幸せの数よりあふれる笑顔02
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 高階祐樹――その名前を聞いて、ピンとくる人はまずいないだろう。
 顔を見知っていた商店街の人たちでも、彼の本当の名前までは知らない。それを身近な人間で知っているのは、祖母と友人の園田聡くらいだ。

 祐樹、彼は俺の恩師の息子。
 それ以上の関係はなにもない。それでも幼い頃から、俺の後ろをついて回る子だった。

 人目をはばからず、好きだなんて言い始めたのはいつだったか。中学に上がっても、高校に進学しても、わりとべったりだった。

 そんな彼が行方をくらましたと、聞いたのは昨年の大晦日の夕刻。

 慌てて飛び出したけれど、思い当たる場所を探し歩いても、一向に姿を見つけられなかった。
 持ち出したのは小遣いの千円札一枚。

 その時すでに記憶がなかったので、大して遠くへ行けないと踏んでいた。それなのに日が暮れても、彼の行方はまったくわからなかった。
 心残りが残る年の暮れだと思った。寝覚めが悪いとも言える。

 だがアパートへの道、外灯の下――小雪がちらつくそこで、うずくまる姿を見つけて、ひどく驚かされた。

 なにも覚えていないだろうと思っていた、彼が、この場所を思い出したのかと。けれど顔を上げても、なんの反応もなく、これが無意識の行動だと気がついた。
 途方に暮れた顔をして見上げてくる、それはまるで捨てられた猫のようで――

「飯が食いたきゃついてこい」

 などという言葉がついて出た。もっとほかに言いようがあるだろうと、我ながら思いもする。
 それでも祐樹は、いや――ミハネは、弾かれるように立ち上がり、あとをついてきた。

 その日からずっと、親鳥を初めて見た雛のように、俺の後ろを歩いてくる。どんなに振り払ってもめげることがない。
 少し前に遡った気分になった。

 しかし当初、俺の胸の内にあったのは、罪悪感だ。事故であったけれど、記憶を失うことになったのは、自分のせいだろうと思っていたから。

 あんな嘘は、どんな理由があっても、つくべきではなかった。

「紺野さんっ!」

 ふっと明るくなった視界に、ハッとする。顔を覗き込まれて、長い時間、意識が内側に向いていたことに気づく。

「映画、終わったよ」

「ああ」

「寝てた?」

「寝てねぇよ」

 見つめてくる視線を遮るように、片手でくせ毛の髪をかき回す。もっさりと鳥の巣みたいになった頭を、鼻で笑って立ち上がると、むぅっと口を尖らせた。
 けれどほとんど人のいなくなったスクリーンを出て、ダウンジャケットを着込んだら、突然後ろから抱きつかれる。

「なんだよ」

「紺野さんの元気、チャージしてる」

「……意味がわからん」

 ぎゅうぎゅうときつく抱きしめられて、チャージもなにもない。と、思うが、精一杯が伝わってくる。
 昔からそうだ。なにかあると、いつも隣に座って、飴だチョコだとこちらの気を引いてくる。そしてそれを一つ受け取るだけで、一喜一憂するんだ。

「紺野さん、今日はもしかして疲れてた? 仕事明けだし」

「別に。それに大抵が仕事明けだ」

「まあ、そうなんだけど」

 映画館を出てからも、ずっとこちらをちらちらと見てくる。普段の調子で足早に歩いていると、後ろから伸ばされた手に手の平を握られた。
 じわりと染み込んでくる、その熱に、なんとも言えない気持ちになった。

「いきなりクリスマスに、出掛けよう言われた時は、びっくりしちゃった」

「聡が行けって言うから」

「あっ、そっか。園田さんか。……でも! 園田さんに感謝だね! 紺野さんとクリスマスデートなんて、嬉しいな」

 言葉通り、嬉しそうにはにかんだ。その顔は、記憶にあるものと似ているようで、少し違う。
 あの頃の彼とミハネは、やはり違う人格になるのだろうか。

「わぁ、紺野さん! クリスマスツリーが綺麗だよ!」

 ――いまある時間は、もしかしたらこの先、なくなるかもしれないよ。

 また聡にの声に意識を引き戻された。
 早く元の場所へ戻さなくてはいけないことは、わかっている。

 彼の家族も、早く戻って欲しいと願っている。この場所に引き止めているから、思い出せないのかもしれない。
 もっとちゃんと考えなくてはいけない。彼の幸せ、彼を取り巻く人たちの幸せ。

 友人の言葉一つ一つに、振り回されている場合ではないはずだ。
 そう思うのに、握りしめたこの手が離れていくのを、どこかで恐れている自分がいる。

「あっ!」

 小さな声とともに、ぱっと離された手。
 どんどんと離れていく彼の手、それにとっさに腕を伸ばしていた。駆けだしていく後ろ姿が、人混みの中に消えた瞬間、胸がひどく締めつけられた。

 焦りのような感情、それが広がって、息苦しくなる。
 ――僕、いまがあればなにもいらないよ。

 その言葉に縋っていたのは、自分だったのかもしれない。まっすぐに好意を向けられているから、それだけで傍にいるのではなかった。
 執着しているのは、ほかの誰でもない俺自身だ。

 単なる庇護欲から独占欲に変わったのは、一体いつだろう。あの頃にはなかった感情だ。
 このままではいられないけれど、いまのミハネがいなくなるならば――そう思うことは、きっと許されない。

「ミハネっ」

 人混みを押し避けて、見失った背中を追いかけた。
 伸ばした手で掴んだ手は温かくて、振り向いた笑顔はひだまりのようだった。

「紺野さん! 見て見て! クリスマスバルーン、可愛いよ」

 風船を手に無邪気に振り向く、その顔に自分勝手に腹立たしくなる。

「こん、の……さん?」

「勝手に、どこかへ行くな」

「ご、ごめんね」

 気づけば引き寄せた身体を抱きしめていた。驚いた気配を感じるけれど、抱き寄せた手が震えて、身動きできなくなる。
 あの時もこうして、手を伸ばしていたら、なにかが変わっていたのだろうか。駆けだしていった背中を追いかけていたら。

 飛んでいくバルーンを見ながら、そんなことを考えた。

 ――祐樹、お姉ちゃんと紺野さんは結婚を前提に、お付き合いしているのよ

 あの時、あの嘘がなかったら、なにかが――

 彼の気持ちを、引き離すための嘘だったはずなのに、結果はなに一つ変わっていない。それどころかいまは、自分のほうが依存している。

「紺野さん、僕は……ずっと傍にいるよ」

 しがみつくそのぬくもり、その言葉に安堵してしまう、自分がどうしようもないと思った。

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