約束04

 そこに降り立ったのは随分と久しぶりだった。改札口から見える景色は以前と大きく変わっているところはなく、なんとなく時間が急に巻き戻されたような気分になる。何年も毎日ずっと通り過ぎていた場所を見渡しながら、彼の背中を追って改札を抜けた。

「ここに来るのは久しぶりか?」

「はい、向こうに行くために家を出た時以来ですね」

「そっか、じゃあ五年くらい経つな」

 こちらの様子を窺うように振り返った彼の表情はひどく優しかった。昔を思い出し嫌な思いをしていないかと気にしているようにも見える。そうか、あれから五年も過ぎたのかと、彼の言葉に時間の流れを感じた。
 あの頃に過ごした五年は随分と長く感じたが、そこから抜け出してからの時間は想像以上に早かったと思う。いまだからこんな風になんの引っかかりもなく昔のことを考えられるのかもしれない。あのままこの場所に残っていたらこんな気持ちにはならなかっただろう。

 俺は運が良い。最悪な状況だった俺の前に現れた時雨は、しがらみを解いて先に進む道を与えてくれた。踏み切れずにずっともがいていた俺の背中を、佐樹さんは迷わず強く押してくれた。
 いつだって俺は誰かの手にすくい上げられる。一歩踏み出し、振り返った時に彼らは優しく笑ってくれるのだ。

「なんだか優哉とこの町を一緒に歩くって変な感じがする。あの時はそんなこと想像もしていなかった」

 どこか懐かしむような横顔を思わず見つめてしまう。二人でこの町を歩くのは彼が言う通り初めてだ。それどころか彼がここへ来たことがあるだなんて俺は知らなかった。あまりにもじっと見過ぎたからなのか、佐樹さんは少し目を瞬かせてこちらを見上げる。
 小さく首を傾げる仕草は俺の視線の意味を考えているのか。

「あれ? 言わなかったか? お前がいなくなった時、一度お前の家に行ったんだ」

「え? そうだったんですか?」

「うん、いないだろうとは思ったんだけど。どうしても行って確かめたくなって」

 驚きをあらわにした俺に、苦笑いを浮かべて彼は肩をすくめた。その表情に俺は思わずはっと息を飲んだ。
 佐樹さんが俺を迎えに来てくれたあの日から俺が旅立つまでの三ヶ月半は、ひどくめまぐるしくて、二人で会える時間が一分でも一秒でも長くなるように隙間を縫うように過ごした。
 彼の傍にいる時は離れることを惜しむように抱きしめて、キスをして、愛を囁いて。それまでの出来事をゆっくりと振り返る余裕さえなかった。

 でもあの日々の中で佐樹さんがどんな思いをしていたのか、それをちゃんと知ることをしていなかったなんて、いま考えるとなんて薄情なんだろうと思える。自分を見失ってそれを考えるだけの力がなかったとは言え、たった一人置いて行かれた彼はどれほど不安だっただろう。

「佐樹さん」

「どうしたそんな顔して。お前はすぐそんな顔をする。いいんだよ。余計なことは考えなくて。お前はずっと僕の隣で笑っていてくれればいいんだ」

 そっと伸ばされた手が俺の手のひらに重なる。指を絡めてぎゅっと強く握られて、胸が痛いくらいに締めつけられてしまう。優しく笑う彼に隙間を奪うように引き寄せられれば、込み上がってきた感情に少し喉がヒリヒリする。
 傍で寄り添うこの人が愛しくて愛しくて、繋がった手を強く引いて目の前の身体を抱きしめた。俺はどれだけの想いを捧げたら彼の愛に報いることができるのだろう。

「なんでそんなに俺を甘やかすの」

「お前が笑ってるのを見るのが一番好きだからだ。それだけで幸せだなって思えるんだよ」

「俺といて幸せですか?」

「もちろん、いますごく僕は幸せだ」

 本当に眩しいくらいの笑顔で答えるから、目の前が少しぼやけてしまった。そんな俺に困ったように笑って、佐樹さんは優しく頬を撫でてくれる。なだめるように労るように指先で触れられて、想いがこぼれ落ちそうになった。

