思い出の中の彼02
随分と懐かしい姿だ。
真っ白なブレザーにえんじ色のネクタイ。
すらりとした長身に制服がよく似合っていた、高校時代の優哉。
そういえば、あの頃はまだ名前で呼ぶなんてできなかった。
『藤堂』
一歩前を歩く彼に呼びかけたら、ゆるりと振り返る。
わずかに逆光で表情が少しわかりにくいけれど、なぜか優哉はこちらを見て苦笑していた。
『佐樹さん、寝ぼけているんですか?』
「……え?」
二つの声がダブって聞こえるような感覚。
自分を覗き込む気配に気づいて、僕は夢から覚めたのだと気づいた。
「おはようございます」
「おは、よう」
「どんな夢、見てたんですか?」
「んー、高校時代の優哉。寝言、言った?」
「急に昔の名前で呼ばれるから、ちょっとだけ驚きました」
重たいまぶたを擦りながら体を起こしてみれば、優哉はすでに着替えていた。
僕が寝間着である、トレーナーとスウェットを着ているので、寝落ちたあとに着替えさせてくれたのだろう。
昨夜は途中までしか覚えていない。
自分だけ達して寝てしまったような気がするのだが、優哉はちゃんと満足できたのか。
「優哉、昨日……」
「大丈夫ですよ。最後まで気持ち良くしてもらいました」
「ん?」
ベッドの端に腰掛けた優哉が、チュッと小さく頬へキスをしてきて、なんとなくうやむやにされた。
しかし予想はつく。
おそらく意識だけ落ちた僕が、最後まで彼の相手をしたのだと思う。
寝ぼけたままというパターンは、恥ずかしながらこれまでにも何度かあった。
「そろそろ起きないと、ゆっくりご飯、食べられないですよ」
「うん」
若干熱くなった頬や、寝癖のついた髪を優しく撫でられ、僕は視線を落としつつ頷く。
恥ずかしくていたたまれない気分を察した優哉は、ぽんぽんと僕の頭に触れてから部屋を出て行った。
「はあ、なんかやらかしてないといいな。優哉が満足してるなら、いいんだけど。でも身に覚えがないと不安だ」
ひとしきりため息を吐いてから、僕はのろのろとベッドを抜け出す。
体はわずかにだるいが、仕事をしていればそのうち気にならなくなる程度だった。
毎回、優哉の配慮に頭が下がる。
お互い休みが合わないので、二人一緒に過ごせる確実な休みは冬くらい。
「来年は温泉に行きたいな」
いまは夏が過ぎたばかりなので、気が早いと言われれば確か。
とはいえ早めに目星を付けて予約をしておくのもありだ。
「なあ、優哉。年末年始の休みの予定だけど」
身支度を調えて、キッチンにいる優哉へ声をかけたら、すぐに返事が返ってきた。
「温泉のある宿に、一泊か二泊しようって言っていたやつですか?」
「あっ、覚えてたんだな。そうそう。どこかいいところ、もうピックアップしてもいいかなと思ったんだけど」
「俺が探しておきますよ。今日は休みだから、良さげな雑誌も見繕ってきます」
「助かる」
オープンキッチンの前にあるカウンターテーブルにつくと、自分でカップにコーヒーを注ぎ、僕は日課である新聞を手に取る。
コーヒーを片手に持ち、ざっと新聞へ目を通しているあいだに、食卓が整った。
「なあ、優哉」
「どうしたんですか、急に深刻な声を出して」
隣の椅子に腰掛けた優哉が僕の声に驚いた顔をする。
「いや、そろそろ僕も、老眼かなぁと思って」
「……なるほど、新聞の文字が読みにくくなってきたんですね。でも老眼には少し早いような。次の休みにでも眼科に行ってきたほうがいいですよ」
「視力が下がった、かな」
「その可能性は高いですね」
「優哉って視力いくつ?」
今日の優哉は仕事ではないので、コンタクトレンズをしていない。
厨房に立つと眼鏡が汚れやすいため、どうしてもつけないといけないが、普段は眼鏡が楽だと言っていた。
海外で仕事をしていた際、普段使いをしていた延長で、帰国してからもコンタクトだった時期がある。
ただ僕がなにげなく眼鏡姿の優哉が好きだな、と言ったら休日はこのスタイルに変わった。
スタイリッシュなメタルフレームの眼鏡がよく似合う。
染めたことのない真っ黒な髪の毛と相まって、知的な雰囲気が良い。
高校生だった時と比べ、髪の毛は少し長めだけれど。
最初の頃――ユウ時代――の印象と重なるので、違和感は特にない。
「結局優哉なら、なんでもいいんだよな、僕は」
