだとか。
温室に来ると高い確率でレヴィーの近くに妖精たちが寄ってくる。
おそらく魔力の保有量が多いからだろうとロヴェは推測していた。
教会で洗礼を受けるのは七歳になってからと決まっているのに、早く知りたがっている大人が多いようであしらいにも困っているらしい。
自分の時に重たい期待や過剰な崇拝を受けて、窮屈な思いをしたからこそ、ロヴェは我が子にそんな思いをして欲しくないと思っている。
伸び伸びとした少年時代を過ごし、心豊かな人になって欲しいと願っていた。
「僕としては孤独な中で曲がらず腐らず、まっすぐに優しく育ったロヴェは誰よりも素晴らしいと思うけれど。やっぱり我が子には苦労はして欲しくないものだよね」
レヴィーが生まれて時折、祖父に当たる前王陛下や王兄殿下たちが訪ねて来るのだが、リトは彼らが少々苦手だった。
手放しで孫や甥を可愛がってくれるのは嬉しいと感じても、その愛情の一欠片でもロヴェへ与えられたのだろうかと考えてしまうのだ。
番が見つからず独りきりだったロヴェに一度でも寄り添っただろうか。
国益のため、番以外と婚姻させられそうなロヴェを助けてあげようと思わなかったのか。
彼らは人として性根が悪いわけでも、息子や弟を気にかけていないわけでもない。
だとしてもロヴェとのあいだには明確な距離が存在していた。
自分たちの家族だという前にロヴェは獅子ロザハールの現し身、同じ場所に存在している実感が彼らは薄いと言える。
「自身の子供でないと無条件に可愛がれるとはいえ、微妙に納得がいかないよね」
レヴィーも獅子だが、二人同時に存在することであいだを隔てる障壁が低くなったのだとしても、愛するロヴェに関してだけはリトは心が狭くなりがちだ。
「母さま! これ読んで」
「はーい、どれかな?」
いつの間にか床の敷物の上に座り込んでいた二人は、リトをじっと見つめてくる。
ゆっくりと立ち上がってそちらへ向かうと、どこからともなく現れた侍女たちがサイドテーブルに飲み物、敷物にクッションやら膝掛けやらを用意してくれた。
目線で礼を告げれば、彼女たちはささっと下がっていく。
常に控えているらしいがまったく気配を感じさせないため、最初の頃はよく驚いた。
「レヴィーはこれが好きだね」
「うん。だって父さまと母さまのお話でしょ?」
差し出された絵本はまだ新しい装丁で、近年出版されたばかりの作品だった。
中身はかなり脚色されていても、レヴィーが言うようにロヴェとリトの半生や出会いなどを題材にしている。
獣人への非道が再び起きないよう願いを込めた一冊でもあった。
これが出版以来、国内外で飛ぶように売れているらしく、モルドール商会のキリエルに聞いた時は驚いた。
友好国以外でも少部数ながら流通しており、国の上層はともかく民は獣人に対し興味や関心があるようだ。
美しい色合いの挿絵が見事でそれだけでも価値がある。
「僕は大きくなったら、父さまと母さまみたいな素敵な番になる」
キラキラとした黄金色の瞳に微笑みを返し、リトはそっと小さなおでこに口づけを落とす。
嬉しそうに笑うレヴィーは幸せのお裾分けとばかりに、エルの頬に口づけを贈り、二人でキャッキャと笑い合った。