第25話 付き合う記念日

 数種類のケーキを買って、マンションへ帰宅した頃には日が暮れていた。

 これから食事の支度をするのは面倒なので、ついでに夕飯も調達してある。
 弁当屋の出来合いだけれど、なんであれ味が良ければすべて良し。

「はあ、やっぱり家が一番落ち着くな」

 荷物は希壱に任せ、一真は早々にソファに身を預けた。七月初旬は夏本番前だが、まだ梅雨が明けきらず、蒸し暑い日が続いている。
 帰宅してすぐにエアコンを入れ、いま徐々に空気が冷まされているところだ。

 エアコンの風に当たりながら、ごろんと転がっていれば、キッチンへ行っていた希壱が、ソファの背面から覗き込んできた。

「今日は、なんかよくわからない集まりになってごめん」

「いいさ。あの二人は俺たちに発破をかけたかったんだろ。俺のことが好み云々は、たぶん嘘だと思うから、次に会うとき、お友達と喧嘩するなよ」

「え? そうなの?」

「やっぱり気づいてなかったんだな。あいつら、俺の台詞のあと目配せしてた」

 思いがけなかったらしく、希壱の目が丸くなる。若干細目の彼が、瞳の表情を変える瞬間が一真は好きだ。

 無意識に笑みを浮かべていたら、からかわれたと思ったのだろう。希壱は少しムッとする。
 そんな可愛い恋人を、一真はぽんぽんと座面を叩き呼び寄せた。

「なに怒ってんだよ。希壱が可愛いなって思っただけだろ?」

「ほんと? 呆れてない?」

「ガッチガチに隙がないやつより、たまに抜けてるくらいが俺はいい」

 一真の腹の辺りで腰を下ろした希壱が、真上から見下ろしてくる。
 しょんぼりした顔がこれまた可愛くて、ニヤニヤしそうになったが、さすがに口元を引き締めた。

「完璧そうに見える一真さんも、時々可愛いもんね」

「そういうの大事だろ? ギャップ」

 手を伸ばし、手のひらで頬を撫でてやると、すり寄るみたいに顔を寄せてきた。

(デカい黒猫だな。可愛い)

 しまいには甘えて上に覆い被さってきたので、一真はぎゅっと背中を抱きしめてやる。
「キス、したい」

「いくらでも」

 絶妙なトーンで発せられるおねだり声は、イエスしか返せないのが不思議だ。
 そっと顔を寄せてきた希壱にならい、一真はゆっくりと目を閉じる。それとほぼ同時かやんわりと触れる唇。