「それよりも僕は、いまお前に怒られないかなって少し心配なんだ」

「それはどういう意味ですか?」

「うん、ついたらわかる」

 少し悪戯っ子のような目で見上げてくる彼に首を傾げてしまう。佐樹さんは一体どこに俺を連れて行こうとしているのだろう。細められた瞳を見つめ返すが、小さく笑ってはぐらかされた。
 俺が彼を怒るようなことなんて想像もつかない。しかしいまは先を急ぐように引かれた手に黙ってついて行くしかないだろう。

「もう少し、あの角だよ」

 道の先を指さされて視線をそちらに向ける。通りは日も暮れて外灯に照らされていた。この辺りまではあまり来たことがないのでよくわからないが、たぶんここは住宅街の真ん中だ。
 けれどその先には一階が店舗になっているマンションがあった。近づいていくとそれはどうやらカフェらしい。オレンジ色の明かりがついたそこはベーカリーカフェと看板が出ている。
 のんびりとした足取りで歩く彼はまっすぐにその方向へ向かって行く。

「あ、こっち」

「地下?」

 カフェの前まで行くが、そこに入ることはせずにさらに足を進める。マンションの左手には下り階段があった。どうやら目的の場所はそちらのようだ。立て看板には<ruby><rb>Crepuscule</rb><rp>(</rp><rt>クレプスキュール</rt><rp>)</rp></ruby>と店名が綴られている。
 書かれたメニューを見る限りおそらくそこはBARかなにかではないだろうか。しかしまだ十九時前だ。営業はしているのだろうか。けれど佐樹さんは迷うことなく階段を下りて行く。その後に続き階段を下りれば、彼はゆっくりと扉を開いた。

 扉の向こうは縦長のフロアで、カウンター八席ほどのそれほど広くないこぢんまりとした店だ。やはりまだオープン前なのか、室内を照らす照明は明るい。
 カウンターの内側にある棚には酒のボトルがびっしりと並んでいて、想像通りBARなのは間違いないようだ。しかし酒の飲めない彼がこんな場所に出入りしているというのは意外だった。

「こんばんは」

「はーい」

 しんとした店内に佐樹さんの声が響く。すると人の気配がなかった空間に別の声が響いた。返事したのは男の声で、カウンターの奥にあるスイングドアを開いて顔を出す。
 黒のベストに白いシャツ、深いグリーンのネクタイを締めたその人物は、男にしてはややほっそりとした体躯。ふわふわとした柔らかそうなオレンジブラウンの髪が目を引いて、猫のような茶色い瞳が印象強い。
 佐樹さんを目に留めると男は相好を崩し、人なつっこい笑みを浮かべた。俺は思わずその顔をじっと見つめてしまう。

「西岡さんお疲れさま。待ってたよ。……あれ?」

 佐樹さんの後ろに立つ俺の存在に気がついたのか、男は小さく首を傾げて目を瞬かせた。そして俺がしたようにじっとこちらを見つめてくる。そしてその瞳は目の前の事実を認識したのか、次第に大きく見開かれていく。身を乗り出すような勢いで男は大きな声を上げた。

「嘘、ユウ……ユウでしょ! え、なんで、え、ほんとに? うわー、変わってない。ってか、前よりいい男になってるし!」

「ミナト」

 興奮したように白い頬を赤らめたその男の顔も声も、いまだに忘れてはいなかった。以前より随分と大人びて落ち着いた雰囲気になったが、にじみ出す性格は相変わらずだ。
 無邪気で奔放で、裏表を感じさせないまっすぐさがある。ミナトは瞳をキラキラと輝かせて喜びをあらわにしていた。

「ああ、なんかすっごいドキドキする。西岡さんどうしたの? ユウを連れてくるなんて言ってなかったじゃない。教えてくれても良かったのに!」

「うん、ミナト驚くかなって思って」

「驚くに決まってる! あ、やばい。俺、いま顔に締まりない。貴也にバレたらめっちゃ怒られそう」

「あれ? 今日は貴也はいないのか?」

「あー、うん。風邪を引いたらしくてさ。今日は家に置いてきた」

 戸惑う俺をよそに二人はごく親しげに笑い合っていた。一体いつの間にこの二人は知り合ったのだろう。昨日今日の付き合いではないのは二人の様子を見ればわかる。佐樹さんはたぶんここにはもう何度も来ていて、ミナトとも顔を合わせているに違いない。

