暮らす拠点が、九竜さんの家がメインになった頃。九竜さんから提案があった。広い部屋に一人きりは寂しいだろうから、動物を飼ってもいいと。
あまり小さすぎない生き物、という彼のリクエストを聞いて、一緒に散歩できる犬がいいだろうと思った。
マンションのエレベーターやロビーを行き来するので、キャリーで移動できる小型犬か中型犬。
自分の仕事もあるので、子犬の面倒を見るのは大変だろうから、成犬を里親から探すことになった。
「どの子も可愛くて悩んじゃうな。なるべく大人しい子がいいよね。九竜さんは騒がしいの好まないだろうし」
子犬がやはり人気なのか、大きな子は結構たくさんいる。会ってみないと相性はわからないし、入れ違いで交渉中になる可能性もあるだろう。
多めに目星を付けようと思っているのだが、多すぎてもよくない。しかしみんな可愛くて、全然決まらないのだ。
サイトの写真を眺めているだけで、気持ちが癒やされる。みんな新しい家族を待っているに違いない、そう思うと余計に考えてしまう。
「あれ、この子。昨日までいなかったな」
黒い虎柄みたいな模様のわんちゃん。あまり見たことのない毛色だ。ミックス犬なのかと思ったけれど、違った。
「甲斐犬? なんとなく聞いたことがあるような。この子も可愛い。あんまり人慣れしてないんだ。飼い主にしか懐かないタイプかな」
少し寂しそうな目をした男の子。ひどく気にかかったので、顔合わせの候補に追加した。
メールで予約の申し込みを済ませると、ちょうどスマートフォンが着信音を響かせる。この音は九竜さんだ。
「あ、今日は早く上がるんだ。久しぶりかも」
メッセージにはもう少しで終わるので、ご飯はどうだ――とある。数日前に、最近忙しくて飲みにも行けていないから、そろそろ行きたいと言ってた。
九竜さんって、元は毎日飲んでしまうくらいにお酒好きな人だから、ストレスが溜まっていそう。
「急いで準備しよう」
すぐに迎えに行くことを返信して、開いていたノートパソコンを閉じた。デートするのも久しぶりだ。
マンションから九竜さんが勤める会社までは、バスと電車を乗り継いで四十分くらい。
迎えに来るなら会社まで来いと言われた。駅の人混みで待たせるのは心配だから、という理由らしい。
心配しすぎ、と言いたいところだけれど、身に覚えがありすぎて反論できない。どうしてか僕は変な人に遭遇する確率が高い。
我ながら驚くのだが、朝の散歩中に襲われかけたのは、一度や二度ではない。しかも全部違う人。
おかげで九竜さんに、散歩禁止令を出されたくらい。前はここまで酷くなかった気がする。
なにが原因なのかわからないものの、気をつけるに越したことはない。朝晩のひと気の少ない時間は、出掛けないようになった。
なので今日のお出かけはすごく嬉しかった、はず――なのだけれど。電車に乗って十五分ほど立った頃に、背後に立つ人がどんどんと近づいてくるのがわかった。
家を出る前に見た時刻は十九時だった。タイミング的に帰宅する人たちで溢れていて、大きく身動きがとれない。
避けようと思うと、周りの人たちに不満げな目を向けられる。
背中にぴったりとくっつくほどの近さに、鳥肌が立つ。そうこうしているうちに、手が尻に触れて撫でるようにしてくる。
痴漢はその人に隙があるからだ、という人もいるけれど、だったら一度経験してみて欲しいと思う。
声を上げた途端に素知らぬ顔をされたり、逃げ出されたりして、ひどくやるせない気持ちになったことが何度もある。
しかし好き勝手にされるのも癪だ。狭い中で身をよじって、後ろの手を掴もうと試みた。
「あれ?」
もう少しで触れそうになったところで、手が離れた。また逃げられるか、と思ったのだが、背後の気配は相変わらず。
電車の揺れを利用して、後ろ振り返って確かめたら、背後の男性が焦りを滲ませた顔をしている。
その人の視線の先を追うと、すぐ傍で女の人が、彼を睨み付けるようにして見ていた。
