しばらく顔を見合わせたまま沈黙が続く。それはほんのわずかな時間だけれど、僕の心臓ははち切れそうなくらい大きく脈打つ。じっとこちらを見る藤堂の瞳からいまはなにも読み取れない。このまま黙ったままではいられなくて、意を決して僕は声を上げた。
「あのさ、お酒を飲んだのは記憶あるんだけど、そのあとが思い出せなくて。だからその、なにかやらかしてないかな、っと、心配になって」
「ああ、やっぱり覚えてないんですね」
ふっと息を吐くようにため息をつき、肩をすくめた藤堂に肩身が狭い思いがした。この呆れた雰囲気は絶対なにかやらかしたんだ。そう思ったら言葉より先に土下座をしてしまった。ベッドで正座をしていた僕は額がつくほど頭を下げる。
「なにしたかわかんないけど、悪い」
「いやいや、佐樹さん。なにしたのかもわからないのに、謝らないでください」
頭を下げた僕の髪を撫でる藤堂は深いため息をついた。
「でも、絶対に藤堂が困るようなことだろう」
「それはまあ、大いに困りましたけど。佐樹さんが心配することはさほどなかったので、大丈夫ですよ」
「さほどってなんだっ」
あまりにも微妙な言葉を耳にして、僕は勢いよく頭を上げてしまった。するとそれと同時に、髪を撫でてくれていた藤堂の手を自然と弾いてしまうことになる。しかしいまはそれどころではない。なにもないならまだしも、さほどってことは、少なからずはなにかをしたということじゃないのか。藤堂に詰め寄れば苦笑いを浮かべられた。
「正直言うと、酔っ払った佐樹さんに誘惑されて非常に困りました」
「ゆ、誘惑、って? も、もしかして、押し倒したってことはない、よな?」
寝覚めに見た夢らしきものを思い出し、さっと顔が青くなる気がした。
「あー、まあちょっと、ですけど」
「マジかっ」
ほんの少し考える素振りを見せた藤堂に一瞬だけめまいを感じた。ちょっとでもしているということは、しているということとなんら変わらない。酔っ払って迫るとかやはり本気でどうかしてると思う。しかもその出来事をなにも覚えてないとか、最低過ぎて情けなくて泣けてくる。
あれが現実だとしたら最低最悪だ。そんなに欲求不満なのか自分。けれど頭を抱えてベッドに突っ伏した僕の頭を、藤堂はあやすみたいに優しく撫でてくれる。しかし自分のしでかしたことに後悔ばかりが押し寄せて、そんな優しさにさえも胸が痛くなった。
「酔っ払った挙げ句に迷惑かけるとか最低」
いつもと変わらぬ笑みを浮かべてくれる藤堂に申し訳なさが募り泣けてくる。
「まあ困りはしましたけど、別に嫌ではなかったですよ。酔っていない時でしたら、誘われるのはいつでも大歓迎ですけどね」
本気とも冗談ともつかない藤堂の言葉に、笑うに笑えない。飲んで気まずさをどうにかしようと思わなければよかった。素直に部屋に帰って謝れば、こんなことをしでかさなくて済んだのに、昨日の自分が恨めしい。
「なにも、なかった、よな?」
欲求不満なんだとしても、やはりあれは夢であって欲しい。藤堂を押し倒した挙げ句に無理矢理迫るとか、現実であって欲しくない。ちょっとと言っていたから夢である可能性は高いが、実際のところはわからない。
ちらりと窺うように藤堂の目を見上げたら、にこりと綺麗に微笑まれた。この微笑みはどっちが正解なんだかわかりづらい。なんだか変な冷や汗が出てくる。おどおどしながら答えを待っていると、くしゃりと髪をかき乱すように両手で頭を撫でられた。
「ないですよ」
「本当に?」
「本当です」
「ほんとのほんと?」
何度も同じことを聞き返してから、やっと肩の力が抜けた。よかった、とんでもないことをしでかしていなくて、安心した。記憶がなくなるほど飲んだのは生まれて初めてのことだったけど、記憶がないってことがこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
「あ、あのさ、浴衣着せ直してくれた?」
「ああ、直しましたよ。かなり乱れてしまっていたので、浴衣を直すのに少し帯は解きましたけど」
「そっか」
しかし安心はしたが――でもよくよく考えると、藤堂的には本当はどうだったんだろうか。元はと言えば、最初に迫ってきたというか、触れてきたのは藤堂なわけだから、なんでなにもなかったんだろう。
「佐樹さん?」
身体を起こし、両腕をベッドについたまま俯く僕を、藤堂が不思議そうに覗き込んでくる。その視線に頭を上げて、じっと藤堂の顔を見つめてしまった。
「んー、あのさ。なんで、なにもしなかったんだ?」
酔っ払ってどうにかしようと、僕がちょっと迫るくらいではその気にはならない?
でも僕の視線に首を傾げていた藤堂が、僕の言葉で急にぽかんと口を開けて呆けてしまった。
「え? ちょっと待ってください。なんでその質問が来るんですか」
終いには頭を抱えてなにやら取り乱し始めた。僕はいまなにかおかしなことを聞いたのだろうか。
「本気で聞いてるんですかそれ」
「いや、だって僕は酔っ払ってはいたけど」
「だってじゃないですよ。酔っ払ってたからこそ、なにも出来なかったに決まってるでしょう? 覚えていないのは目に見えていたし、あれで佐樹さんが酔ってなかったら、遠慮なく押し倒してましたよ!」
俺の気持ちも察してくださいと小さく呟いた藤堂の気持ちに、今頃だが気づいてしまった。いまのはあまりにも失言過ぎた。本人の同意もないまま行為に及ぶのは、いくら恋人同士でも容易くしていいことじゃない。
酔っ払っていたとはいえ、一方的に迫られた藤堂の気持ちを考えれば、どれほどの我慢を強いたことだろうか。あまりにもひどい自分の行動に胸が痛くなった。やはり僕は酔っ払った挙げ句、あれで、と言われるくらいのことはしでかしたんだ。
「まだ酔ってるんじゃないですか。お風呂にでも入って少し頭すっきりさせてきてください」
ヤバイ、これは本気で怒らせたかもしれない。こちらを振り向きもせずにさっさと立ち上がり、藤堂は客間を通り過ぎて部屋を出ていこうとする。
「待った! 行かないで! ごめん! 本当に悪かった」
こんなところに来て喧嘩なんてしたくない。もうそもそも誰が先にとか、あとからどうとか、どっちが悪いとかそんなのはどうでもよくて。ここまで来てギスギスしたまま帰るとかは絶対嫌だ。
「俺も頭を冷やしてくるので、ゆっくりお風呂に入ってください。内風呂まだ入ってないでしょう」
「……藤堂」
情けなくしょげて、捨てられた犬か猫みたいな気分になってしまった。けれどそんな僕を振り返り、藤堂は困ったように笑って肩をすくめた。
「心配しなくても帰ってきますよ」
「絶対?」
「当たり前でしょう。ちょっとだけ行ってきます」
いってらっしゃいと見送ると、急に部屋の中がしんとなる。昨日も今日も僕は失敗してばかりだ。それなのに最後には必ず笑って僕を受け止めてくれる。そんな優しい藤堂に涙が出た。
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