あの日の笑顔02
のんびりと食事を済ませてから身支度を調える。今日はいつもの着古したスーツではなく礼服。前に作ったスーツもあったのだけれど、優哉に言われて今回は作り直した。以前のものも着るのに特別支障はなかったが、仕上がったものを着たらすごくすっきりとして見えて着心地が良かった。
以前に比べて体型の変化があったことを見抜かれていたようだ。それほど大きな体重の変化があったわけでもないのに、彼の観察眼には驚かされる。
「佐樹さんの髪、柔らかいから一日持たないかもしれないですね」
「うーん、まあ、披露宴が終わるまで持てばいいかな」
洗面台の鏡の中にいる自分が器用な優哉の指先で変化していく。普段髪をいじることなんてないから物珍しさがある。けれど目の前の自分よりも後ろで真面目な顔をしている彼に視線が向いてしまう。
こぼれ落ちそうになる髪の毛をきちりと整えていくその指先にドキドキする。ふいに視線が合って微笑まれると頬が熱くなった。
「うん、いいですよ。男前になりましたね」
「ありがとう、助かったよ。不器用だからこういうのほんと駄目でさ」
「そのままでも十分ですけど、たまにはね」
ワックスで汚れた手を洗いながら優哉は後ろからこめかみにキスをしてくる。なにもこの体勢のままで、と思うけれど文句は出てこない。後ろに立つ彼はいつもより三割、いや五割増しくらい格好いい。
僕のパターンオーダーのスーツと違い彼のスーツはフルオーダーだ。長い手足を包むそれはシンプルなブラックなのに華やかに見えるのはなぜだろう。髪の毛だってそんなにすごく手を加えていると言うほどでもないのに、ちょっと眩しい。
「ゆ、優哉、あんまりくっつくと、髪が」
「すみません、あまりに素敵だから」
「……そういうの、恥ずかしいからやめろ」
楽しそうに目を細められて顔がますます熱くなる。駄目だな、やっぱり。優哉が傍にいると嬉しいのにそわそわしてしまう。慣れるのかなこれ。でも慣れてドキドキしないのも嫌だな。
いや、ドキドキしないとかあり得ないな。だってこんなに格好いい――なんて考えていたら鏡越しにしっかりと目が合った。
「なにぐるぐるしてるんですか? 可愛い」
漫画とかだったらきっと僕の頭からは蒸気機関車みたいに湯気が出ている。いたたまれない気持ちになり目を伏せたら、小さく笑った優哉は背中から離れていった。振り返ると視線を合わせてにこりと微笑む。
そしてそっと手を握られて、家の中で、と思うもののやはり文句は出てこない。そしてリビングに戻り壁掛け時計を見るとだいぶいい時間になっていた。
「もうそろそろ出るか?」
「そうですね。いまから出ればちょうどいいかもしれませんね」
「じゃあ、行くか」
「そうしましょう」
リビングのテーブルに並べておいた持ち物を一つずつポケットにしまい、腕時計をはめて後ろを向くとコートを広げた優哉が待っている。手渡してくれるだけでいいのに、と思いながらも至れり尽くせりを素直に受け取って腕を通す。
肩をぽんぽんと叩かれてなんとなく背中がしゃんと伸びる。けれどスーツだけでも男前さがやばかったのに、ロングコートを身にまとった紳士然とした優哉に口元が緩んだ。思わず携帯電話を構えたら、不思議そうに首を傾げられてしまった。
「佐樹さん?」
「なんでもない」
「え? なんでもなくないですよね?」
無言のままシャッターを切ったけれど、戸惑っている優哉も存分にいい男だった。いそいそと写真を保存するとまたニヤリと口角が上がる。いまの彼はまだ写真が一枚もなかった。記念の一枚的な気分だ。
高校時代の写真は山とあるけれど、これから先の写真もたくさん増やしていきたいな。それほどあちこちと出掛けられるわけではないから、日常的にこういうタイミングを生かしていこう。
「よし! 行くか」
「まあ、なにか楽しそうなのでいいですけど」
