世の中、相手に求めるのは気遣いや優しさなのだそうだ。放課後の部室で理想の相手談義に花咲かせている生徒たちに曖昧な相づちを打ちつつ、自分を振り返ってみる。
気遣い、優しさ――それは間違いなく優哉にはあるものだ。だが自分にあるのかは甚だ疑問だ。そもそも僕は人の気持ちを察するのが得意ではない。それでも彼といるようになってからは少しくらい成長しているとは思うのだが。
「で、やっぱり、辛いなぁって思った時に察して気持ちをかけてくれる人って大人だし格好いいよね」
「みんな年上の男の人がいいのか?」
「んー、限るわけじゃないけど。年の近い男子って子供って感じがするよねぇ」
「ふぅん、そんなものなのか」
向こうは十五歳も年下だけれど、いままで幼いなと感じたことはない。逆にたまに年相応なところを見てほっとしたり可愛いなと思ったりすることがある。
大人過ぎる子は心配になるが、若い子から見ると自分とは違うスマートさが格好良く見えるのだろうか。この歳の頃の感覚なんてもう遙か彼方過ぎて思い出せない。
「男子的には?」
「年下の子なんかは守ってあげたくなって可愛い」
「大人の女の人が甘えてくれたらぐっとくる」
こう聞くと女子と男子の好みは相違していないと思うのだが、なにが違うのだろう。優しくされたいと優しくしたいは同じではないのか?
しかし思わず首を傾げたら双方はなにやら睨み合いを始めた。自分にはわからないなにかが食い違っているようだ。
「そう言うけど、結局男子って甘えたい生き物だよね」
「は? お前たちだってただ単に甘やかされたいだけだろ」
うん、これは目の前にいる年の近い相手が理想とは違うって言うだけだな。もう少し色々な出逢いをすれば意見も変わってくるはずだ。
話はまだまだ平行線で続いていきそうに思えたが、することが終わってのお喋りだったので残っている生徒に帰宅を促すことにした。
「西岡先生はどうなんですか!」
「え? んー、相手には優しくしたいし、甘やかしてもあげたいよ。でもそれは片方だけじゃなくて、お互いに同じだけの気持ちをかけられるのがいいんじゃないのか?」
「いまの人とそういう関係は保ててるの?」
「まあ、持ちつ持たれつ。……いや、実際は世話になっていることのほうが多い気はするけど。だけどしてあげたい気持ちは強いかな」
なんでもしてくれるのは嬉しい。しかしその分だけなにかが返せたらいいなと常々思っている。とは言え、そんな隙が全然ないから敵わないのだ。ああも完璧だと手も足も出ない感じがある。
家事も料理もできるし、人としても尊敬できるし性格もいい。たまに意地悪いところを見せるがそれも愛嬌か。
けれどそんなことを思っていたのに、思いがけず彼の弱い部分に触れることになる。
その日は水曜日で店の定休日だった。休みとは言っても仕事の用事があって出掛けていたり事務仕事をしていたりで、休んでいるところはあまり見かけないのだが。
帰宅して玄関を開けたら家の中が暗くて、出掛けているのだろうかと思った。もう少し家でゆっくりするとかしたらいいのにと思いながらリビングに繋がる戸を開く。
そこは薄ら明るくて、カーテンが閉められていなかった。やはりまだ帰っていないのだなと窓に近づいて行ったら、ソファに人の気配があって飛び上がってしまう。
薄暗い中で目をこらしたらそこに優哉が横になっていた。
「珍しいな、こんなところで寝ちゃうなんて」
たまに昼寝をすることくらいはあるが、こんな夜に寝ているのは初めてではないだろうか。しかし店が順調な分だけ忙しい毎日だから疲れていても仕方ないと思う。
起こすのも可哀想なので、そのまま寝かせてやろうと寝室から毛布を持ってきた。まだ二月に入ったばかりで季節は冬だ。暖房が入っているとは言え肌寒いだろう。
「……ん、佐樹さん?」
「あっ、悪い! 起こしちゃったな」
「いえ、すみません。帰ってきたのにも気づかなくて」
毛布を掛けてやるとその感触で目が覚めたのかまぶたが持ち上がる。しばらく瞬きを繰り返してからゆっくりとこちらを見上げた。
「大丈夫か? 疲れが溜まっているんじゃないのか」
「平気です。あ、晩ご飯まだで、少し待っててください」
「適当でいいぞ」
「下準備は済ませていたんですぐ用意します」
「わかった。じゃあ、着替えてくるな」
テーブルの眼鏡を取り立ち上がった優哉はやんわりと笑ってキッチンへと足を向ける。こちらはそのあいだすることもないので寝室へと移動した。