「それは嬉しいですが、俺の話は聞いてました?」
「んんっ、悪い」
ぼんやりと優哉に見惚れていたら、自分で質問をしたのに話を聞いていなかった。
「まったく佐樹さんは、一つのものに集中すると周りが見えなくなる」
「ご、ごめんって。つい、優哉の顔に見とれちゃって」
「俺の顔がそんなに好きですか?」
頬杖をついて、首を傾げてみせる優哉に胸がドキッとする。
わざとらしく目を細める仕草さえ、大人の色気を窺わせ、僕は自分の頬がじわじわ熱くなるのを感じた。
「す、好きだ。優哉の顔も、声も、仕草も」
「素直で可愛いですね。お利口さんな佐樹さんは、ご飯を食べましょう」
しどろもどろに応えたら、にっこりと笑った優哉にプチトマトを唇に押し当てられた。
そこで時間に気づき、僕は視線をテーブルにある時計に向ける。
「んぐっ、やば……、食べる、食べる!」
どれだけ僕はぼさっとしていたのか。
なるべく朝は余裕をもって行動をしたいのに、プチトマトをくわえて、新聞をテーブルの端へ置いた僕は朝食と向き合う。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
慌ただしい僕の様子に小さく笑った優哉は、優雅にコーヒーカップを傾ける。
彼は朝食を先に済ませている場合がほとんどだ。
僕がゆっくり新聞を読んだり、のんびり食事したりできるようにだと思う。
「コーンスープがおいしい季節になってきたな」
皿がほぼ空になりかけたところで、程よい温かさのスープが出される。
きちんとコーンを漉して作っている、彼の手作りスープは身に染みるうまさだった。
「晩ご飯のリクエストはありますか?」
「うーん、そうだなぁ。久しぶりにカレーが食べたい」
「カレーですね。だったら……シーフードでもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、出かける前に煮込んでおきます」
休みの日、優哉が家でのんびりしている姿はほぼ見た覚えがない。
相変わらず余暇を自分に使うのが下手だ。
日中を家事雑事で済ませたら、その後はきっと仕事の用事で出かけるのだろう。
優哉の交友関係をあまり知らないので、高校時代のメンバーや職場関係しかわからない。
友達が増えたりとか――忙しすぎてなさそうだな。
もっとだらだらしたらいいのに、と言ったことはあるけれど。
寝て一日が終わりそうだし、活動バランスが乱れそうで、と返された。
学生の頃、低血圧で朝が起きられなかった状況と比べたら、マシと言えるのか。
きっちり計画を立てて動くほうが、自分を保ちやすいタイプなのかもしれない。
働き過ぎではと、些か疑問を覚えるものの、健康を害さなければいい。
「佐樹さん、そろそろ」
「うん」
食器を片付けていた優哉が時計を見て促してくる。
出勤準備が完了したので、僕がリビングのソファに置いていた鞄を手に取ると、優哉もキッチンから出てきた。
「寒くないか?」
「ロビーまでだから、大丈夫ですよ」
優哉は朝、決まって下まで見送りに出てくれる。
おかげで最近はマンションの奥様方に、にこやかに挨拶されるようになった。
いまも外廊下ですれ違った、同階の奥様に「今朝も仲良しですね」なんて微笑まれたところだ。
優哉が一緒に住むようになって、しばらくは怪訝な顔をされたけれど、彼のよそ行きモードのおかげで皆、なにも言わずに見守ってくれている。
当初は恥ずかしかったが、もうすっかり慣れてしまった。
それもこれも、臆面もなく優哉が僕の手を握っているからだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
一階ロビーでエレベーターを降りて、手が離れる間際、そっと優哉の唇が頬に触れるのも、もはやお決まり。
さすがにこれは慣れないので、どうしても僕の頬は熱くなる。
いつもの如く、僕の視線がうろついたのを見た優哉が小さく笑う。
「帰るとき、メッセージを送るな」
「はい、俺はもしかしたら帰りが遅くなるかもしれないので、その際に伝えますね」
「うん。じゃあ」
姿が見えなくなるまで優哉はロビーに立っているから、今日も少しだけ早足に僕は駅へと歩くのだった。