「佐樹さん、事情が飲み込めないんですけど」

「ああ、うん。さっきお前の家に行ったって言っただろう。その時に偶然ミナトに会ったんだ。それでミナトの伝で荻野さんに連絡したんだよ。それ以来メールしたり電話したり、たまにこうして会うんだ」

「そう、だったんですか」

「隠しているつもりじゃなかったんだけど。なんとなく言い出すタイミングもなくて。今日いい機会だと思って。……怒った?」

 俺の機嫌を窺うようにこちらを見上げた彼の瞳に不安が混じる。しかし驚きはしたがこれは怒るようなことではない。むしろ俺のことで世話になったのなら、礼を言わなければならないことではないか。もう一度視線を向けると、ミナトはやんわりと笑みを浮かべた。

「これは俺がどうとかって言うより。西岡さんの強運だよ。ユウに向かう気持ちが強かったんだ。運命ってあるんだなって思ったよ。西岡さんはいつだってユウを引き寄せる。あの雪の日だってそうだ」

 紡ぎ出そうとした言葉は先回りして止められた。ミナトは俺に礼を言って欲しいわけではないのだろう。それよりも佐樹さんをもっと大事にしろと言いたいに違いない。
 この男も昔から自分より人を優先するところがある。いつもおどけて馬鹿をやっているように見せて、その内側は思慮深くてひどく真面目だ。

「俺いまはほっとしてるんだ。ユウに本気で好きな人ができたんだって思うと嬉しいよ。俺もね、いますごい好きなやつがいるんだ。ユウに負けないくらいのいい男だぞ。会わせてやりたかったな」

「……また会おうと思えば、いつでも会えるだろ」

「え? あ、うん。そうだよね。また西岡さんと来てよ」

 驚きに目を瞬かせたミナトは、言葉の意味を飲み込むと、はにかみながら至極嬉しそうに頬を緩める。最後に彼と会った時はもう二度と会うことはないのだろうなと思っていた。
 それなのにこうして会うことになるなんて。佐樹さんは本当にいろんなものを引き寄せてくる。その引力には驚かされてばかりだ。

「二人一緒ってことはこれから出掛けるの? 座って待ってて、すぐ用事を済ませるからさ」

 入り口で立ち止まったままの俺たちを手招くと、ミナトは慌てたようにまたスイングドアの向こうへと姿を消す。その様子に俺と佐樹さんは顔を見合わせたが、立ち尽くしていても仕方がないので言われるままに椅子に腰掛けた。

「佐樹さんいつも一人で来てるんですか?」

「いや、一人の時は少ないな。三島とか峰岸とかとよく来るぞ。あいつらは二人だけで来てる時もあるみたいだ。三島の家が近いからかな」

「あの二人が一緒にいるようになるなんて想像がつかなかった」

「うん、僕もそう思う。でもなにかと三島は世話焼きなところがあるから、ほっとけなかったのかもな」

 学生時代は弥彦のほうがあまり峰岸のことをよく思っていなかった。どちらかと言えば毛嫌いしていたくらいだ。大学が一緒だったとは言え学部が違う。そう接点がものすごくあったわけではないだろう。
 それなのに弥彦が世話を焼いているのは、峰岸が普段隠している不器用さに気づいたからじゃないかと思う。たぶん佐樹さんが言うように見ていて放って置けなくなったに違いない。弥彦は昔から人が良すぎる。
 しかし俺もあずみも手が離れて、誰かの面倒を見ていないと気が済まないのかもしれない。

「おーい、ミナト!」

 しばらく二人で話をしていたらふいに店の扉が大きく開かれた。それと共に聞こえてきた声を振り返ると、俺たちの存在に気づいたらしいその声の持ち主がピタリと動きを止める。そして目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。

「あ、れ? ニッシーに藤様じゃん。なんでここにいんの?」

 戸口に立つその人物に、俺も佐樹さんも驚きをあらわにしてしまった。金髪だった髪はライトブラウンに変わったが、快活そうな雰囲気も少し幼いその顔も昔とあまり変わっていない。
 けれどまさかこんなところで会うことになるとは思わず、驚きに目を丸くしている彼を二人で見つめてしまった。