始まりの日02

 遠い地に一人で旅立って四年と半年ほど、彼は自分の手で未来を切り開いて帰ってきた。本人は周りの人に助けられたから、自分だけの力ではないと言うけれど。それでも今日という日を迎えられたのは優哉が頑張ってきたからだ。
 きっとここはたくさんの人が集まる優しい場所になるだろう。そうして十年、二十年、そんな先まで長く続いていけばいい。

「うまく行けばいいな」

「きっと大丈夫ですよ」

「え?」

 思わず呟いた言葉に優しい声が返ってきた。思いがけない返事に驚いて振り返れば、そこには声と同じ優しい笑みをした人が立っている。その人は長い黒髪を三つ編みにしてそれを胸元に垂らしたとても清楚な女性だ。こちらへ微笑みかけるその表情は温かくて、なんだかすごくほっとした気分になる。

「こんばんは、楽しんでいらっしゃいますか?」

「あ、日笠さん。こんばんは。うん、すごく楽しいよ」

 にこやかな笑みを浮かべたこの日笠あかりさんは、この店のホールでの仕事を一切任されている優哉のもう一人の仕事仲間だ。今日はたくさんの人の中でずっと忙しそうに動き回っていた。いまは一段落したのだろうか。

「アルコールは駄目でしたよね。ノンアルコールのスパークリングワインはいかがですか?」

「ありがとうございます」

「オーナーはもう少しで手が空くと思いますよ」

 微笑ましそうに目を細められて少し頬が熱くなった。この店で働くエリオも日笠さんも僕と優哉の関係を知っている。これから長い付き合いになる二人だし、信頼が置けると優哉が判断したのだろう。けれど知られているとなにげないことにも気づかれてしまい、気恥ずかしさを感じることも多くある。

「先ほどから佐樹さんのことが気になって仕方ないって感じでしたよ」

「そうなんですか?」

「ええ、とっても」

 小さく笑った日笠さんはちらりと人だかりのほうへ視線を向けた。すると周りの人たちと会話をしていると思っていた優哉がこちらを見ていて、まっすぐに目が合ってしまった。僕と視線が合うと彼は至極嬉しそうに微笑みを浮かべる。じっとこちらを見る視線に思わず心臓が大きく跳ねてしまう。

「そんなに見つめられたら恥ずかしいだろう」

「あとでたっぷりお話をしてあげてくださいね」

「そうします」

 まっすぐに合った視線はすでに離れてしまったけれど、頬が熱い。気恥ずかしさを感じながらシャンパングラスに入ったスパークリングワインを口にする。しゅわしゅわとした炭酸が効いていてさっぱりして飲みやすい。火照る頬を誤魔化すようにグラスを飲み干したら喉を通り過ぎながら炭酸が弾けた。

「あら、あのお客様」

「どうかしましたか」

「少し酔っていらっしゃるのかも」

 慌てたように日笠さんが駆け寄った先には六十代くらいの年配の男性がいた。まっすぐは歩いているけれどだいぶ顔が紅潮している。日笠さんが声をかけて壁際の椅子へと導くと、彼は大人しくそこに腰かけていた。

「大丈夫ですか?」

 僕は傍にあった水のグラスを手に取るとその男性に声をかけた。すると顔を上げたその人は実に人の好い笑みを浮かべる。

「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けします」

「お水よかったらどうぞ」

 差し出した水を男性は頭を何度も下げて受け取った。そして両手でグラスを持ちながら、大きく息をつく。感慨深い面持ちをするこの人のことがなんとなく気にかかり、僕は隣の椅子に腰かけそっと顔をのぞき込んだ。すると男性はぽつりぽつりと語り出した。

「私、この店の内装をやらせてもらったんですよ。自分で言うのもなんですが、いい仕上がりになったと思ってます」

「そうですね。僕もそう思います」

 丁寧に仕上げられていると思う。優しい色使いの壁も綺麗な板張りの床も、シーリングファンが回る高い天井も、どこを見ても手の抜きどころのない完成度だ。この男性が満足げにフロアを見つめる視線にも納得ができる。

