贈り物03
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 こうして始まった僕の一人お菓子教室は週に二度ほど開かれた。最初はかなり不安もあったけれど、始めてみれば思いのほか順調だった。レシピが簡単だったこともあり、初心者の僕でもそれなりのものが出来上がったのだ。
 作った試作は学校へ持って行って昼休みや放課後のおやつにした。ほかの人たちに味見をしてもらうことも考えたのだが、たぶん優哉はヤキモチを妬くのでやめておいた。僕が作ったものを初めて食べるのは彼であるほうがいいだろう。

「これは、ちょっといびつかな」

 そしてホワイトデー前日。明日の朝に渡せるように仕事から帰るとすぐにキッチンにこもり、僕はクッキー生地と格闘していた。プレーンのクッキーは比較的簡単で、すぐにそこそこのものができるようになった。
 なので前回から少しステップアップして、ココア生地を使った市松模様のクッキーにもチャレンジすることにしたのだ。ただ僕は本当に不器用なのでどうしても綺麗な四角にはなりそうになかった。

「まあ、いいか。見た目より味だよな」

 自分を励ますように呟くと切り分けた生地を温めたオーブンの中に入れる。そして時間を設定してスタートボタンをした。あとは十五分、焼き上がるのを待つだけだ。
 そのあいだにキッチンの片付けをしてしまおうと、僕は使ったボウルやゴムベラなどをシンクに放り込む。そして粉の散ったキッチンを綺麗に水拭きしていった。

「ああ、もうこんな時間か」

 ふと時計を見たらもう二十二時を回っている。今日は帰ってくるのが遅かったので帰宅したのは二十時だった。二時間もキッチンにこもっていたのかと少し驚いてしまう。ココア生地を使った市松模様のほうにだいぶ時間を取られたのかもしれない。

「今日はいつも通りに帰ってくるかな」

 優哉の店は二十一時に閉店だが最後の客を送り出し、片付けをして帰ってくるといつも二十三時頃だ。明日はホワイトデーだから、仕込みで遅くなるかもしれない。昼も夜も予約が入っていると言っていた。

「とりあえず待ってみるか」

 遅い日は先に寝ていてくれと言われているが、今日は帰ってくるまで待ってみよう。どんなに遅くとも終電の頃には帰ってくるだろう。

「あ、焼けた。んー、少し焦げたかな」

 キッチンが片付け終わる頃にオーブンが焼き上がりを知らせた。僕は期待を込めてオーブンの中をのぞく。しかし取り出したクッキーは少し焼き色が強かった。
 けれど冷まして食べてみれば味は悪くない。温度を調節して二度目の生地をオーブンに入れると、僕は焼き上がったクッキーの選別を始めた。

「プレーンは型抜きにしてよかったな。どれも形も味も悪くない。こっちはちょっとやっぱりいびつだな」

 先に焼き上げていたプレーンクッキーは色も形も申し分ない。サクリと歯ごたえがあり、自分で言うのもなんだが美味しくできた。
 市松模様のクッキーは分離することは免れたが、菱形だったり台形だったり少しばかり形が悪い。それに少し焼き色が強いから二度目のほうがうまくいったらそちらを選ぼう。

「帰ってくるまでに仕事でも片付けるか」

 今日はクッキーを仕上げるために仕事を切り上げてきたのだ。鞄の中に詰め込んできた書類をカウンターテーブルに広げると、僕は再びオーブンが鳴るまでそれに取りかかることにした。
 しかし慣れないことに根を詰めたせいか、気づかぬうちに僕はうたた寝をしてしまった。
 うつらうつらとする意識の中でかすかに人の気配を感じた。肩を揺すられ、髪を優しく梳かれる感触がする。温かい手が気持ちよくて深い眠りに落ちそうになるが、ふいに身体を抱きかかえられた気がして我に返り目を覚ました。

「すみません、起こしちゃいました?」

「え? ゆ、優哉、いつ帰ったんだ」

「少し前ですよ」

 目を開けるとすぐ傍に優哉の顔があり、驚いて肩を跳ね上げてしまう。ちょうど僕は横抱きにして抱え上げられたところだった。目を覚ました僕を見て少しすまなそうにした優哉だったが、問いかけに優しく笑みを返してくれる。

「今日は思ったほど遅くなかったんだな」

 壁掛けの時計を見たら二十三時半を少し回ったところだった。いつもよりほんの少し遅いくらいだ。日付が変わる前に帰って来られてよかった。明日は忙しいだろうから、早めに休ませてあげなければ。

「ええ、その代わり明日は早起きですが」

「そっか、お疲れ様」

 腕を伸ばして優哉の首元に抱きつくと、頬やこめかみに口づけられた。くすぐったさに肩をすくめたら、彼は僕の髪にそっと頬を寄せる。その仕草はなんだか甘えられている気がして嬉しくなってしまう。

「おかえり」

「ただいま」

 まっすぐと見つめ合えば、自然と唇が触れ合った。優しく何度もついばまれて、思わずぎゅっと強くしがみついてしまう。その先を請うように唇を舐められると、頬が一気に熱くなっていく。けれどそれを拒むなんてできるはずもなく、気づけば唇を開いて彼を迎え入れていた。

「……んっ、ぁ、優哉、甘い」

 口内を撫でられて舌先を絡め取られると、その気持ちよさに肌がぞくりとする。誘われるみたいに鼻先からすがるような甘えた声が漏れていくのを止められない。

「佐樹さん、可愛い」

 僕の身体をそっとソファに下ろした優哉は目を細めて至極嬉しそうに笑う。そして指先で髪を梳きながら、首筋や喉元をくすぐるように撫でた。
 その感触に小さく肩を震わせると、やんわりとまた唇をふさがれる。再び唇に触れた熱を感じて、その先を求めるように僕は腕を伸ばしてしまった。
 さらさらとした黒髪に指を通しその先に絡める。引き寄せるように指先に力を込めれば、さらに深く口内をまさぐられた。

「ふ、ぅんっ……ゆう、や、やっぱ、り、甘い」

 舌先を撫でられるとほのかな甘さを感じる。先ほども感じた柔らかなその甘さに、思わずうっとりとしかけたが、よくよく思い返せばその甘みにはとても覚えがあった。

「ちょ、っと、待った」

 慌てて腕を解いた僕は身体を引くと、驚いた表情を浮かべる優哉の両頬を掴んだ。

「もしかして、食べた?」

「あ、キッチンにあったの一枚食べました。駄目でした?」

「そうだ、出しっ放しだった」

 最後のクッキーが焼き上がるのを待っていたので、先に焼いたものはキッチンに置いたままだった。ほんの十五分を待てずに寝てしまった自分が恨めしい。両手で顔を覆ってため息をついたら、優哉が心配そうな眼差しを向けてくる。
 渡す前に食べられてしまうのは予定外だったが、彼が悪いわけではない。油断してうたた寝などしてしまう自分が悪いのだ。

「すみません」

「優哉は悪くないから、謝るな」

「大事なものだった?」

「まあ、大事だけど。お前に渡すつもりだったし、ちょっと早くなったと思えば、うん」

 もうこの際いつだっていいではないか。日付もあと十数分で変わる。バレてしまったものは仕方がないのだ。気持ちを入れ替えると僕は身体を起こして立ち上がる。

「ちょっと待ってろ」

 優哉をソファに座らせて口先に口づけると、僕は急いでキッチンへ向かった。

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