波紋12

 藤堂の自由を奪うために、僕は彼の傍にいるわけじゃない。一緒にいることで少しでも藤堂の歩く道が明るくなればいい、そう思っていた。だからこんなことは、望んでいなかった。
 ひどく喉が熱くなった。吐き出しそうになる言葉を押しとどめるように、僕は自分の口を両手で塞いだ。いまここで声を上げることは、藤堂の我慢も想いもすべて無にすることになる。自分の無力さがたまらなく悔しい。
 静まり返った空間に、来客用のスリッパが床を打つ音が響く。それは徐々にこちらへ近づいてきた。その音にいち早く気づいた峰岸は、素早く僕の身体を引き寄せ階段下に身を隠した。

「なんですって?」

 けれどその音は僕らの予想に反し、こちらへ来る前に止まった。足音の代わりに、苛立ちを含んだ声が響いた。

「勝手に決めるなと言ったんだ」

 そして間を置かず、藤堂の声が聞こえた。場所を移動してしまったため、藤堂たちの様子を覗い見ることが出来なくなった。ほんの少し近くなった声と、藤堂の声に僕は耳を澄ました。

「それは、どういう意味かしら」

「俺はあんたの望むようには生きない」

 聞き取りにくかった藤堂の声が、今度ははっきりと聞こえた。止まってしまいそうなほど痛くて苦しかった心臓が、躊躇いのないその声に強ばりを解く。僕はゆっくりと息を吸い込んだ。 

「本気で言ってるの?」

 先ほどまでとは違う、戸惑いを含んだ声で彼女は藤堂に問いかける。ここで藤堂が反抗することはまったく予測していなかったのかもしれない。

「本気だ」

「……あなた、後悔するわよ」

 毅然とした藤堂の返事に、彼女は一瞬言いかけた言葉を飲み込んだ。そして無理に落ち着き払った声を出そうとしたのか、次に吐き出された彼女の声はわずかに高くなった。

「あなたの自由に出来ると思わないで」

 しかしその声に藤堂はなにも答えなかった。
 吐き捨てるような言葉と共に、先ほどよりも乱雑な足音が近づいてきた。僕と峰岸はその音が階段を上り、聞こえなくなるまで身をひそめて待った。しかしそのあいだにも、もう一つの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。

「もう行ったか、っておい」

 階上から音が聞こえなくなるのを確認すると、僕は思うよりも先に階段下から飛び出していた。背後から呼び止める峰岸の声など、気に留めている余裕はなかった。

「藤堂」

 階段とは反対の方向。懇談会が行われる教室へと歩いていた藤堂の背中を、僕は必死に追いかけていた。

「佐樹、さん?」

 突然呼び止められた藤堂は、戸惑いと驚きを混ぜた少し複雑な表情をして振り返る。でも僕は藤堂のそんな反応よりも、自分の名前を呼ぶ声に、自分を見る眼差しに胸を高鳴らせた。
 立ち止まった藤堂の腕を、逃がすまいと僕は強く掴んでいた。

「藤堂」

 ほんの少しの距離を走っただけなのに、うるさいほどに心臓が脈打っている。息が上がって苦しい。藤堂の腕を握りしめたまま、僕は落ち着かない呼吸を整えようと俯き強く瞼を閉じた。

「どうして、泣いてるんですか」

「泣いてない」

「そんな見え透いた嘘をついてどうするんですか」

 頬にぬくもりを感じさらに強く目をつむると、藤堂の指先がそっと僕の瞼をなぞった。目尻から溢れ睫に溜まった涙、それをやんわりと拭う藤堂の優しい手に、僕の心臓は落ち着くどころかさらに動きを速める。こうして触れられるのが、随分と久しぶりな気がした。でも、実際は指折り数えられるほど、たった数日のことだ。

「俺はあなたを泣かせてばかりですね」

「いいんだ、これは」

 いまこんなにも涙が出るのは、先ほどまでの悔しさや苦しさのせいなんかじゃない。藤堂の声が聞けて、触れることが出来て、安心をしたからだ。こうしてまた言葉を交わし、傍にいられることが僕は嬉しくて、幸せで仕方がないのだ。
 いつものように困った顔で笑って、藤堂が僕の髪を梳いて頭を撫でる。そのなに気ない表情や仕草を見るだけで、いつの間にか強ばっていた肩の力が抜けた。なにかしてやりたいといつもそう思うのに、気づけば自分が藤堂の想いに救われている。そしてどうしようもない自分にへこんでしまうのだが、藤堂が笑みを浮かべるたびにそんな気持ちはいつしか忘れてしまう。

