疑惑11

 二人だけしかいなかった空間が、ふいに現実に返ることでその場所がどこなのかを改めて思い知る。朝のひと気のない学校だけれど、ここはいつ人がやってくるともしれない場所だ。
 最近は傍にいることが多くて、その制約を忘れてしまいそうになっていた。前はもう少し用心深かった気がする。気の抜け過ぎている自分に呆れてしまう。

「は、はい」

 一歩だけ藤堂から身を離し、準備室の戸をノックする相手に返事をした。するとカラカラと小さな音を立てて戸が引かれ、見覚えのある人物が顔を出す。

「西岡先生、いま少しいいですか。昨日お話した」

 少し俯きがちに準備室に足を踏み出した間宮は、ふっと顔を持ち上げて僕と藤堂に視線を向ける。そしてしばし固まったように動きを止めて目を瞬かせた。

「あ、おはよう。間宮、あー、昨日の携帯だよな」

「はい、昨日お話したカタログ持ってきました。あの、私なにかおかしいですか?」

「いや、そんなことないけど」

「そうですか? なんだかお二人とも少し驚いた顔してますよ」

 変なところで勘の鋭い間宮は僕と藤堂の些細な違和感に気づいたのだろう。けれどさすがにその理由まではわかりようもないはずで、不思議そうな顔をして首を傾げている。そんな間宮に気づかれないようにほっと息をつくと、僕と藤堂は苦笑いをして顔を見合わせた。

「えーと、これがカタログです」

「ああ、うん。ありがとう」

 差し出された携帯電話のカタログを受け取ると、僕はそれをパラパラとめくった。間宮の持っているシルバーのほかに白と黒、ブルーがあるようだ。壊れた携帯電話と同じく、どちらかと言えば男性向けであろう機種は余分な機能がないシンプルなものだった。

 しばらく黙ってカタログを見つめていたが、背中に視線を感じて僕は顔を上げた。そしてその視線を慌てて振り返れば、藤堂の視線が無言で僕に訴えかけてくる。表情にこそ現れていないが、視線に込められた気持ちがひと目でわかって少しうろたえてしまう。

「き、昨日の帰りに携帯が壊れて、それで今日買いに行くんだ」

「そうなんですか」

 声が上擦らないように気をつけながら言い訳を答えるけれど、藤堂からはその先を追求されているのがよくわかる。口元は笑みを浮かべてはいるが、こちらを見る目が笑っていない。

「そういえば昨日は藤堂くん撮影だったんですよね。私、電車のホームで偶然に西岡先生に会ったんですよ」

「あ、うん、そうなんだ」

 ぱっと華やいだような笑顔を浮かべる間宮に対し、藤堂の顔が見る間に不満げなものに変わる。そしてそんな二人の様子に、僕はなぜだか気まずい雰囲気を感じてそわそわとした気持ちになった。

「間宮先生の住まいはあの辺りなんですか?」

「いえ、違いますよ。昨日は用事があって」

「ふぅん、そうなんですか」

 興味の欠片も感じさせない曖昧な相槌を打ちながら、少し眉間にしわを寄せた藤堂はなにか言いたげに目を細めた。機嫌は先ほどまでに比べるとかなり悪くなっている。なんとなく藤堂の心の内がわかるような気がして、笑みを浮かべようとする頬が引きつってしまう。

 多分きっと昨日の夜、一緒に帰らせてもらえなかったことを不満に思っているのだろう。帰り際は結構渋々という感じだったし、間宮とずっと一緒だったなんて知ったら余計に怒りそうな気がする。

「もしかして、二人で行くんですか?」

 そして藤堂もまた勘が鋭い。僕と間宮に視線を向けて探るような目で見つめてくる。そんな視線に今度は心臓が跳ね上がった。どんどんと速まる鼓動にますます落ち着かない気持ちになる。けれどうまい言い訳も浮かんでこなくて、なんだか冷や汗が出てきた。

