――竜也、いますぐ引っ越してこい。
それは夕食中に近況報告をした時の、九竜さんの一言。
彼の家へ訪れるようになってから、たびたび言われることはあったけれど、今回の一言は有無を言わせない調子だった。
普段はものごとを強引に進めない人なので、少し驚いた。
とはいえ自分でも悩んでいた部分もあり、きっぱりと決断する状況になったのは喜ぶべき結果。
九竜さんと一緒に暮らせる。それを考えれば、自然と顔が緩んでしまう。
とはいえ正直言えば少しだけ不安もあった。この先、別れることになったら、離れる時にひどく辛くなるだろうなと。けれどいまから先のことを考えても仕方がない。
きっと九竜さんならいまを楽しめ、そう言ってくれるだろう。後ろ向きになりがちなのは、僕の悪い癖だ。
翌日に管理会社へ連絡を済ませ、九竜さんの休みに合わせて、引っ越しに向けた買い物へ。
休日のお出かけは、飲酒をする予定がない場合、九竜さんの車で移動するが常。
この日も安心安全な彼の運転。助手席に座っていて車酔いしないのは、この時だけだ。
「竜也、仕事用の机と椅子、あれは買い替えたほうがいいな」
「え? そうですか?」
運転をしながら、チラリとこちらを見た九竜さんの言葉に、思わず首を傾げると、少しばかり苦い顔をされた。しかしいま使っている机は、長いこと使っているが別段不便はない。
傷んだところもないし、まだ十分使っていける。
「毎日使っていて、気にならなくなっているかもしれないが、机の高さも椅子の高さもバランスが悪い。仕事をしている時、猫背になっているだろう」
「……言われてみれば、そんな気もします」
いつも作業したあとの肩こりなどがすごい。長時間のパソコン仕事なので、仕方ないと言われればその通りなのだが、作業環境が影響しているとは、思いもよらなかった。
「もう少しまともなのを買ってやる」
「え? いえ、そこは自分で」
「家具を処分するのも、運び出すのも金がかかる。言い出したのは俺だから、最低限のことはする」
「でもいつもしてもらってばかりで」
そもそも九竜さんといて、財布を開いたことがない。否、開かせてもらえたためしがない。
彼曰く、普段からあまりお金を使わないから、人より貯えがあるだけだ――そう言っていたものの、申し訳なさが湧く。なにかお返しできるものがあればいいのに。
「なにかしたいなら……そうだな。食器でも選んでもらうか」
「お揃いで買ってもいいですか!」
「好きなものを選べばいい」
考えていることを見透かして、先回りする九竜さんはさすがだ。
そういえばいつも外食が多いみたいだから、食器、結構不揃いだった。お茶碗とかもなかった気がする。
お揃いの食器、九竜さんと一緒。すごく特別なことのようで、わくわくとした気持ちが溢れてくる。
二人のものを買ったら、これから先の未来が、ずっと続いていきそうに思える。九竜さんとだったら、失敗せずに済むかな?
「まず先に家具から見に行くか」
「ダイニングテーブル、置いてくれるんですよね?」
「ああ、ちゃんと二人用のな」
九竜さんの家には、ほとんど家具は揃っている。それでも食事をするためのテーブルがなかった。
一人で簡単に済ますので、カウンターテーブルで事足りていたようだ。これからは一緒に食事をしてくれる、と言うことだろうか。
ますます楽しみが増えた。最近はあの部屋で、一緒に過ごすことが増えたけれど、暮らすということは、プライベートを共有することだ。
正直まだまだ九竜さんという人の、50%も知れていないと思う。もちろん隠しごとをされている、というわけではない。
それでも見えていない一面がきっとあるはずなのだ。彼の色々な顔を知りたい。自分のこともたくさん知って欲しい。
気持ちがぐいぐい前へ進みたがる。いままでそんな風に、考えたことがなかったのに。
これまで付き合ってきた人たちに、いい加減な態度をしてきたつもりは、まったくなかったけれど。やはりどこか本気になりきれていなかった。
人として大好きだった。ただそれ以上でもそれ以下でもなく、恋愛をしていたつもりだったのだろう。
「どれがいいですかね」
着いたのは、郊外にある大きなインテリアショップ。ものすごく広くて、自分一人だったら迷子になりそう。