「おい、お前ら」

 二人でしばらく顔を見合わせながら笑っていると、急に背後から声をかけられた。突然のことに肩が大きく跳ね上がる。とっさに藤堂から手を離し後ろに下がると、背後から伸びてきた手に腕を掴まれた。
 慌てて後ろを振り返れば、峰岸が眉間にしわを寄せて立っていた。

「いちゃつくなら人目のつかないとこでしろよ」

「別にいちゃついてなんか、ない」

 盛大に吐き出された峰岸のため息に反論すると、額を手のひらで叩かれる。しかもそれは一度や二度ではなく、何度も嫌がらせのように繰り返された。

「地味に痛いからやめろ」

「まったく、さっきまでの我慢はどこにやった」

「なにがだよ」

 額を叩くのをやめたかと思えば、その手は僕の頬を引き伸ばすようにつまむ。

「幸せオーラがだだ漏れだ」

「そんなことは」

「ない、とは言わせねぇ」

 峰岸の言葉で火がついたように顔が熱くなった。それを誤魔化すように頬をつまむ手を払い俯くと、再び大仰なため息が吐き出され頭を撫でられた。

「お前もこんなとこで甘やかしてんなよ」

「いたのか」

「あ? さっきから目が合ってるくせに、よく言うぜ」

 機嫌を損なっていることを隠そうともしない藤堂の態度に、峰岸は一瞬目を丸くしたが、それをすぐに呆れた表情に変え肩をすくめた。
 一見するとそれは険悪なやりとりに見えるが、お互い気心が知れているからこそなのだろう。明らかに不機嫌ではあるが、藤堂が本気で怒っている様子はない。峰岸も同様で、呆れこそしてもその様子に憤慨することはなかった。

「ったく、世話がやける奴らだな」

「な、なんだ」

 二人の様子を見比べていると、突然峰岸に手を掴まれた。そしてその行動に僕が驚き、藤堂がなにかを発しようと口を開きかける前に峰岸は歩き出す。予測していない動きに、僕は半ば引きずられるようにして歩いた。

「どこ行くんだよ」

 なにも言わずに黙々と歩みを進める峰岸の手を引いて返事を求めるが、振り返るどころかなんの言葉も返してこない。どうしたらいいのかわからなくなった僕は、困惑したまま後ろへ視線を向けた。すると藤堂が先ほどと変わらぬ不機嫌さを漂わせながらもついてきた。
 二人でいる時はよく話をしてくれるが、誰かがいると途端に無口になる藤堂にもやはり困惑する。

「峰岸?」

 生徒玄関と階段前を通り過ぎ、二メートルほど歩いたところで、峰岸はベルト辺りに引っかけていた鍵束を後ろ手に取り、足を止めた。
 峰岸が立ち止まった場所には、明かり取りのガラス窓に、内側から白い紙が貼られた引き戸があった。そこは普段生徒が出入り出来ない部屋で、教員用の教材などが置かれている資料室だった。

「なんでここの鍵まで持ってるんだよ」

 戸惑いながらその様子を見つめていると、峰岸は片手で器用に鍵を探し出し、目の前の引き戸を開錠した。ガラリと音を立てて引かれた戸の奥は、電灯が点っていないので当たり前だが薄暗かった。

「おい、十分、いや十五分やるから、いちゃつくならここでやれ」

「え? うわっ、峰岸っ」

 振り返り藤堂に声をかけたかと思えば、突然峰岸は僕を資料室の中に放り込んだ。僕はその勢いのまま前のめりに足を踏み出し、数歩室内で進んでからようやく踏みとどまった。

「佐樹さんっ」

 峰岸の様子を後ろで見ていた藤堂が、慌てた様子で駆け寄ってきた。そして入り口に姿を見せた途端、僕のように前のめりに傾いた。一瞬のことで、向かい合った僕たちはお互い状況が飲み込めずにいた。

「あとは好きにしろ」

 どうやら峰岸が藤堂の背中を突き飛ばしたようだ。目を細め、口元を緩める峰岸の表情からそれは推測出来た。けれど相変わらず言葉の意味が理解出来なかった。二人で顔を見合わせていると、藤堂の背後で戸が勢いよく閉まった。

「おい、峰岸」

 戸の向こうにいる峰岸に声をかけるが、返事をしない。微かに聞こえた音に気がつき、急いで戸を引くと、ガタガタと揺れるばかりでそれが開くことはなかった。

「なに鍵かけてるんだよ、ここは内から開かないんだぞ」

「だから十五分やるって言ってるだろ」

「は?」

 だから、の意味がわからない。

「時間が来たら嫌でも開けてやるよ」

 戸を叩く僕に、峰岸はのんびりとした声で返事をする。本気で十五分経たないと開けないつもりだ。

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