第19話 普通のご飯がおいしく感じる

 胃が順調に回復したおかげで、一真が想像していたより、早く退院ができることになった。それでも二週間近くはベッドの上で過ごしただろうか。

 個室代はさぞ高かろうと思ったけれど、母親が入院費をまかなうと言ってくれた。
 学生時代からモデルの仕事で収入もあり、素行が派手でも親に迷惑を一度もかけなかったから、らしい。

 父親にはたまに息子孝行をさせろと茶化され、一真は数日でも早く退院できて良かったと思う。
 口では不摂生、仕事の頑張りすぎと文句を言いつつ、心配していた母親は退院日が決まるとほっとした様子を見せていた。

 大げさな、と感じた一真だけれど、姉や妹たちからは、胃潰瘍は甘く見ると命に関わるのだと怒られた。

「こんにちは」

「あら、希壱くん、いらっしゃい。毎日、ありがとう」

 退院日。女性陣総出で部屋の片付けをしているところへ、希壱が顔を見せた。途端に全員が振り返り、にこやかな笑みを浮かべる。

 最近の希壱は母、姉、妹とまんべんなく親しくしていた。彼女らには彼の次はない、逃すなと一真は言われている。

「もうほとんど片付いちゃってますね」

「いいのよ。希壱くんは一真を持ち帰ってくれれば」

「……俺は荷物か」

 室内を見回した希壱に、母は椅子に座っていた一真を立たせ、ぐいと差し出す。しまいには横から、妹の真帆に手荷物を押しつけられ「帰っていいよ」とまで言われる。

「あとの手続きはしておくから、真帆の言うとおり帰りなさいよ」

「おう」

 姉の真未にまで、犬猫を払うように手を振られ、さすがに身の置き場がない。
 希壱と目が合うとにこりと笑われて、ならば言葉に甘えようと、一真は彼と一緒に病室を出た。

「三人ともほんと一真さんの家族だよね」

「なにがだ?」

 並んで廊下を歩いていると、なにやら希壱に深いため息をつかれる。訝しげに一真が視線を向ければ、じっと見つめ返された。

「なんだよ」

「いや、顔の良さが半端じゃないなって」

「ああ、父親の顔が整ってるからな」

「そうなんだ。まだ俺、お父さんとはご挨拶してないな。でもお母さんもとっても綺麗で、美形の掛け合わせで美男美女が生まれたんだなと。うちって母さん似の末っ子以外は、父さん譲りの平凡だからさ」

「希壱くらい、穏やかな顔立ちが俺はいいけどな」

 確かに平凡なのかもしれないけれど、笑うと細目がさらに細くなって、ふんわりとした優しい雰囲気になる。そんな希壱の表情が一真は一番好きだった。

「主張が激しくなくていい感じ?」

「……っ、なんだそれは。ただ普通に希壱の顔立ちが落ち着くって話だよ」

 きょとんとした顔で見られ、思わず一真は吹き出してしまった。
 手を伸ばし、ぽんぽんと頭を撫でてやれば、希壱の頬がぽっと赤く染まる。照れくさそうに目を泳がせた、なにげない仕草が可愛く思えた。

「そうだ、来る前に一真さんの部屋、換気しておいたよ」

「そうか、いないあいだ色々とありがとな」

 病院から一真のマンションまで、タクシーで十分程度。ここへ来るより先に、どうやら希壱はそちらへ寄っていたようだ。
 時間のあるときに換気や、郵便受けを確認してほしいと、彼に頼んでいた。

「入院する前日に冷蔵庫の中身、ほとんど片付けたでしょ? なにか買って帰る?」

「そうだな。あー、それより昼飯、食おう」

「なになら食べられそう?」

「あっさり」

「うどん屋さんに行こうか」

「うん。それでいい」

 病院前でタクシーを拾って、最寄り駅で降りると、いつぞや出前を頼んだうどん屋に寄る。いまは昼時をかなり過ぎているため、さほど混んでいなかった。

 注文をすれば待ち時間も少なく、一真は朝ご飯ぶりの食事にありつける。
 久しぶりの病院食以外の食事は、味がしっかりと感じられた。

 入院中は胃に刺激を与えないよう配慮されていたとはいえ、どれも薄味すぎて食べた気がしなかったのだ。

「一真さん、ゆっくり食べてね」

「ん? ああ」

「退院したからって、いきなり食事を元に戻しちゃ駄目だよ」

「……わかってる」

 というのは、嘘だ。
 いまあれこれと、食べたいものが頭の中に浮かんでいた。しかし希壱の忠告どおり、しばらくは気を使ったほうがいいだろう。

 うどんを三分の二、食べたところで一真の腹はいっぱいになった。

「一真さん。それ、俺が食べる」

「悪い」

 すかさず声をかけてくれた希壱は、もしかしたら見越していたのかもしれない。普段からよく食べる彼だけれど、いつもより注文が少なめだった。
 最初から一真が残したら、引き受けるつもりだったようだ。

「胃が小さくなってる」

「仕方ないよ。数日絶食したあとは、病院の粗食だもん」

 無意識に一真が腹をさすっていたら、希壱は小さく笑う。

「そういえば、休みはいつまで? もしかして週明けから仕事を再開するの?」

「連休に多少被ったとは言え、二週間も休んだからな」

 今日は土曜日。一真は月曜日から出勤すると学校へ連絡していた。

「もうしばらく休んでも、とかほんとは言われてるんじゃない?」

「…………」

「やっぱり」

 グラスの水を飲みながら、店の壁にかけられたカレンダーへ視線を向けた一真に、希壱はもの言いたげに目を細めた。

 呆れているが心配もしている。そんな希壱の表情に一真は渋々視線を合わせた。

「一真さんはちょっと真面目すぎ」

「仕事は真面目にするものだろ。向こうも、また倒れられると困るから、言ってるだけかもだし」

「確かにありえる話だけど。いまの一真さんは、これまでの半分くらいのパワーしか出せないって理解してね。これからの季節、どんどん暑くなるのに、体に悪いよ」

「気をつける」

 希壱の言うとおりだ。食事もまだあまり取れない状況で、入院で衰えている体。

 二週間ほどと言っても、ほぼベッドの上で過ごした。体重も落ちて、足腰が弱っている可能性もある。
 人間の体は鍛えるのが大変なのに、衰えるのはあっという間なのだ。

(入院はもうこりごりだな)

 これまでは特別、筋トレなどしていたわけではないけれど、体重を戻すためにも気を使わなければいけない。

 そうでないと――スーツのズボンがおそらく全滅だ。
 今日、久しぶりに穿いたデニムのウエストがゆるゆるで、ベルトを最後まで締めなければいけなかった。

「はあ、ベルト、穴を開けないとだな」

「一真さんの腰、すっかり細くなったよね。元々かなり引き締まってたのに」

「貧相になった」

「ちょっとすらっとした程度だよ」

「ものは言いようだな」

 遅めの昼食は希壱がすべて器をカラにしてくれ、代わりに一真がおごることにした。
 入院中、色々と世話になった状況を考えれば安いものだ。