勝手に自己完結している僕に少し困ったような顔をされる。けれどそれ以上はなにも言う気はないのか、玄関に向かう僕のあとを黙ってついてくる。外へ出ると一瞬冷たい風が吹き抜けて少しばかり身体が震えてしまった。
それでもぎゅっと手を握られるとその温かさにほっと息をつく。
「そういえば、二次会の予定はいつから決まってたんだ?」
マンションから駅まで徒歩五分とかからない。電車に乗り込むとあと三十分ほど揺られれば目的地に着く。空いた座席に腰かければカタンカタンと音を立てて進み出す。しばらくぼんやりしていたけれど、ふと隣に座る優哉へ視線を向けた。
「え? ああ、話自体を持ちかけられたのは半年くらい前ですね。店を探しているんだけどいいところはないかと聞かれて、最初は別のところを紹介するつもりでいたんですけど」
「お前が戻って来ることになって店で働くって話が上がったの、わりと最近だよな?」
「ええ、そうなんです。こっちに戻ってくるほんとに少し前ですね。じゃあ、そこでやるから店を空けろって言われて、先に紹介したところはキャンセルしました」
なんとも言えない苦笑いを浮かべる優哉に僕まで苦笑してしまう。しかし思い立ったら即行動というところがある彼女からは想像が容易い返答だ。けれどどうせなら幼馴染みの店で、と思う気持ちもわからなくはない。
「でもいい機会でした。内装の着工前に話が決まったので色々設備とか手を加えられたので」
「そっか、これからもパーティーとかで店を使ってもらえるといいよな」
「ええ、そうなんです」
半月ほど前にオープンした優哉の店は滑り出しはわりと好調のようだ。町の商店街がとても友好的で店の宣伝に一役買ってくれているらしく、人づてに訪れてくれる人が多いと聞いている。
ああいう小さなレストランは町に馴染むことがなによりも大切だと思う。それが第一歩からできているのなら、きっといい波に乗れるのではないだろうか。
「年末は忙しいからあんまり店に行けないけど。僕もまたゆっくりあそこでご飯が食べたいな」
「いつでも待ってますよ」
「うん、もう少ししたら冬休みにも入るしちょっとくらいは時間できるかな」
「先生って職業は目に見えているよりもずっと忙しいですよね」
「そうだなぁ、でもまあ、その分やり甲斐もあるし。楽しんでいるところもあるから」
とは言え年末二十九日くらいまで事務仕事も補習もあったりして冬休みになっても学校に出勤するのは当たり前なところもある。でも年末年始は一週間くらい休みがあるので、優哉と過ごす時間は増えそうだ。
お店は三十日まで営業していると言っていたが、年明けは五日くらいまで休みにするとも言っていた気がする。唯一二人でゆっくり過ごせる長期休暇だ。せっかくだから実家にでも帰ろうか。
「あ、佐樹さん。冬休みに里帰りしませんか? まだお母さんにちゃんと挨拶もしていませんでしたし、……佐樹さん?」
「……あ、いや、なんでもない。そうだな」
相変わらず彼はエスパーのようだ。どうして僕の考えていることがわかるんだろう。けれど思わず驚いて固まってしまった僕の反応に目を瞬かせる優哉は、深く考えての発言とも取れない。
これはなんとなく考えることが似てきたと言うことなのかもしれない。いまこうして傍にいる時間はこれまでのどんな時間よりも長い。一緒に暮らすってそういえばこういう感じだったな、と少しばかり懐かしくなった。
「一緒にいられるのって、いいな」
「……そうですね。とても幸せです」
ぽつりと呟いた僕の言葉にひどく優しい笑みを浮かべた恋人に、胸がきゅっと締めつけられる。けれどそれは切なさではなくて、愛おしさだろう。噛みしめるように返事をした、彼のその言葉は心に染み込んでくる。
そっと肩を寄り添わせて歩く、それだけのことさえも待ち焦がれた幸せの日々だ。些細な日常が当たり前になりすぎてしまわないように、毎日を大切に過ごしていきたい。隣にいてくれることは当然なのではないと忘れずにいたい、そうしみじみと思った。