「もっと大きな工務店はほかにたくさんあったのに、うちに仕事を回してくださった。とても感謝しています」

「あなたの仕事が信頼できると思ったからですよ」

 専門的なことは僕にはわからないけれど、優哉もこの店に自信を持っていた。この人の腕と人柄に信用を置いたのだろうと思う。「ありがたい」と何度も頭を下げるこの人にとっても、今日こうして店に人を招き入れることは優哉と同じくらいの喜びなのかもしれない。お客たちを見つめる目は眩しそうに細められていた。

「オーナーさんは若いのにとても人のできたお方だ。私らがすべからくできること、どうしてもできないこと、それをちゃんと見極めてくださった。無理な注文はせずに、できることに最善を尽くせるよう計らってくれました。おかげさまで最後まで気持ちよく仕事をさせてもらえましたよ」

「そうなんですか」

 そういえば優哉からはこういった裏話は聞いたことがなかったな。ここまで来るのにほかにも色々と心を砕いてきたのだろう。それを思うと店をオープンさせると言うことがどれほど大きなことなのかを実感させられる。

「お忙しい中でわざわざにぎり飯をこさえてくださったこともあった」

「彼のご飯は美味しいですよね」

「こうしたこじゃれた料理も美味しいですが、素朴な優しい料理もうまかったですよ」

 目尻のしわを深くして笑みを浮かべる男性は至極嬉しそうな表情を浮かべていて、それを見ている僕まで笑みが浮かんでしまった。こんな風に優哉が想われているのを見ると胸が熱くなってくる。こうしてたくさんの人たちに支えられてきたから、優哉の自信につながっているんだなと思った。

「乾杯をしませんか」

 ふと思いついたように男性は近くのテーブルにあったワイングラスをふたつ手に取った。

「はい。あ、でも僕はお酒が飲めないので」

「そうですか。じゃあこれは? アルコールの入っていないシャンパンです」

 しばらく思案してから背の高いシャンパングラスを男性は手に取る。けれどそれは先ほど日笠さんに勧められたグラスとは違う形をしていた。これはおそらく本当のシャンパンのほうだ。しかしにこにことした笑みで差し出されて、僕は少し躊躇したが受け取ることにした。乾杯して一口ならばなんとかなるだろうと思ったからだ。

「店の繁盛を願って、乾杯」

「乾杯」

 グラスとグラスが重なる音が小さく響く。そして幸せそうな笑みを浮かべた男性は手にした赤ワインをぐいぐいと飲み干した。あまりの豪快な飲みっぷりに思わずあ然としてしまう。
 もしかしなくてもこの乾杯は文字通りの乾杯を意味しているのだろうか。グラスを空にしたその人は、一口しか飲んでいない僕とグラスを不思議そうに見つめる。
 ここでやっぱり飲めませんというのも気が引ける。ちらりと腕時計に視線を向けると時刻は二十時半を回っている。このパーティーが終わるまで三十分を切っていた。そのくらいならばなんとかなるだろうと、僕はグラスのシャンパンを飲み干した。

 それから三十分のあいだにもう一杯空ける羽目になったが、もうここまで来ると僕の中では一杯も二杯も変わらない。一杯飲んだところですでに許容量オーバーだ。
 それでもなんとか酔っ払って醜態をさらすことは免れた。隣の男性に耳を傾けて話を聞いてるうちに何度かうとうとしかけたけれど、最後まで話は聞くこともできた。

「けどさすがにもう限界かも」

 パーティーも終わりを迎え、一人また一人と店をあとにする。そして最後の客を見送った頃にその場にうずくまってしまった。気が抜けると一気に酔いが回り、頭がぐらぐらとし始める。優哉の声が聞こえたけれどそれも次第に遠ざかっていった。