バースデー02

 無事に出勤をして昼休みも過ぎた午後。窓からは梅雨の曇り空が広がって見えた。雨が降りそうで降らないすっきりとしない天気だが、今日の楽しみを思えば少しは気分が晴れる。しかしそれでも頭を悩ませるものはあった。

「どうしようかな」

 学校は今月末から来月頭にかけて期末テストが行われる。来月からの夏休みを前にした生徒たちの試練だろう。今回のテストは僕が試験問題を作らなくてはいけないので授業の合間に頭を悩ませる。
 どうやら僕の作る問題はもう一人の担当の先生より難易度が低いと言われているので、少し頭をひねらなくてはならない。しかしあちらは難しすぎると言われているので、比べて作ると難解な問題ばかりの試験になってしまう。
 僕はできれば試験はいい点数をとって欲しいし、楽しんでやってもらいたい。

「でも簡単すぎるのは駄目だよな」

 程よくが難しいのだ。試験範囲を確認しながらしばらく僕は唸ってしまった。

「よお、センセいるか」

 しばらく静まり返った室内で考え込んでいると、準備室の戸がノックの音もなく突然開いた。ガラガラと響き渡った音に思わず肩を跳ね上げてしまう。

「……っ! びっくりした。急に開けるなよ」

「ああ、悪い」

 前触れもなくやって来たのは同じ教員で、元教え子の峰岸だった。自分でしたことがよくわかっていないのか、僕が驚いていることに彼もまた驚いているようだ。

「どうしたんだ?」

「ああ、これあずみと三島から優哉に」

 ぴしゃりと音を立てて戸を閉めると、峰岸は小さな紙袋を差し出しながらこちらへ近づいてくる。目の前までやって来た彼からそれを受け取り、僕は首を傾げて中をのぞいた。手提げの紙袋の中にはリボンのかけられた小さな四角い包みが二つ入っている。

「今日はあいつの誕生日だろう」

「そっか、渡しておく」

 幼馴染みである二人が優哉の誕生日を覚えているのは至極当然だ。僕は誕生日のことなどすっかり頭になかったけど、きっと彼が日本にいないあいだもプレゼントを贈っていたんじゃないだろうか。

「センセはなにか用意したのか」

「したよ」

 今年からはもう忘れない。二人で一緒にいられる時間を大事にするように、ちゃんと彼が生まれた日を祝おうと思う。

「峰岸は?」

「俺? 俺は今更プレゼント送り合う仲でもないし、昨日寝る前にメールは送ったけど」

「そうか」

 確かになんとなく峰岸はプレゼントを贈るというイメージはあまりない。薄情という意味ではないが、それでも忘れずにメールを送る律儀さは彼らしいと思った。

「センセはなんかしてやるのか?」

「ああ、プレゼントも買ったし、今晩の料理も用意したし、準備は完璧だ」

 今回は我ながらぬかりないと思う。料理ももちろんだが、プレゼントは使い勝手のよさそうな財布を購入した。先日なにげない話の中で優哉が買い替えようかなと呟いていたのだ。まだ買い替えた様子もないので使ってもらえるといいのだけれど。

「プレゼントなんてセンセにリボンかけりゃそれでいいだろう」

「そんなこといまどきしないだろ」

「そうか? 結局のところは一番嬉しいもんだと思うけど」

 僕の言葉に小さく首を傾げた峰岸は肩をすくめると、勝手知ったる様子で備え置いているマグカップを手に取り珈琲を淹れ始めた。
 まあ、確かにプレゼントをもらうのも嬉しいが、それを誰がくれるかが重要ではある。リボンをかけて云々は置いておいて、好きな人からもらえるものはなんであれ嬉しいものかもしれない。

「センセ、あれから料理頑張ってんの? 上手くなったか?」

「優哉に比べたら豆粒みたいなものだけどな。まあまだ今日みたいな日じゃなければ作ることないな」

「ずいぶんと健気だな」

「喜んで欲しいし、当たり前だろう」

 普段しないようなことをして喜んでもらいたい気持ちと、褒めてもらいたい気持ちと半分ずつだ。それが健気かどうかはわからないけど、優哉が笑った顔を想像するだけで僕まで笑みが浮かんでくる。頑張り甲斐があるというものだ。