売り場の一角には様々なタイプの、ダイニングテーブルがある。思い浮かぶ基準は、いま自分の家にあるテーブル。あの二回りくらいの大きさが、いいだろうな。
九竜さんは身体が大きいし、二人分の器や皿を並べても、十分な広さが欲しい。
それプラス、彼の部屋にマッチするデザインがいい。色合いも統一された、シックなインテリアだから、テーブルだけ浮いてしまうのは、格好が悪いよね。
「九竜さん。これ、格好いいです」
ぐるぐると歩き回って見つけたテーブル。メタリックな感じのシルバーブルーで、天板の縁が木製になっていて、大人な雰囲気のダークカラーだ。
中心部がガラスで、重厚感もあってすごくお洒落。そこで食事する九竜さんを想像しても、しっくりくる。
「その色は好みだが、こっちのシルバーがいいんじゃないか? 竜也の好みなら、こっちだろう?」
「あ、はい。でも」
隣の九竜さんが指さしたのは、自分が選んだものと対照的で、ライトな色合い。ナチュラルカラーで、優しく爽やかな印象。
「俺が一人で使うわけじゃないんだぞ。あんたの好みも反映させろ」
「いいんですか?」
「もちろん、いいに決まっている。あんたは少し、人に合わせようとしすぎだ」
「ありがとう、ございます」
僕を優先してくれる気遣いに、くすぐったい気持ちになる。いつだって誰かに合わせること、それが普通だと思っていた。
「我がままや甘えの一つや二つ、言ってもらえたほうが、俺としては嬉しいんだけどな」
伸びてきた手が、優しく頭を撫でてくれる。そのぬくもりに口元が緩んでしまって、ニヤニヤが止まらない。
これ以上甘えていいのかなって思う。それでも柔らかい眼差しで見つめられると、寄りかかってしまいたくなる。
「これが、いいです」
「じゃあ決まりだな」
「あの、えっと」
「ん?」
「嬉しいです」
「あんたはそうやって、笑っているほうが可愛い」
親しみのこもった言葉。見た目だけではなくて、内側も褒めてもらえている気持ちになれる。
九竜さんの言葉は不思議だな。向けてもらえるすべてが、胸を温かくする。時折むず痒い時もあるのだが、裏表がなくて気持ちがいいほどだ。
彼ほど嘘のない人に、僕は出会ったことがない。だからこそ手放しで懐へ飛び込んでいけた。
この人は絶対に、突き放したりしない。そう信じられるだけの言葉と行動を示してくれる。
そしてなにより、一つの場所に留まらなかった人が、僕を傍に置いてくれている。その事実だけで、なにもかもがプラスに思えた。
すごくモテる人だっただろうことは、想像が容易い。それなのに恋人は僕が初めて。
喜ばずにはいられない。浮かれるなと言うほうが無理だ。
「九竜さんの隣にいると、幸せがどんどん湧き出てくる感じ」
「それはなによりだ。俺はあんたが幸せを感じていてくれれば、それだけでいい」
やんわりと細められた目に、視線が絡め取られる。目が離せなくて、頬がじわじわと熱くなってきた。
自分にはもったいないくらいの素敵な人。いつも一緒に歩いていると、九竜さんを振り返る女性がすごく多い。見惚れるように見つめている人もたくさんだ。
だとしても彼の視線の先は自分。優越感ってこういうことだよね。出会う前の自分だったら、自信が持てなくて、嫉妬していただろうな。
隣にいるのが、ふさわしくないのではと。
「いつも九竜さんから色んなものもらってます」
「そうか?」
「はい。最近ちょっと、前向きになってきました。きっと九竜さんがどんなことも肯定してくれるから。自分で行動を起こせるようになってきたんだと思います」
「新しい仕事もするようになってきたんだったな」
「そうなんです! 興味があったけど、自分には向かないかもって尻込みしてた仕事、やってみたらすごくやり甲斐があって楽しいです」
「じゃあ、竜也はずっと俺といるべきだな」
「傍に、置いてくださいね」
そっと伸ばした指先で、シャツの袖を掴んだら、微笑みとともに手を握られた。大好きな大きくて温かい手。
つなぎ合わせるように指を絡めて、ぎゅっとその手を握り返した。
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