夏日03

 いつだって彼の隣に立つのは自分なのだと主張したくなる。でもそれはまだ叶わないのだということも充分に理解している。だから二つの感情のあいだに挟まれて、時折身動き出来なくなる。そして困ったように笑う彼の顔を見るたび、己の小ささを実感するのだ。

 自分が傍にいなかった彼の時間の中には、自分の知らないことがたくさんある。そんな空白はどんなに埋めようとしても埋まらない。知ることは出来ない。けれど心を焦がすような焦燥感はいつまでも胸の中でくすぶり続ける。確かに二人の手は強く繋がれているということはわかっているのに、どうしていつまでもこの不安は尽きないのだろう。

「優哉っ」

 突然響いた名前を呼ぶ声と、なにかを叩きつけたかのような大きな音。その声と音に肩が無意識に跳ね上がった。物思いにふけっていた思考が現実に戻ると、視界には窓の向こうで青空の中に流れている雲が映っていた。
 頬杖を付いていた腕をおろし視線を動かせば、目の前には心配そうにこちらを見つめる弥彦がいた。そしてさらに顔を動かせば、机に両手を付いたあずみが俺を見下ろしていた。

「なんでお前がいるんだ」

 席が自分の前である弥彦がいるのは自然と理解出来た。しかしあずみはクラスが違う。不思議に思い首を傾げると、弥彦は苦笑いを浮かべ、あずみは呆れたように肩をすくめた。

「もう帰りのホームルーム終わったよ」

「え?」

 弥彦の言葉に目を瞬かせ教室を見回せば、室内は人がまばらで、皆帰り支度をしていた。

「ねぇ、そんなことより今日はバイト休みでしょう? 私に付き合いなさい」

「は? なんで」

「どうせマミちゃんがうろうろしてて、先生のとこ行けないんでしょ」

 不遜な態度で言い放つあずみに眉をひそめれば、身を屈め耳元で囁かれる。その言葉に不愉快さを隠さず睨むが、まったく意に介さずあずみは口元に手を当てて笑った。

「駅前に新しく出来たケーキが美味しいって評判のカフェに行きたいの」

「冗談じゃない、友達と行けばいいだろ」

 満面の笑みを浮かべるあずみに素っ気なく返すと、急にムッと顔をしかめてこちらに恨めしげな視線を向けてくる。途端に不機嫌になったその様子に驚き弥彦を見れば、眉尻を下げて困ったように笑っていた。

「仲のいい友達が二人とも用事があるんだって」

 小さな声で俺にそう言って弥彦はちらりとあずみに視線を向ける。そこには頬を膨らませてふて腐れている顔があった。

「さては二人とも男が出来てお前とは遊んでる暇なくなったんだろ」

「うるさーいっ、今日は絶対に両手に花で行くんだからっ」

 顔を真っ赤にしながら眉間にしわを寄せたあずみは、俺と弥彦の腕を掴むと有無を言わせない調子で強く引っ張る。冗談で言ったつもりだったがどうやら図星だったようだ。

「わかったから引っ張るな。ったく、お前は俺や弥彦とばかりつるんでるから男が出来ないんだろ」

「はーやーくーっ」

 俺の言葉は聞きたくないのか、遮るようにあずみは大きな声を出し、机をバンバンと叩いた。

「ショートケーキにチーズケーキにガトーショコラにシフォンケーキに」

「一体いくつ食べる気だよ」

「三人いるから最低三個は食べられるもんね」

 教室での宣言通りに、校舎を出るとあずみは俺と弥彦の腕に自分の腕を絡ませ、両手に花とやらを満喫しているようだった。真ん中で機嫌よさそうに笑うあずみを俺と弥彦は苦笑いで見下ろしていた。

「ケーキならいくらでも入っちゃう」

「あのな、別腹なんて存在しな、い」

 軽口をたたくあずみに呆れながら、視線を上げた瞬間。足早に俺たちを追い抜いていく背中が視界に入った。そしてその背中を見た途端、俺は言葉を詰まらせてしまった。

「優哉、どしたの?」

 じっと遠ざかっていく背中を見つめ、いつの間にか足を止めていた俺に、弥彦は不思議そうに声をかける。その声に我に返って、なんでもないと首を振って俺はまた足を踏み出した。目の前にあった背中は校門を過ぎ見えなくなった。

 楽しげに笑い合う弥彦とあずみの声が少し遠く感じる。二人には気づかれないように息を吐き出し、先ほど見えた背中を頭から追い出そうとするが、混乱し動揺したいまの状態ではそれは叶わなかった。心音が早まり握った手のひらに汗がにじむ。

「……」

 学校の前にあるバス停へ向かうために校門を抜け、俺たちはいつものように右へ曲がった。そこでまた俺は息を飲んだ。バス停で佇む見覚えある人の姿。人違いだと思いたいくらい胸の奥にざらりとした嫌なものがよぎる。しかし目の前に見える横顔は見間違えようもなかった。

 透き通るような白い肌に日本人離れした高い鼻梁。陽射しを受けて煌く金茶色の髪を首元で結い、淡いブルーのサングラスをかけた目の前のその男は、平凡なこの場所にそぐわない華やかさをまとっていた。
 近づく俺たちの気配に気づいたのかそいつはふいにこちらを振り返った。

「うわっ、顔小さい! すごいスタイルいいね。モデルさんかな?」

 振り返ったその人を見たあずみは、驚きながらも小さな声で俺たちに話しかけてくる。弥彦もまた少し驚いたように目を瞬かせていた。でも俺は一人、険しい顔をしてその顔を見つめていた。
 そんな俺の視線を訝しく思ったのか、目の前のその男は首を傾げサングラスを外すと、こちらをじっと見つめ返してきた。そして数秒、緑色の瞳が驚きに見開かれた。

「びっくりしたぁ。一瞬わからなかったよ」

 俺の心の内など気にも留めないような笑みを浮かべ、その男――月島渉は俺に向かって手を挙げひらひらと振って見せた。

「ふぅん、なるほど。こうして制服着てると確かに高校生だね」

 立ち止まっていた俺たちに近づくと、月島は顔を上から下へと動かし俺の姿を物珍しげに見た。そしてその不躾な視線に俺が顔をしかめると、小さく笑って目を細める。

「なんであんたがこんなところにいるんだ」

 校庭ですれ違ったことを考えれば、学校に用があってきたことは想像出来る。しかし一体なんの用があってきたのか――まさか彼に会いに?

「ふふ、気になる?」

 俺の顔を下から覗き込み、からかうような視線を向けるその仕草に、胃の辺りがカッと熱くなった。苛立ちが心の中で膨れ上がる。しかしいまにも掴みかかりそうな雰囲気を感じ取ったのか、あずみが俺の腕をぎゅっと強く握った。

「そんなに怖い顔しないでよ。俺はねぇ、佐樹ちゃんのお願いで部活の手伝いするために来たんだよ」

「部活?」

 肩をすくめて笑う月島の顔を俺は訝しげに見つめた。けれど大人しく隣で黙っていたあずみが小さな声を上げた。その声を俺は不思議に思いあずみの顔を見る。その表情は花が咲いたかのように明るく、目が輝いていた。

「あ、あの。もしかしてフォトグラファーの月島渉さんですか?」

「え?」

 人目を憚るように小さな声で尋ねたあずみに、月島は驚いたように目を丸くした。

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