別離27

 ホテルのエントランスを抜けエレベーターホールへと向かう。開かれたエレベーターの向こうは夜の闇に光が点り綺麗なものだったが、緊張がピークに達し始めた僕の目にはほとんど映らない。
 ぐんぐんと上昇していくエレベーターと共に緊張までもが高まっていくようだ。荻野さんに会う前の緊張など可愛いものだと感じるくらい僕は固まってしまっていた。そんな緊張が伝わったのか、隣に立つ荻野さんが背中をとんとんと軽く叩いてくれる。

「すみません」

「大丈夫ですよ。主は物腰の柔らかい人です」

 顔がこわばっている僕を見て荻野さんは小さく笑い、何度も優しい声で「大丈夫」と囁いた。少しばかりあやされる幼子のような気分になってしまったが、それでも僕はその声に励まされるように前を向いた。

「そういえば、主と呼んでる方は荻野さんとどういった関係なんですか?」

「俺と主の関係ですか、そんなに珍しいものではないですよ。単なる社長と秘書です」

「秘書、ですか。社長とは呼ばないんですね」

「ええ、あの人が敬称を嫌がるので、普段はまた別の呼び名です」

 肩をすくめて笑う荻野さんの表情を見ていると、主と呼ばれる社長さんは、ただの仕事のパートナーにしては距離が近く、なんとなくもっと親しい間柄のようにも感じられた。友人や家族、そのくらいの距離感だ。

「あの、藤堂は荻野さんを頼ってきたんですか?」

 そんな二人の元にどんな理由があって藤堂はやって来たのだろう。やはり昔馴染みの荻野さんを頼ったのだろうか。それとも二人が藤堂の元へやってきたのか。社長さんがどんな人かわからないので、その人がなぜ藤堂を保護する気になったのか、その辺りもよくわからない。

「それは……あとで主に聞いてください」

 荻野さんが口を開きかけた時、ちょうどエレベーター内に到着音が響く。ゆっくり開いた扉の向こうは室内を照らす照明が淡く落とされ、青色を放つ間接照明が灯されている。
 エレベーターを降りて店の入り口へと向かうと、受付にいた人がこちらを見てにこやかな笑みを浮かべて頭を下げた。

「荻野様いらっしゃいませ」

「もう来てるかな」

「はい、ご案内します。君、二十五番にご案内して」

 受付の人はちょうどこちらへやって来た歳若い店員に、僕たちを案内するよう指示を出す。それを心得ていたかのように店員は満面の笑みを浮かべ、僕たちを先導した。

 すでにこの店の常連なのだろう荻野さんは、慣れた様子でほの明るい店内を進んでいく。この店はワンフロアすべてが客席になっているようだ。バーテンダーのいるカウンターバーのほかに、テーブル席が五十席くらいはあるだろうか。
 席は一つひとつがほどよく離れていて、落ち着いて会話をできそうだなと思った。そして特に窓際の席がお勧めなのだろう。ガラス張りの窓の向こうは静かな夜景だ。ここは高層階だから見晴らしもいい。

「あちらでお待ちになっております」

 先を歩く店員のあとをついて行くと、彼は右腕を上げ店の中程にある窓際の席を指し示した。数メートル先にはこちらに背を向け座っている人がいる。

「あそこにいるのが主です。俺はこの辺りで待っていますので、なにかあれば呼んでください」

「え? 荻野さんは一緒じゃないんですか?」

「ええ、俺がいると二対一になってしまいますよ。それに二人のほうが話も聞きやすいでしょう」

 同席してくれると思っていた荻野さんの唐突な言葉に、激しくうろたえてしまった。まさか一人で向かうことになるとは思わなかった。背中を押されて思わず一歩踏み出すが、踏み出した足はそこで止まってしまう。

 一度落ち着いたのにまた緊張してきた気がする。しかしあと数メートルだ。こんなところでもたもたしている場合ではない。
 待たせ過ぎて気分を害してしまったら大変ではないか。それで藤堂に会えなくなるだなんてことになったら、せっかくここまで来た意味がなくなってしまう。