 ちゅっちゅとついばむ仕草を繰り返し、希壱は少しずつ一真の唇を味わっていく。

「はっ……ん」

 存分に唇を食らった希壱は、次に口内を侵略してくる。するりと舌をすべり込ませ、たっぷりと粘膜を愛撫してきた。

「き、いち」

「なに?」

「……舌」

「うん」

 ぎゅっと希壱のTシャツを鷲掴みすれば、一真の気持ちを見透かした彼は、差し伸ばした舌を丹念に舐めてくれる。

 ざらざらとした感触と、表面を撫でられる感覚に一真はゾクゾクとした興奮を覚えた。
 きつく希壱の体を抱き込み、今度は彼の唇の奥へ忍び込む。

 ピクリと体が反応したけれど、希壱はされるがまま、一真のキスを受け入れた。

「んっ、やっぱり一真さんのほうが……上手いよね」

「こんなとこでヤキモチを妬くなよ?」

「我慢はするけど、完全に感情を消すのは無理。一真さんの唇に触れた相手が恨めしい」

「困ったやつだな」

 よしよしと両手で頭を撫でてやったら、ぎゅうっと抱きしめ返される。恋愛一年生は色々な葛藤があるのだろう。

 しかしそう思って甘やかしていたら、希壱は一真の襟元に鼻先を埋めてきた。

「希壱、外から帰って、汗、掻いてるから」

「一真さんのいい匂いがする」

「……お前、ちょっと変なフェチだよな」

「酷い。俺が変態みたいな言い方しないで。お風呂上がりの匂いも好きだけど、汗に混じった匂いも好きなだけ!」

 汗にはフェロモンが含まれていると言うから、おそらくそういう意味なのだろうけれど。
 汗ばんだ体を思いきり嗅がれる側は、はっきり言ってたまったものではない。

「風呂に入ってくる。どけ」

「えぇ? せっかく一真さんを堪能してたのに、酷い」

「酷いのはお前だ」

 押し離されて、ブーブー文句を言う希壱をリビングに残し、一真はバスルームへ向かった。

 このままでは夕食の前に、希壱に食われそうだと、そそくさと洗い場に足を踏み出す。
 念のため扉の内鍵をかけた。

 結局、互いに風呂を済ませてひと息ついたのは、帰宅して一時間以上も過ぎたあとだ。
 時刻も二十時だったため、腹が減っては戦はできぬ状態だ。

 風呂に入り、色々とすっきりした希壱は、大人しく食事をする旨を了承してくれた。
 弁当は簡単に温め、缶ビールで乾杯をする非常にシンプルな夕食。それでも希壱と二人、向かい合ってなにげない話をしている時間が心地いい。

(希壱と再会するまで、ほんとにこうやってゆっくり飯食うような相手、いなかったな)

 そもそも一真はずっと、誰とも付き合う気が起きなかった。希壱とバーで偶然会ったあともしばらく、そう思い続けていたのだ。

 これはひとえに希壱の粘り勝ち。

(ほだされたんだろうな)

 一真は黙々としょうが焼きとご飯を口に運びながら、うまそうにカツ丼とうどんを食べている希壱を眺める。

 一ヶ月くらい逃げたあの頃が、本当に申し訳なく感じた。おそらく口説く、という希壱の言葉に恐れを抱いたのだろう。

 無意識の防御反応――この男には絶対捕まる。逃げなければ――のような感覚だ。

 おねだりをホイホイと、受け入れているいまの状況を鑑みれば、考えるまでもない。

「どうしたの一真さん。さっきから視線がビシバシ刺さってるんだけど」

 ずっと様子を見て黙っていた希壱も、一真の視線が気になりすぎたらしい。

「いや、ちょっといままでのことを振り返ってた。希壱には最初から捕まる運命だったんだろうなって、再確認」

「あー、そういやめちゃくちゃ避けられてたもんね、俺」

「あの時は悪かったな。色々といっぱいいっぱいだった」

「だろうね。他人に言われて俺を振ろうとかしちゃうくらい、どうかしてたよね」

「まったくだ」

 いまでも思い出すと自分が恥ずかしい。

 夏樹に言われて、これ幸いと感じた部分もあったのだ。断る口実が見つかったと。
 ああでもしなければ、希壱に断りの台詞は言えそうになかった。

「でも俺、もう少しだけ気持ちにゆとりを持てるようにする。一真さんの深い部分、察してあげられなかったし」

「馬鹿か。そんなに簡単に、心の中を察せられてたまるかよ」

(それでなくとも、たまに鋭くてドキッとするのに)

