更衣室を飛び出し外へ出ると、すぐさま携帯電話を開いた。耳元で鳴るコール音がもどかしく、その音が響くたび、早く出てくれと思わずにいられない。
「もしもし」
数回コールしたあと、ふいに音が途切れのんびりとした声が聞こえた。
話をしていないのはたかだか二日ほどだと言うのに、この声を最後に聞いたのが随分と遠い日のことのように思える。こんなにも彼に飢えていたのかと思うと、自分が情けなく感じた。
「先生、いまどこですか」
「もしかして走ってるのか?」
せっかく繋がったと言うのに、聞きたいこととは違う答えが返ってきて苛立ってしまう。思わず舌打ちしそうになったのを抑え、大きく息を吐き出した。気が急いている時ほど自分の内側にある本性が顔を出しそうになる。けれどそれは彼の前では押しとどめておきたい。そうでなければ、いつかどこかで彼を傷つけてしまいそうで怖いからだ。
「どこですか」
「あ、来た」
「は?」
わけがわからず首を捻るとほんの少し先から、耳元で聞こえる声と同じ声がした。よくよく目を凝らして見れば、薄暗い道の端でガードレールに腰かける人影を見つける。
「先生!」
慌てて駆け寄れば、久しぶりとなに気ない様子で片手を上げられた。目の前に立てば小さく首を傾げられ、どうしようもないほどめまいがした。あまりにもなにごともなかったような素振りで、普通過ぎて、逆にどう接していいのか迷ってしまう。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです」
彼の問いかけに思わず本音が漏れてしまった。ふいに力が抜けて両膝に手を当てると、少し戸惑ったような気配を感じる。
「悪い」
しまった――彼の不安を煽ったかもしれない。なにもない素振りでいても、この人が本当にそう思っているわけがない。
「謝らないでください」
「あ、まだ時間、早いだろ」
「今日はもう上がりでした」
言葉の少し足りない彼の言わんとすることがわかり、素早く訂正してあげれば、そうかと小さく呟き俯く。その姿に俺は思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
通常通りのシフトで上がっていれば、あと少なくとも一時間は遅い。それまでこの人はここにいるつもりだったのだろうか。
「急かしたみたいで悪い」
「もう謝らないでください。あんなメールをもらって急がないわけがない」
「悪い」
謝るなと言った側から、困ったように眉を寄せて目を伏せる。その表情に勢いよく立ち上がり、力任せに彼を抱き寄せた。そして驚きに目を見開いたまま、倒れ込むように落ちてきた身体を隙間なく抱きしめる。
「藤堂?」
「ほんと無自覚過ぎて困る」
彼のほうから初めて送られて来たメールは、本当に短いものだった。それはたった一言だけ――会いたい、その四文字だけだった。
「会いたいと言われて走らずにいられるわけがない」
愛想を尽かされているかもしれないとそう思っていた。それなのに、自分の感情に疎いこの人がこんな我がままを言ってくれるとは夢にも思わなかった。会いたいと思ってくれるなんて考えもしなかった。俺ばかりがこの人のことを考えていると思っていた。
「嬉しかったです」
ぎゅっと抱きかかえ頬に顔を寄せれば、躊躇いがちにおずおずと背中に腕を回された。些細なその行動がたまらなく愛しく思える。彼がこんな風に触れてくれたのはいまが初めてだ。背中に感じるぬくもりがたまらなく温かい。
「ちょ、藤堂」
「なんですか?」
けれどなぜか急に彼はしどろもどろになった。その声を訝しく思い、ふいにそらされた顔を覗く。すると視線をさまよわせ頬を赤く染めた表情が映る。
「どうしたんですか」
突然あからさまに動揺し始めたその姿に首を傾げて見れば、背に回された腕は解かれ、わずかに肩を押されて距離を置かれた。なにが原因なのかはわからないが、急な変化に胸がズキリと痛む。愛しいと思う人に、ほんのわずかでも拒絶されるのはたまらなく苦しいものだ。
「嫌、ですか」
「そ、そうじゃなくて」
俺の問いかけに彼は大きく首を左右に振る。
「なんですか」
でも完全に顔を背けられ、だいぶショックだ。けれど相変わらず彼は視線を忙しなく動かす。じっとそれを見つめていれば、俺の袖口を握り、なぜか小さな声でボタンと呟かれた。
「え?」
一瞬意味がわからず眉をひそめてしまったが、やっとそれに気づき思わず苦笑いしてしまう。まさかそんなことで避けられるだなんて思いもよらなかった。
「すみません。急いでたから」
そう謝罪して俺はシャツに指をかける。とりあえず形だけ整え、急いで出てきたので、下のボタンを二つ、三つを留め、ズボンに押し込まれているだけのシャツは、中ほどまで開いてしまっていた。
「見苦しい格好ですみません」
「いや、別に」
「相変わらず、可愛いですね」
俯く顔を覗き込めば、さらに頬が紅潮する。いつもならば文句の一つや二つ飛んできてもおかしくないのに、いじらしいと言うか、男心をくすぐる表情を見せられ調子が狂う。
可愛い可愛いと普段から口にするが、決して彼に男らしさがないわけではない。けれどいまはそれさえなりをひそめてしまい、戸惑わずにいられない。しかし素肌に触れただけで顔を赤らめうろたえるだなんて、こんな反応を見せられると、相手として意識されているのかと思わず期待してしまいそうになる。
「先生、今日はどうしたんですか」
身なりを整えてから改めて彼に向き直ると、彼はそわそわとして落ち着かない様子だ。
「藤堂、あっ、あのな」
俯きがちな顔を再び覗き込んで、離れた身体を引き寄せようとすれば、焦ったように腕を掴まれた。その慌てように思わず固まってしまう。
「……」
この状況でまさか手酷く拒絶されるようなことはないだろうとは思う。そう思うが、胸がざわりとして痛い。世界中の誰に拒絶されても構わないが、この人にそうされたら、俺は本当に息の根が止まってしまいそうなくらいだ。そのくらいに好きで愛おしくて仕方ないと思っている。
「そ、そんな顔はするな。違う、違うから」
嫌じゃない、そう消え入りそうな声で言われ不覚にも泣きそうになった。嫌われていないという言葉だけでひどく安堵して、身体中の息を吐き出し、祈るかのように組んだ両手を額に当てて俯いた。
「す、好きだ」
「え?」
ぎゅっと袖口を握りしめられ、顔を真っ赤にして俯くその姿に思わず俺は首を傾げてしまった。
「いま、なんて?」
「だ、だから」
脳がうまく働いていない気がした。慌てふためいている彼の声が少し遠い。まさかそんなことがあるはずはないと思ってしまった自分がいる。彼の口からそんな言葉が紡ぎだされる日が来るなんて、想像もしていなかった。
「お前が好きだ」
今度はあ然としている俺の目を見ながら、まっすぐにそう告げられた。
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