「そうなんですよ! 放課後に一緒に行こうと昨日話したんです」

 なぜそんなにも嬉しそうに話すのだと、間宮の口を塞ぎたい衝動に駆られる。そして僕はじっとこちらを見つめている藤堂の視線から逃れるようについ視線を下げてしまった。後ろめたいことなどなにもないはずなのに、藤堂の視線がいまはなんだか痛い。

「先生は人が好いから、押し切られると弱いですよね」

「そうなんです。うっかり最新機種なんて勧められたら、断れなさそうな気がして」

「へぇ、西岡先生のことよく見ていますね」

 声が、どんどん不機嫌になっているのがわかる。いつもより少し低くて、どこか平坦で、感情がこもっていない。突き刺さるような視線を感じるものの、顔を上げるに上げられない状況で、僕はそわそわと両手を握った。
 別になにか悪いことをしたわけじゃない。じゃないけど、昨日は連絡もせずに藤堂には心配をかけてしまった。それなのにのんきに携帯電話を買い替えに行く約束なんかしている僕は、かなり薄情に見えるだろう。藤堂が怒るのも無理はない。

「携帯、早く使えるようになるといいですね」

「あ、ああ」

「じゃあ、俺はこれで失礼します」

「……うん」

 藤堂の言葉にとっさに顔を上げてしまったが、引き止めるわけにも行かずに僕は小さく頷く。こちらに背を向けて歩き出した藤堂を見つめて、携帯電話を新しくしたらすぐにメールを送ろうと心に誓う。しかし今日は返事をくれるだろうか。それだけが気がかりだ。
 静かに戸が閉められると、僕は詰めていた息をようやく吐き出した。

「藤堂くんなにか用事だったんですか?」

「あ、まあ……そんなところだ」

 うまくかわせるような言い訳もなく曖昧に応えるけれど、間宮は特に気にした素振りも見せずに「そうですか」と笑った。この物事をあまり深く追求してこないところはいつもありがたいと感じる。いま突っ込まれたら正直なにを言ってしまうかわからない。
 藤堂に背を向けられるのはやっぱり堪える。追いすがって腕を伸ばしたい気持ちにすらなってしまう。早く、夜にならないかな。

「あ、そうだ。西岡先生。今日は少し生徒会に用ができたので、ちょっとだけお時間いただいてもいいですか?」

「うん、僕も多分なにかしら用事を任されると思うから大丈夫だ。帰りに職員室に顔を出してくれ」

「はい、わかりました」

 最近の僕はこの準備室に入り浸ることも減って、職員室にいることが増えた。しかし忙しいほかの先生たちに比べると役職もなくはっきり言って僕は暇だ。そのため職員室に行くとあれこれと用事を頼まれることが多い。けれど手持ち無沙汰になってしまうことを考えたら、任せてもらえるほうがまだありがたいと思える。

「あ、なんか飲む?」

「いただきます! お水汲んできますよ」

「うん」

 いつものように空になっている湯沸かしポットの蓋を開けると、間宮がすかさず手を伸ばしてきた。そしてその手にポットを渡せば、「いってきます」と言って準備室を飛び出していく。その後ろ姿を見つめながら、僕はいま失敗したことに気がついた。

「ん、やばい。いつもの調子で声をかけてしまった」

 ついさっき藤堂に嫉妬の眼差しを向けられたばかりだというのに、僕は相変わらずうっかりしている。また間宮と二人でのんびりお茶を啜っていると知られたら、間違いなく眉をひそめられてしまうことは目に見えてわかるというのに、僕は本当に学習能力がない。

 我ながらひどく残念過ぎて、藤堂がヤキモキしてしまうのもわかる気がする。同じことをされたら自分だって嫌だって思うのに、どうして僕はこうも短慮なのだろう。
 しかしもう口にしてしまったものは仕方がない。今更取り繕ってもおかしいだけだ。とりあえず大人しく間宮が帰ってくるのを待つことにした。

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