無言の中で緊迫したような空気。目線を落とせば、彼女が男性の手首を掴んでいる。
「下りなさい」
電車が減速して停車した、それと同時に女性の落ちついた声が聞こえた。その言葉を向けられた人は、どんどんと顔を青くする。
ウロウロと逃げ場を探すような目の動き。しかし男性は逃げ出すこともできないまま、電車から連れ出されていった。
思わず呆気にとられ、見送ってしまったが、発車の音楽が流れてとっさに僕も電車から飛び出した。
「あ、あの! ありがとうございました」
慌ててあとを追えば、意気消沈した男性が駅員に引き渡されるところだった。
女性に声をかけると、彼女は少し驚いた顔をしたあと、やんわりと微笑んでくれる。
まっすぐと見るとよくわかる、その人の目を惹く美しさ。
目鼻立ちのはっきりした、エキゾチックな顔立ちと、長い赤茶色の髪がまた印象的だ。ヒールと相まって、際立つ長身が迫力を持たせる。
真っ赤なルージュも全然媚びた感じがなくて、格好いい人といった感じ。女の人でこんなに勇ましい雰囲気がある人、初めてだ。
「気づくの遅くなってごめんね」
「いえ、気づいてもらえただけでも嬉しいです」
駅員室で状況説明をしたあと、再び電車に乗るため、彼女と一緒にホームへ向かう。
行きしな、これまでのことにも耳を傾けてくれて、すごく心配もしてくれた。
「あれは曜日や時間を見計らった常習犯ね。でも気が弱い男で助かったわ」
「でも手を掴んだだけで動きを止められるの、すごい気がします」
「ひねる方向があるのよ。人の身体の構造上、それをされると痛くて動けないわけ」
「なるほど。そういう護身術とか撃退法とか、詳しいんですか?」
「防犯や護身のグッズを取り扱った会社に勤めているの。たまに講習会を開いていてね、そういう関係で」
「新堂、蓮花さん。会社の社長さんなんですね」
彼女――蓮花さんは、鞄から取りだした名刺を手渡してくれる。裏を見ると地図が印刷されていて、都内の中心部にある有名なオフィスビルだった。
まだ若い印象があるのに、あんな好立地な場所に会社を構えられるなんて、優秀なのだろうな。
「あ、自分は」
「それはまた会う機会があった時でいいわよ」
我に返って鞄を開こうとしたら、優しい手で制された。その反応をじっと見つめ返すと、蓮花さんはにっこりと笑って、チャーミングに片目を閉じる。
「私が怪しい人じゃないとは限らないでしょう? ウェブサイトとか口コミを見て、安心できたら連絡をちょうだい。防犯対策の護身術を習える講習会、紹介するわ」
「こういうこと言う人が怪しいとは思えないです」
「駄目よ。いい人を装った悪い人かもしれないでしょう? 君はとても素直そうだから、人を少し疑う、警戒することを覚えたほうがいいわ」
「……よく宗教勧誘とか、押し売り販売を断れなくて、恋人に心配されてます」
「それは私でも心配するわ」
九竜さんがもう一人暮らしをやめて、引っ越してこいと言ったのは、そういうことの積み重ねだ。
断り切れず話を聞かされて、仕事の締め切りを破りそうになったり、必要のないものに契約させられたり。
住んでいたマンションはオートロックがないから、玄関先までやってくるので、断れないと捕まってしまうのだ。
その点、九竜さんのマンションはオートロックだけでなく、コンシェルジュもいる。よほどでない限りそんなことは起きない。
「でもせめて名前だけでも」
「じゃあ下の名前を教えて」
「竜也です」
「タツヤくんね。オーケー! 電話でも、メールでもすぐわかるわ」
「今日は、本当にありがとうございました」
きっかけは、あまりいいものではなかったけれど、蓮花さんとの出逢いは、なんとなくいいことのように思えた。
頼り甲斐があり、安心感が持たせるところ、少しだけ九竜さんと似ている。
一つ先の駅で降りた蓮花さんとは、電車の中で別れることとなった。
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