 しゅんと肩を落とした希壱に、一真はわざとらしく鼻で笑って見せた。すると希壱はすぐに「そうだよね」と納得して笑う。

「あっ、そろそろケーキを食べよう」

「よし、持ってこい」

「ちょっと、俺は犬じゃないからね」

 もう、と軽いため息をつくものの、希壱は言われるままに立ち上がり、キッチンへ足を向ける。

 買ってきたのはチョコレートケーキと苺ショート、フルーツロールケーキ。それぞれワンピースずつ。

 ホールで買うほど、お互いに甘党というわけでもない。それでもショーケースを眺めていたら、あれこれ食べたくなった。
 二人で三つをつつき合う予定である。

「ビールとケーキ。ちょっと微妙だったかな? コーヒーでも淹れる?」

「いやいい。わりと平気だ」

 まず始めに、ショートケーキの端っこにフォークを刺した一真は、生クリームとスポンジを味わってからビールを流し込んだ。

「チョコだったらもっと合うんじゃないか」

「……うん。いける」

 選んだのはビターチョコのケーキ。
 ほろ苦い感じが、ビールの苦みに丁度いいような気がした。黒ビールだったらさらに合いそうに思える。

「はあ、こうやってのんびり、一真さんと一緒にケーキをシェアしながら過ごすひととき、幸せすぎる」

「希壱はいつでも幸せそうだな」

「言ったでしょ。俺は一真さんといるのが幸せなの。一真さんという存在が傍にいる、同じ空気を吸ってるだけで幸せなの」

「壮大だな」

 力説するみたいに拳を握りしめた希壱へ、一真は曖昧な相づちを返し、続けてフルーツロールケーキにフォークを刺した。

「希壱と、一緒だと飽きないな」

「大丈夫、飽きさせないし、俺は一真さんに飽きるとか一生ないから」

 もぐもぐとケーキを咀嚼していると、任せろと言わんばかりに胸を張る希壱。
 おどけた風であるけれど、確かに彼の言葉なら信じられる気になる。

「ふふ、一真さんの笑顔、可愛い」

「いま笑ってたか?」

「うん。すごくいい感じにふわって」

「ふぅん」

 これまで一真は周囲に皮肉っぽい、嘘くさい笑みだと言われることが多かった。だというのに、希壱は毎回可愛い可愛いと褒める。

 彼に見せている笑みは、きっとほかと違うのだろう。一真自身が意識していなくとも。

「一真さんがずっとそうやって、笑えるようにするから」

「そうだな。楽しみにしてる」

「一真さん、大好き」

「俺も好きだぞ」

「――っ!」

「なんだよ自分から言っておいて」

 ボンと発火したかの如く、真っ赤になった希壱の顔に一真は目を細める。

『早くこの口から、俺もって言われたい』

 希壱がそう言っていたのを、一真は忘れていない。
 彼も覚えていただろうが、まさかここで返されると予想していなかったのだろう。

「心臓に悪い。今度、言うときなにか合図してほしいかも」

「合図ってなんだよ。面倒な男だな」

「一真さんの好きは破壊力がすごいんだよ! 今日もカフェで言われたの、息の根が止まるかと思った!」

「息の根って、息じゃねぇのかよ」

 心臓への衝撃を誤魔化しているのか。耳まで赤くしながら、希壱はブスブスとケーキにフォークを突き刺し、次々と平らげる。

 そして最後の一欠片――

「あーん、ここにくれ」

「ひぃ、一真さんに俺、殺される」

 希壱のフォークに刺さったチョコレートケーキ。一真があーっと口を開けて待てば、ぷるぷると震えた手でケーキが口の中へ収められた。

 濃厚なチョコを味わい、一真はぐいっと缶ビールの最後をあおる。

「ごちそうさん」

 締めにべろっと唇についたチョコを舌で舐め取ると、希壱は昼間と同じく口元を押さえて俯いた。

「一真さん! 俺のノミのような心臓を握りつぶさないで!」

「失礼なやつめ。俺は全部平らげる勢いだったお前から、一欠片もらっただけだ」

「なんなの? 急にデレ増量されるの、困るんだけど。困る? いやいや、困らない。心臓がやばいだけ」

「デカい独り言」

 一人でブツブツ呟いている希壱を尻目に、一真は冷蔵庫からもう一本、缶ビールを持ってくる。

 目の前で繰り広げられている独り言劇場。
 とりあえず希壱が落ち着くまで、ビールを飲んで待つべきだろう。少しだけからかうつもりだったのに、ここまで動揺するとは思わなかった。

「一真さん、なんでそんなに平常心? 経験値の差?」

「ん?」

「俺はずっと、そわそわドキドキして大変なのに」

「なんだよ、希壱はずっとベッドの上のことばっかりか?」

「意地悪く言わないで! 知ってる? 俺、初めてなんだから!」

「……ああ、そういやそうだ」

 うっかりと忘れていたが、希壱は一真が初めての恋人。キスも初めてだったのだから、もれなく童貞であるのは間違いなしだ。

「ちゃんと俺が教えてやるから」

「うっ、よろしくお願いします」

 男としては情けなく感じるかもしれないけれど、誰しも最初はあるものだ。

「それを言うなら、俺も初めてだな」

「あっ! そっか、一真さんも……」

「急にニヤニヤしやがって」

「ご、ごめん。痛くないように、頑張るから。痛かったら蹴飛ばしていいから」

 そわそわしていた雰囲気が、途端にふわふわしだして、わかりやすい希壱の反応が面白い。
 頬を染めながら、わたわたと身振り手振り言い訳して、可愛いとしか言えない。

 食事が終わり、記念のケーキも希壱がほぼ一人で平らげたので、そろそろ夜の時間だ。

「ほら、先に向こうへ行ってろ」

「う、うん」

 テーブルの上を片付けつつ、希壱をリビングから追い出す。
 ちらちらと振り返りながら「早く来てね」という表情をする彼に対し、一真は追い払うように手を振った。

「受け手はなにかと面倒だが、仕方ない」

 洗い物を片付けてから、意を決したように一真はリビングを出た。