新しい黒猫いりませんか?03
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 商店街を抜けて踏切を越えて、橋を渡ったもう少し先に小学校がある。まっすぐ向かえば子供の足で十五分。
 けれど毎朝そこまでの道のりは、冒険のようだ。少し幼さがある昭太郎くんは、目に留まったものに気をそらすことが多い。

 道で列をなしている、蟻に足を止めてみたり、電車が通り過ぎるまでじっと見つめたり、空の雲の形に足を止めてみたり。
 学校に着くまで、実質三十分くらいはかかる。しかしそれはお母さんからも聞かされていたので、時間は織り込み済みだ。

「みったん、あおさん、元気?」

「ん? ああ、紺野さんはたぶん、元気、かな?」

「先生、頑張ってるの?」

「うん、今日も頑張ってるよ」

 以前、群青先生と大人の人たちが呼ぶのを聞いて、それを真似ようとした昭太郎くんだったけれど。
 ちょっと舌っ足らずな彼は、うまく発音ができなかった。

 しかしそれに気づいた紺野さんが、群青は青色だと言って、しょんぼりとするこの子の頭を優しく撫でた。
 それから昭太郎くんは、あの人のことをあおさんと呼ぶようになった。

 人付き合いなんて、全然しなさそうなのに、素っ気ないくらいの紺野さんの周りには人が集まる。
 外を歩けば先生先生――と声をかけられるのが常だ。

 下手をすると、しばらく部屋に篭もって出てこないこともあるが、いまは夏なので、週に何度か夜に銭湯に出掛けている。
 本当は毎日行って欲しいのだけれど、面倒臭がりなのだ。家にいる日は、僕が半ば強引に身体を拭いてあげている。

 そこでもどうやら、近所付き合いをしているようだ。とは言ってもあの人は、聞いているのか聞いていないのかわからないくらいなのだが。
 それでもみんな口を揃えて、最近の彼は喜怒哀楽がはっきりしてきたと言う。

 何度それを聞いても、僕は首を傾げるしかできない。けれど表には見えない彼の優しさを、ほかの人たちもきっと感じているのだろう、と思うことにしている。
 そしてそれと共に、僕が傍にいることを喜んでいるかのような話を聞くたびに、テンションがうなぎ登りになった。

「みったん、いた!」

 ふいに手がぐっと引っ張られて足を止めると、昭太郎くんは道の向かい側を指さしている。
 ここ最近の彼のお気に入りは、美人な三毛猫さんだ。二週間前くらいから見かけるようになった。

 顔の部分が黒と茶色のはちわれで、手足もお腹も白い。背中が三色でお尻の近くに、ハートに似た形の模様がある。

 いままで見たことのない猫なので、きっとどこかの町から引っ越してきたのだろう。
 いつも僕たちの登校時間に見かけることが多い。昭太郎くんの声に立ち止まった猫は、黄色い旗がはためくポールの傍で、こちらを振り返り、彼としばし無言の会話をする。

 そこまでがいつもの光景。しばらくするとまた猫は、スタスタと歩いて行ってしまう。
 その姿が見えなくなるまでじっと見つめて、昭太郎くんはようやくまた歩みを再開させた。けれど少し歩いた先で、また足を止めてしまう。

「んー」

 川に架けられた石橋を渡った道の先に、今度は茶トラの大きな猫が、ちょっとふてぶてしい顔でこちらを見ている。
 その射るような視線に、昭太郎くんはきゅっと唇を噛む。

「ボスは意地悪さんだから、あっち行こ」

 わりと犬猫とすぐ仲良くなる彼だけれど、この猫とは相性が悪い。
 前に一度、シャーッと威嚇された挙げ句に、飛びかからんばかりに追いかけられ、泣かされてしまったことがある。

 この橋を越えた一帯が縄張りなのか、登下校で出くわす確率が高い。そのためこの猫を見ると、少しばかり遠回りをすることになるのだ。
 今日は一本道を変えて、その道路脇の住宅で柴犬と挨拶をしてから、学校にたどり着いた。

「おはようございます!」

「はい、昭太郎くんおはようございます」

 校門につくと、そこには年配の先生が立っていて、登校してくる児童たちに声がけをしている。
 今日も元気に挨拶をした昭太郎くんに目を細めて、その先生は優しく返事をしてくれた。そして僕にも、柔らかい視線を向けてくれて、それに応えるように小さく頭を下げる。

「みったん、ばいばい!」

「学校楽しんできてね」

「うん!」

 ぶんぶんと手を振った彼は、友達の背中を見つけてまっすぐに駆けていった。
 玄関口に入り、姿が見えなくなるところまで見送ると、もう一度先生に会釈をして僕は来た道を引き返す。

 ズボンのポケットに入れている、折りたたみの携帯電話を取り出して、時刻を確認すれば、大体二十分ちょっとくらい。
 今日はまだまだ許容範囲だ。帰った頃には、市場へ仕入れに出ていた吉吾さんが、帰ってきているはず。

「あれ?」

 足早に歩いていると、橋の向こうに行きに会った三毛猫さんがいる。少しウロウロとしていたが、僕が見ていることに気づくと、さっと脇道に走り込んで行ってしまった。
 昭太郎くんとは視線で会話を交わすのに、僕とは目を合わせてくれたことがほとんどない。

 なんとなく寂しい気持ちになるのだけれど、きっと幼いあの子の純粋さが動物と心を通わせるのだろう。
 僕もそんなに大人、というわけではないと思うのだが、純粋さがあるかというと悩ましい。

 いつあの人の布団に、忍び込んでやろうかと思ってしまうくらいには、邪だ。そういやキスも最近は全然してない、と思い出して、やっぱり締め切りが明けたらデートがしたいなと思った。

「隣町の海まで四十分くらい、だったっけ? んー、それが無理ならちょっと夏っぽいこと。……花火とか? うん、いいね。それならアパートの庭でもできそう。紺野さん出不精だからな」

 一人で夏の計画を立てて、ぐふふと笑いを噛みしめると、よーしと気合いを入れて僕は帰り道を駆け出した。
 計画倒れ? そんなものは気にしないのだ。だってあの人ととの思い出がいっぱい欲しいからね。

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