朝に起きた際に乱れていたベッドは綺麗に整えられていて、クローゼットを開けば洗濯物も片付けられている。朝から晩まで家のことや仕事、僕の世話までと抜かりがなさ過ぎる。
もう少し楽をさせてやる方法はないものだろうか。普段彼が店で仕事をしているあいだは洗濯や掃除くらいは僕もするけれど、朝昼晩と食事は優哉が用意してくれている。
朝の食事くらい自分でと思うのだが、弁当を作るついでだからと笑みでスルーされたことがあった。弁当をやめて学食に切り替えればと考えもするが、僕に食事を作るのは楽しみだからと言われると言葉が出ない。
「僕にできることなんてたかがしれてる、けど。なにかないかなぁ」
しかしいま以上にしてあげられることが見当たらない。甘やかしてあげることくらいかな。ああ、あとはよくねだられる夜の――。
「今日はしょうが焼きか」
「はい」
ほんのり香ってきた生姜の香りが食欲を誘う。夕食はいつもリビングのテーブルで取るので、茶碗にご飯をよそったりできた品を運んだり。
今日はしょうが焼きにポテトサラダ、目玉焼きと豆腐と油揚げのお味噌汁だ。それらがすべてテーブルに載る頃にようやく優哉も腰を下ろした。ダイニングテーブルがないので床に座布団を敷いて座る。
そろそろ本当にこたつが欲しいと言ったのだけれど、絶対にそこで寝るから駄目だと言われた。こういうところだけは厳しいんだ。
「いただきます! ……、ん?」
まずは味噌汁と椀を持ち上げたが口に含んで一瞬首を傾げてしまう。わりと僕は薄味を好むからそれに合わせてくれているのだが、いつもよりちょっと味が濃い。
まあ、しかしそれほど大きく違うこともないので気にせず次へ。今度はポテトサラダを摘まんだ。
「んん?」
味はいつもと変わりないけれど、茹でが足りないのかちょっとジャガイモに芯が残っている。一つ二つと違和感を覚えて、もしかしてとしょうが焼きを噛んだら、固くはない、けど。
しょっぱい。これ砂糖じゃなくて塩を入れてないか? 塩分がやばい。
「なあ、優哉」
これだけ僕が違和感を覚えているのだから本人も気づくだろう、と思ったが、表情一つ変えずに食べている。そしておもむろに目玉焼きにソースをかけた。
それは別段珍しいことではないかもしれないけれど、優哉は目玉焼きには醤油派だ。それに驚いて固まっていたら、今度は胡椒を手にしてその蓋を――根元から開けた。
「ちょっと待て!」
それを逆さに振ったら目玉焼きは胡椒の山だ。慌てて大声を出して止めたらきょとんとした顔で見つめられる。そこでさらになにかがおかしいと気づく。じっと目の前の顔を凝視すると、いつもより少し瞳が潤んで見えた。
顔色はいつもいいわけではないけれど、普段より青白いようにも見える。
「優哉、お前、もしかして熱ないか?」
「えっ?」
「ああっ、駄目だ、まったく自覚ない。熱、熱を測れ!」
箸を置いて勢いよく立ち上がると僕はリビングの薬箱を開けた。そして体温計を掴むとそれを優哉に突きつける。しかし状況を理解していないような顔で見上げられた。
仕方なしに手を掴んで体温計を握らせる。そうしたら触れた手が火照っているかのように熱かった。
「いいから測れ! 絶対に熱があるぞ、お前!」
僕の剣幕に目を瞬かせるけれど、さすがに言うことを聞かないといけないと思ったのか大人しく体温計を脇に挟む。そして待つこと一分半。ピピッと鳴ったそれを受け取って愕然とした。
「馬鹿! お前こんなに熱あるのに気づかないとかっ、ほんと馬鹿!」
三十九度四分――普通の人だったら具合悪くて動けなくなるくらいの高熱だ。それに気づかないとかどれほど感度が悪いのか。通りで味覚もおかしくなるわけだ。
いつから熱が出ていたんだろう。そう言えば、朝にゴミの日を間違えてたな。ってことは朝起きた時から熱があったってことか。それなのに一日まったく気づかず動くなんて、鈍いにもほどがある。
「食欲もないんだろ? とりあえず今日は寝ろ」
「風邪、ですかね?」
「疑問形にするな。風邪だよ風邪! って言うか高熱だしインフルエンザとかじゃないだろうな。明日は絶対に病院な」
「……そう言われると具合悪い気がしてきます。寒気が、するような」
「寒気がして当然だ。ほら、寝るぞ」
いつもよりぽやんとしたその様子にため息が出る。しかしこちらも調子を崩しているのに気づかなかったのが悪い。急に動きの鈍くなった優哉を早々に布団に押し込むことにした。
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