「よし」

 深呼吸をして息を整えると、僕は意を決して足を踏み出した。一歩一歩近づくうちに、こちら向けられている背中がはっきりと見えてくる。

「ん?」

 近づいていくうちになにか不思議な感覚に捕らわれた。けれどそれがなんなのか、緊張の固まりであるいまの僕にはよくわからなかった。そしてわからぬまま、僕は席に辿り着いてしまう。
 テーブルと椅子は窓のほうを向いていたので、僕は椅子に座る人の斜め後ろに立った。そして小さく息を吸い込むと思いきって声をかける。

「あ、あの」

 決死の覚悟で声を出したら思いきり上擦ってしまった。ひっくり返った自分の声に頬が熱くなり、思わず目を閉じて顔を俯けてしまう。相手がこちらを振り返った気配を感じたが顔を上げられなかった。心臓が急激に早くなって冷や汗が吹き出す。

「おや、どうしてここに?」

「え?」

 聞こえてきたのは心底不思議そうな声。そして聞き覚えのある声だ。この声を聞き間違えることがあるとしたら、それは一人だけだ。声を聞いて先ほどの不思議な感覚がなんだったのか、その正体に気がついた。後ろ姿に至極見覚えがあったのだ。
 僕は勢いよく顔を上げ、こちらを見ている人と視線を合わせた。

「時雨さん」

「佐樹、もしかしてあなたがそうなのですか?」

 目の前で小さく首を傾げるのは藤堂によく似た面差しをしていて、そして聞き間違えてしまいそうなほどよく似た声をした人。
 藤堂が入院していた病院前のバス停で出会った、橘時雨さんだ。彼も僕を見て驚いているが、僕もまた驚きで戸惑っている。どうして時雨さんが藤堂と関わりがあるのだろうと、頭の中は疑問符でいっぱいだ。

「あの、時雨さん」

「立ち話はなんですから、座ってください」

「あ、はい」

 立ち尽くす僕に時雨さんは優しい笑みを浮かべて隣の席を勧めてくれた。二つの椅子は横に並び、ハの字をした配置になっている。静かな空間で大きな声を出さずとも話し合える絶妙な距離感だ。
 勧められるままに空いた隣の椅子に腰かけると、時雨さんはもたれた身体を起こして僕の顔を覗き込むように身を屈めた。

「驚きましたよ。佐樹にこんなところで会うなんて」

「僕もいますごく驚いています。まさか時雨さんがいるとは思わなくて」

「どんな男が来るのかと警戒していたんですけどね。少し拍子抜けしました」

 肩をすくめて笑う時雨さんに、思わず苦笑いを返してしまった。荻野さんはいったい僕のことをどんな風に説明したのだろう。
 ちらりと視線を後ろに流すと、離れた席に座っていた荻野さんと視線が合った。ひらひらと振られた手に思わずため息がこぼれてしまう。きっと好印象を与える説明はされていなかったに違いない。

「それにしてもどうして時雨さんが藤堂を保護することになったんですか? 荻野さんの知り合いだから、ですか?」

「いえ、奈智が優哉と面識があったのは偶然ですよ。それには私も驚きました。保護という言葉が正しいのかわかりませんが、私が優哉を病院から連れ出しました」

「連れ出す?」

 てっきり藤堂は自分の意志で病院を退院したのだと思っていたが、そうではなかったのだろうか。もしかして時雨さんの助言かなにかを受けて身を隠すことにしたのか。

「あのままでは追い詰められていく一方でしたから」

「その原因は伯父や両親のことですか? それとも僕でしょうか」

「優哉を取り巻くすべて、ですね。それには私も含まれていますよ」

 少し悲しそうな目をした時雨さんは、俯きテーブルに置かれたグラスを手に取ると、琥珀色の液体を喉に流し込む。そして小さく息をついた。

「時雨さんと藤堂の関係っていったい」

「優哉は私の大事な子です」

 僕の問いかけに時雨さんは、手にしたグラスをテーブルに戻しふっと目を細めて笑う。その表情に思わず胸がドキリとしてしまった。違うとわかっているのに重なる表情にいちいち反応してしまう。なにげない表情までもよく似ている藤堂と時雨さん。これは偶然なのか、それとも必然なのか。
 僕はそれを確かめるようにまっすぐと時雨さんを見つめた。

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