「なんかまた惚気られた」

「お前が聞いてくるからじゃないか」

「まあ、いいか。あんたたちが幸せそうだと俺も満足だ」

「変なやつだなお前は」

 いまも変わらずに僕たちのことを好きだとは言うけれど、峰岸の中にある好きはもう恋愛の好きとは全然違う。僕を見つめる目にそういった感情はもう感じないし、たまに優哉に会う時も同じだ。
 昔と比べれば峰岸は一歩引いているし、見守るように僕たちを見ている気がする。

「お前も早くいい人を見つければいいのに」

「なんかそういう気分じゃないんだよな」

「ふぅん、でもずっとそんなこと言ってる気がするぞ」

 知り合う前の峰岸は誰とでも付き合う軽い感じだったけど、いまは落ち着いてるし誰彼問わずだなんてそんなこともない。いまなら引く手あまたな気がするのに、本人にその気がないのでは仕方がない。
 けれど誰かを好きになるってすごくパワーもいるけど心が満たされることだ。そんな気持ちを知らぬまま過ごすのはもったいない気もした。

「峰岸はまだ絶対に欲しいと思える相手に出会ってないんだな」

「そうかもなぁ」

「すぐに諦められる。逃げ道のある恋愛してるといい恋に出会えないぞ」

 好きという気持ちが二つ三つとあるうちは、誰かを好きでいることに安心してしまっているのだろう。たくさんあればあるほど心の隙間が埋まる。けれどそれではいつまで経ってもそこから抜け出せない。
 峰岸は大胆で堂々として他人を圧倒するような男だけれど、きっと心は繊細なんだろうな。恋することに臆病なんだ。僕も藤堂と再会するまではそうだったかもしれない。新しく恋愛するのにためらいを感じていた。
 誰かをまた好きになることが怖かったんだ。けれどいまは愛せる人がいて幸せだなって思える。

「けどそのうち目を背けられないくらいの相手に出会うかもな」

「どうだろうな」

「きっとあるさ」

 肩をすくめて小さく笑ったけれど、峰岸は考えるような表情を浮かべて少し遠くを見つめた。正面の窓からは相変わらず灰色の雲に覆われた空が見える。けれどどんよりした雲がいつか晴れるように、彼の心の憂いも晴れるといいのになと思った。

「ごちそうさん」

 しばらく黙ってマグカップを傾けていた峰岸だったが、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響くと顔を上げてそれを机の上に置いた。

「また今度、飯食いに行くって言っといて」

「ああ、伝えておく」

「じゃあな、センセ。今日は目一杯あいつを甘やかしてやれよ」

 華やぐ笑顔を浮かべて峰岸は腕を伸ばすと僕の頭を撫でた。ふいに触れたその感触はとても優しいものだった。離れていくぬくもりを見つめたら、子供をあやすみたいにまた二度三度と頭に温かな手が触れる。

「相変わらず無防備だなセンセは」

「え?」

「あいつがヒヤヒヤするのがわかるよ」

 つんと指先で頬をつつかれて僕は思わず目を瞬かせてしまった。いまはなにか警戒する場面だっただろうかと首を傾げたら、吹き出すように笑われる。

「センセはもうちょっと周りの人間に気をつけろ」

「そうは言われても気をつけようがない」

「元より人を寄せやすいのに、色気が出てきて余計に人が近づいてくる。あいつの気苦労も察してやれよ」

「い、色気なんてないぞ」

 思いがけない単語に思わず過剰に反応してしまう。大きく首を振ったら肩をすくめて息をつかれた。しかし僕のどこに色気なんてものがあるというのだ。そんな風に見えること自体信じられない。

「無自覚さが危ないんだぜ。とりあえず気をつけてな」

 また頬をつついて峰岸は少し困ったような顔で笑う。なんで何度も頬をつつくのだろうと思ってから、気安く頬に触れられていることに気がつく。前ならぼんやりしているうちに頬に口づけられているところだ。
 ようやくうかつさに気づいた僕は気恥ずかしさで顔が熱くなった。そんな僕の表情で悟ったのだろう峰岸は、こみ上げる笑いをこらえるように喉の奥で笑った。